第5話 剣魔顕現

1 早朝の緊急連絡


 園長室にいた市川雷美のスマホが振動したとき、外はすでに明るくなり始めていた。

 夏の夜明けは早い。ただでさえ、聖林学園は山の上にある。朝の四時半ともなれば、明るくなってしまう。

「はい、もしもし」無料通信アプリからの着信だった。相手は、山口百鬼。もう京都の方の準備が整ったのだろうか?

「あっ、良かった雷美先生ですか!」百鬼の声は慌てていた。「起きててくれて助かった。みなさんまだ寝ているみたいで」

「ああ、あたしは、園長室で見張りが任務だから。府君祭の反閇へんばいには参加してないんですよ」

「とにかく良かった。いいですか、雷美さん、よく聞いてください。園長先生に連絡して本日の泰山府君祭は即刻中止するように伝えて下さい。細かい事情はあとでぼくから連絡します。とにかく、即刻中止させてください。そしてできれば、体育館の祭壇を撮影して、ぼくに画像を送ってほしい。あと、これはぼくの師匠である芹澤穂影には絶対秘密にしてください。いいですね!」

「なんか言っていることの意味が分からないんだけど……」

「とにかくすぐに園長先生を起こしてください。そして……」

「いや、園長先生は起きてる、かな」

「そうですか、では通話に出してください」

「いや、だから、もう、泰山府君祭は始まってるから」

「えっ!」百鬼の驚きは相当なものだった。一瞬絶句し、せき込むように詰問してくる。「どういうことですか! 府君祭は昼からでしょう? なんでもう始まっているんですか!」

「いや、夜明けと同時に始めるって、昨晩予定が変更されたんだけど。もう始まって結構経っちゃってるから、いまから中止って、それは……」

「うそだろ……」百鬼は訳が分からないという調子でつぶやく。「ちょってまってくれ……、なにがどうなってる? いったい天狼星はなにをするつもりなんだ? ……あの、雷美さん。あなたいま、どこにいますか?」

「あたしは、いま園長室にいるけど」

「そこから走って──すみません、全速力で走って体育館まで行ってください。そして、祭壇の画像をこちらに送ってほしい。いいですか? 落ち着いて聞いてください。府君祭を執り行っているのは、芹澤穂影なんて女じゃない。そういう名前の人間では存在しないんです。彼女は、本当の名前は芹澤天狼星、その正体は不屍者の王、比良坂天狼星なんです!」

「は? いやちょっとまって、言ってる意味が全っ然理解できないんだけど」

「いいからっ! いますぐ体育館まで走って下さい! ぼくたちは、まんまと騙されていたんです。すべてはあの天狼星の巧妙な罠だったんです!」


 雷美は躊躇いながらも、立ち上がり、そして走り出した。

 泰山府君祭を中止しろ? いやもう、始まってかなり経つ。いまさら中止って言われたって、どうにもなるものでもない。

 芹澤穂影が比良坂天狼星? 言っている意味が分からない。比良坂天狼星は男のはずだ。そして怪異な老人であると聞かされた。それがなんで、穂影なのだ? 第一、あんなに若くて美しい人が、篠の父を追って不死の謎を解いていたというのなら、年代が合わない。


 疑問に首を傾げながら、エレベーターで一階までおり、体育館のある方向へ走る。

 渡り廊下を走りながら、行く手からはすでに反閇する生徒たちの上履きが体育館の床をこする音が響いてきている。

 雷美は体育館の重たいスチール扉を、体重をかけて開く。

 中から紫煙と香のにおい、むせるような熱気が流れ出す。


 体育館の中は、全面が人の林で埋め尽くされ、中央の祭壇は見えない。生徒と、なかに若干まじった職員たちが、息を合わせてゆっくりとしたステップを踏んで、体育館のなかを回っている。それはまるで、海底で渦巻く魚群のように、壮大で規則ただしい動きだった。みながみな、表情を殺し息を詰め、集団催眠にかかったように無機質に動いている。

 この人垣をかき分けて中に入るのは難しい。いまの雷美は、それができるほど百鬼の言葉を信用していなかった。もし彼の言うことが勘違いだとすれば、雷美の妨害によって不屍者殲滅のために泰山府君祭を台無しにしてしまうことになる。


 びぃぃぃぃん!と弦を弾く音がする。

天蓬てんぽうぅぅぅっ!』

 遠くで法螺貝のように響く声がする。穂影の祝詞のりとだ。

 そして再び、びぃぃぃぃん!と弦を弾く音。

 人垣の頭の上に、一瞬白木の棒がのぞく。あれはおそらく、弓。弓の弦を弾いているのだ。

天内てんないぃぃぃっ!』

 穂影の祝詞のりと

鳴弦めいげんだ。弓の弦を鳴らしている」スマホ画面の中で百鬼がつぶやく。「そしてあの祝詞は、都藍兎歩とらんうほ。雷美さん、祭壇を、祭壇を見せて下さい」

「んもう」

 雷美は口をとがらせると、壁際に走り、階段をのぼって二階から、外周をめぐるキャットウォークに出た。この高さからなら、人垣を越えて中央の祭壇を覗き込むことができる。


 いま、中央の祭壇では、三方さんぼうに祭られた八振りの刀剣が灯火を受けている。展示しているときは抜き身だった八振りの呪禁刀は、いまは八振りすべて、きちんと鞘に納められ、下げ緒も浪人結びに結い上げられていた。そのうち大小揃いである『阿形切あぎょうぎり』『吽形切うんぎょうぎり』のみ、ひとつの三方に祭られているため、八振りの呪禁刀に対して、三方は七つであった。

 七つに並べられた呪禁刀の前には、七つの辛櫃からびつに収められた大御饌おおみけが備えられ、祭壇の八足ののまえで、狩衣かりぎぬ姿の穂影が足を引きずって反閇し、白木の弓を弾いていた。

『天衝ぅぅぅぅっ!』

 読み上げる祝詞が朗々と響いている。体育館の建物自体が揺れているようだ。


 カメラを体育館の中央に向けて、その様子を撮影しつつ百鬼に問い質す。

「どう? これでいいの?」

 が、百鬼はすぐに返答しなかった。

 ややあってから、うめくように声をもらす。

「……なんだ、ありゃ」

「は?」

「あの不気味な御幣ごへいは、新巫神あらみこがみの取り上げだ、すなわち死者の祭り上げにちがいない。冥界を永遠にさまよう死者の魂を取り上げ、神にしようとしている。なんてことだ……、これは泰山府君祭なんかじゃない。これは……、六道冥還りくどうめいかん祭だ。死者復活の儀式だ! 雷美さん、すぐにあの人を、あいつを止めてください! なにか特別な不屍者が甦る。早く!」


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