現代にして、未だに残る。型と風習にこだわり、その意味を解せぬ指導者と言う名の、ただのお目付け。
意味を知れば自ずと型に帰着する。但しそれは過程に過ぎず、後進にはその先を探求してもらいたいから、ショートカットとしての「教」があるというのに。
型を教えることは大切ですが、それだけでは「道」の進化はない。後進に対して「教」の意義と、「教を伝える」ことの意義と、「教を伝えることを教える」ことの意義まで教えてこそ真の「教」。
……思わずそんなことを感じる、実に味のある名脇役の登場でした。
作者からの返信
古武術こそが正しい!とは、言い切りたくないんですよね。当然反対の意見もある。
ただ、剣道やっている人の、「自分たちが正しい」的な狭量な視野はどうかと?
竹刀剣道の論法で、古流剣術の形を理解しようとするんですよね。
そして、もうひとつ。うちの師匠の「一度でも竹刀をやってしまったら、剣術の太刀筋は理解できない」は、ちょっと怖い話ですね。実際そこかに脱却できない人間を何人も……。
戦場では何があるかわからないから結局、形よりも応用力と生への執着が物言う。
防具をつけているとはいえ、実践に近い打ち合いのほうが戦場では役立つでしょうね。
作者からの返信
ここで紹介しているのは、いわば竹刀での打ち合いなんかを「実戦」と混同してしまっている人たちの論理ですね。ポカスカ打ち合っても、武術における「太刀筋」というものは絶対に理解できないんですが、本作は「剣術講座」ではないので、その辺りの解説は行っておりません。
そして、申し訳ない。ぼくの別作品「異世界でも使える! 超適当剣術講座」でも、なぜ型稽古なのか?は解説していないんです。
なぜ、昔の剣聖剣豪たちが、打ち合い法ではなく「形」を残したのか?は、とりあえず謎としておいてください。
子どもがまだ小さいからか、園長先生、という呼称に、保育園の園長先生を連想してしまいますが、可愛い篠先生には似あいますね(*´▽`*)
それにしても、学園の一枚岩でない様子に、不穏さが募ります……(><)
作者からの返信
ありがとうございます。
ま、校長先生とすると、どうしてもハゲ親父のイメージになっちゃうんで、園長先生としている、という事情もあるのですが、ちょっと事前に調べたら、この年齢で校長先生とかありえないので、そこを仄かに誤魔化す演出でもあります。
やはりですね、この学園が一枚岩でないとか、この手のうるさいおじさんの存在とか、不安要素が籠城戦を盛り上げますね。
果たして『泰山府君祭』は無事に執り行うことができるのでしょうか? そして、本当に不屍者を殲滅する効果があるのでしょうか?
剣道と剣術。柔道と柔術みたいなものなんでしょうね。
限られた条件で技を磨くことにより、精神性を高めていく。スポーツというより、本来はそっちなのかな? 道、ですから。
当然、なんでもありの実戦とは違いますよね。
江戸時代が古流を凌駕したという話はちょっと興味があります。
でも、甲冑をつけているとか、条件が違うんだろうなぁ。
作者からの返信
剣術と剣道の関係を語ると長くなるので、割愛します。
ただ公の体育館の武道場などで、我が物顔にスペースを占有してど真ん中でどったんばったん飛び跳ねている剣道の皆様方を見るに、精神性が存在するとはとても想像できません。
江戸時代の剣術が鎌倉時代を凌駕してたというのは、幕末の剣士たちの理屈なのですが、おそらくその時代の形稽古はささら踊りに出していた可能性が高いです。ソース不明ですが、京都で斬り合いをするようになってからの新選組は竹刀稽古をやめて形稽古しかしなかったという話も聞いたことがあります。
ここで語られている理論は、いわゆるぼくの主張である雷美の剣術の在り方にたいする、反証ですね。こういうこと語る方、結構いらっしゃるので一応紹介したスタンスです。