神居神宮の再会
*****
――――――鳥の声が聞こえる。
――――――頬から硬い感触が伝わって、首から肩から、全身の骨がひどく痛い。
――――――ここは、どこだった?
「っ……ぐ、ぅ……!」
目がうっすらと開いた。
黒ずんだ木板が、俺の目線から垂直に伸びている。
鼻に抜けるのは古びた木造建築と、濃すぎる緑の、まるでカビにも似た匂いだ。
虫の声はまだしない。
ゆっくりと目を開け、まだ少し痺れの残った手を突っ張り、腕立てのように体を起こした。
着ていた服は朝露に濡れて、少し湿っていた。
「ここ……は……」
場所は、柳と一緒に訪れた廃校。
俺がかけがえのないものを、二つも失った呪われた場所だった。
倒れた柱時計の廊下から、少しも動かされてはいないようだ。
「起きたか。……いや、帰ってきたか? 七支杏矢」
起き上がり、声のもとへ目を向ければ、俺をここまで連れてきた男、……恐らくは幼馴染のひとり だった、
「お前……こういう時はどこか運ぶか、何かかけてくれるもんじゃないのか」
「甘えんな。カゼひくほど寒くもねェだろう。んで、どこまで思い出してきた」
「俺は……この村にいたんだな。父さんも、母さんも。父さんには……会えたよ」
「声は、聞けたか?」
「ああ。……妙な気分だな。ようやく思い出してしまったら、もう……ただ懐かしいだけだ」
「……そうか」
「それと……トイレの花子さんだ。俺を連れていこうとしたら、咲耶が……かばって、くれて……そこで、終わりだ」
「なるほどな。……まぁ、後何があったかはリョウに訊きな」
そう言って、どこか疲れた様子の柳がスコップを支えに立ち上がった。
動作の途中で拾い上げた水筒からは水の音が何もせず、とうに空なのが分かった。
「とりあえず、村に戻んぞ。もう七時だ、朝メシでも食おう」
「ああ……そうだな」
こんな、俺にとって最悪な場所だったはずなのに……朝の空気は、それでも澄んでいた。
残っていない窓から吹き込む風は緑の匂いが濃くて、山鳥の声が聞こえる分だけで三種類。
不思議とあんな“夢”を見た後なのに、怖さを感じない。
それはもしかすると、あの時いなかった柳がいるおかげかもしれないし、俺のポケットに入りっぱなしの――――あの、幽霊刀の柄のおかげかもしれなかった。
*****
「あら、いらっしゃ……ちょっと、何その恰好?」
この間来たばかりの“純喫茶マヨヒ”へ、早くも二回目の来店だ。
店主のユキさんに見とがめられるのも無理はない。
何せ、俺達ときたら……ちょっと汚すぎる。
俺は昨日から着っぱなしのぐちゃぐちゃのシャツに、山を歩くと言われたから薄手のカーディガンを羽織りっぱなし。
柳はいつも通りの作業ツナギ一丁だが、登山靴とナップザック、流石にあのスコップは店に入ってすぐの壁際に立てかけた。
俺も柳も、小一時間かけて山道を歩き、小一時間かけて山道を戻ったものだから……道中の土と藪草が髪にも服にもこびりついている。
「あー……ちょっと山菜狩り。それより、開いてるかい」
「入ってきてから言う事じゃないわよ、それ。まぁ、座りなさい」
「どうも、お邪魔します……ユキさん」
「柳くんはともかく、君はどうしたっていうの……。もう、そんな野山を駆けるトシじゃないでしょうに」
「まぁ、色々ありまして……」
「いいから座れ、ナナ。……俺ァ、カレーライス大盛り。目玉乗せで」
「相変わらず朝から元気ね。君は? 杏矢くん」
「同じのを。目玉焼きはダブルでお願いします」
「あら、意外ね。軽めのモーニングも和・洋あるけど?」
「いえ。……今日は、こういう気分なので」
ユキさんが持ってきてくれた水を一口、のはずだったが飲み干してしまった。
考えてみると、昨日ぬるい水筒に口をつけて以降、久しぶりの水分だ。
壁かけのカレンダーに、なんとなく目をやる。
今日は、日曜日。
文句なく、学校が休みで――――あと二週間もしないうちに、“夏休み”が、始まろうとしていた。
そしてハイカロリーな朝食を終えると、柳と分かれた。
というか――――終えた頃に、まるで分かっているかのように店に柳の家から電話が来て、先に出て行かれてしまった。
慌ただしく何かに駆り出されて、それでも相変わらず柳は「イヤだ」の一言を言わず、さっさと向かった。
残された俺は……どうしても、会いに行かなければいけない人がいる事を思い出した。
――――向かう先は、神居神宮だ。
*****
第一鳥居をくぐり、踏みしめるように表参道を歩く。
時刻はまだ昼になっていない。
昨日の晩に始まり、十年前の一日を思い出して、そして今に至るまで、時が妙に長く感じる。
体内時計の感覚がおかしくなってしまいそうなほどだが、日を浴びて歩いていると少しずつそれも戻ってきた。
藪の中を歩いて蚊に刺されたのか、廃校の中で眠っている間にやられたのか、首筋が妙に痒い。
日差しはそこそこに強いが、なぜか、汗をかかない。
シャツの上に羽織った、緑の匂いがうつってしまったカーディガンが、何故なのか……暑く感じない。
むしろ、涼しくてたまらなかった。
飛び交う蝶を、姿を見せ始めた気の早い
おおかたが
息を吸うごとにそれもだんだんとハッキリしてきて、少しずつ、少しずつ、他愛もないことを思い出す。
“俺”が、田んぼの水路に片足をハメた事。
この神宮で催された祭りに、一度か二度だけ来たことがある事。
今と変わらぬあの銭湯で、泳いでいて叱られ鉄拳を食らった事。
寄り合い所で行われた何かの宴会で、“父さん”が酔ってダメになった事。
駄菓子屋で、“リョウ姉”と二つに分かれるソーダ味のアイスをお金を出し合って買った事。
――――割るのに失敗したそれの、大きい方を俺にくれた事。
思い出した。
そうだ。
俺は……確かにこの村で育ったんだ。
あの時、確かに友達が三人いた。
ひとりは乱暴な“リョウ姉”。
ひとりは長身――――といっても当時はそこまで極端ではなかったが、背の高くて恥ずかしがり屋な“沢子”。
ひとりはいつもは大人しいのに……沢子が上級生にからかわれると怒って喧嘩しに行ってた、“ヤナギ”。
確かあの日も、柳が謹慎を食らって物置にいた理由はそれだった。
俺が三人の事を憶えているのは、十年前の今日までだ。
あの時、目の前で父さんと母さんがいなくなってからは、何も。
鳥居の中を進み、表参道を歩き、楼門をくぐる。
俺は……ここへ、参拝しに来た訳ではない。
神様に会いに来たつもりはなく、ポケットから手を出すつもりにも今日はなれなかった。
来たのは、ただ一人のためだ。
楼門を越えると、そこは白砂利の敷かれた神域だ。
中は広くて石畳が本殿まで続き、右手の奥にさざれ石、その手前に絵馬の奉納所がある。
左手には
小さいながらも、細かく行き届いた、心の引き締まるような空間があった。
俺はその中で、人を探す。
境内には今、人ひとりとしていない。
だが――――竹ぼうきで石畳を掃く、さかっ、さかっ、という音が奉納所の近くでした。
俺は白砂利を踏みしめ、音を立てながら、そちらへ向かう。
絵馬掛のちょうど前にいた
それは……間違い、なかった。
「……杏矢くん。どうしたの?」
初めて見る、咲耶の巫女装束だった。
簡素だが、間違いようもない清廉な立ち姿で、彼女はこちらを見ていた。
驚いた様子、よりも……まるでやましい所があるかのように、少しだけ、怯えているかにも見える。
「……どう、って事もないさ。邪魔したか?」
「いや、大丈夫だよ。それより……何か、あったの? 放送は……」
「何も。ただ……会いに来たんだ。話がしたくて」
「ボク、と?」
「ああ。……教えてほしい事がどうしてもできたから」
尚もためらう咲耶に、俺は、十年ぶりに呼んだ。
「教えてくれ――――“リョウ
吹き抜けた風が掛けられた絵馬を揺らし、カラカラ、カタカタ、と音を立てた。
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