迷いは深く
*****
「…………お前、どうした?」
柳に訊かれたのは一限目の体育のすぐ後、ちょうどジャージから着替え終わった直後の事だった。
四人しかいない高校では特に指定のジャージといったものはない。
動きやすい格好であればOKなので、俺は前の学校の指定ジャージを適当に着て、柳は無地のTシャツと丈の短くなった中学ジャージの下のみ。
廊下の水のみ場で顔を洗ってから向き直り、痛む鼻を押さえながら返す。
「……や……別に、何も……」
今日の体育は、男女混合でのミニバスケだった。
チームは俺と八塩さん、対して柳と咲耶に分かれて行った二対二。
その中で、俺は……ボールを受け損ねて鼻を打ってしまった。
ぼたぼた流れていた鼻血はもう止まったものの、痛みはまだ引きそうにない。
「大丈夫ですか……七支くん。少し、横になって来た方がいいんじゃ」
「いや、平気。それに……休まらないよ、あそこじゃ」
この木造校舎に保健室は無い。
いや、厳密に言えば“元保健室”はあるが……管理の問題により、使われてはいないカラッポの空間。
今となっては職員室の片隅に衝立とベッドが置かれているだけの有様だ。
職員室で気を休められるわけがない。
それよりはむしろ、教室にいた方がずっといい。
「……オラ、見世物じゃねーぞサワ、リョウ。先戻ってろ」
「はい。その、七支くん……ごめんなさい、本当にごめんなさい!」
「いや、いいよ。確かに俺が……ボーっとしてたから悪い。違う事考えちゃってて……こっちこそごめん」
こちらから、集中していなかった事を詫びても……まだ、八塩さんの申し訳なさそうな表情、といっても見えないが――――は去らない。
「……杏矢くん、本当……無理しないでね」
咲耶の心配そうな声にも、軽く手を挙げて応える。
すると、咲耶の方もあまり見ていては、と思ったのか……八塩さんと一緒に、教室の方まで歩いて行った。
昨日の様子からして今日も何か引きずりそうな予感はしたが、思っていたほどでは無かった。
微かに口数少なく、微かに、薄紙を間に置いたような距離感はあるが、気にするほどでもない。
気になるのは、俺が咲耶の言葉を起点に考えて、至ってしまった答え。
そして謎だけをちらつかせるような記憶の眩み、それだ。
転校してきた記憶しか、ない。
物心ついたのがそこからなんて事はあるはずない。
どうにも気持ちが悪くて、地に足がつかないような感じだった。
それでも水のみ場の正面にある窓から覗く空は青くて、イヤミのように雲は白くて、覗く木々は緑を勝ち誇らせていた。
ステンレスの水のみ台に跳ね返る陽射しまでもが、熱い。
外の窓枠に留まった蝉だって、まるで人の気持ちなど分かった事でもないかのようにうるさく生きている。
全然、大した事じゃなくなんかないのに、それすらちっぽけに思えて来そうな、追い打ちをかけるような夏の日だ。
逃げ込むように、また蛇口をひねって……出てきた水を、顔に叩きつけてやった。
「……いつまで顔洗ってんだ、次始まんぞ。いい加減にしろ」
「あ、れ……柳、お前行かなかったのか?」
「いちゃ悪いのか。悪かったな、リョウじゃなくてよ」
「咲耶は関係ない、だろ……」
「お前がそうなっちまった原因なのにか?」
「は」
――――――こいつ、何を……!?
「いや、何の話……柳?」
「本当にお前の今、関係ねーのか? リョウはよ」
「……関係ない、って言ってるだろ」
「いや、どう考えても関わって」
「だから、関係ないんだよ! 咲耶は!」
つい――――こんな事、初めてだ。
俺はここに来て、初めて人を相手に声を荒げてしまった。
それも、心配したとかではなくて……自分自身の苛立ちからだ。
一瞬の解放感だけがあり、すぐに自己嫌悪で吐き気がした。
なのに、柳は涼しい顔をして――――。
「サワがお前にボール渡そうとして、リョウが|横取り(スティール)。それ失敗して跳ねてお前の鼻をやったんだが……関係あるだろ、これはよ」
「え。……あっ!」
「
「…………」
「……ワルい、ちょっと絡み過ぎた。カンベンな。俺ぁ、先行ってんぞ」
いつものツナギの上半身部分を腰でまとめたまま、柳が行こうとした、その時。
「柳、ちょっと待てよ」
呼び止めてしまった。
こいつが本当に、ボールの一件だけでこうもウザったく絡むとはちょっと思えなかったからだ。
まして八塩さんならともかく、俺をいきなりこうもからかうものか、と。
柳は……何かの当てこすりをしたんじゃないか。
「お前……何か、知ってるのか?」
自分で考えていたようなニュアンスよりも、更に強く踏みしめる言い方になった。
もう少しカマを引っ掛けるように言いたかったのに……俺の中にある何かの焦りが、そうさせてくれない。
この焦りもまた……何か、自分でもおかしいと感じる。
そう訊いてから、俺は無音の間を避けるようにして、もう一度顔に水をかけ、窓の外に意識を向けた。
「……オマエはどうなんだ。何を知ったんだ。リョウに、何か言ったのか」
柳も、振り向いた気配がない。
棘のある言い方をしているが……不自然にも怒気を感じなかった。
「俺は……何も知らない」
更に、言葉を連ねる。
「俺は、何も知らないんだ。何も……。六~七歳までの記憶が何も、何もないんだ。父さんと、母さんの顔すら知らないんだ」
「その事、リョウに?」
「いや。……でも、そのことを思い出すきっかけは咲耶だった。まるで……俺が、咲耶を……どこかに、置いて行った、みたいに……!」
「――――知りたいのか」
「え……?」
「お前は、知りたいのかって訊いてんだ。お前に起きた事をな」
「柳……何か知ってるのか!?」
「いや、全ては」
「……頼む、教えてくれ、柳。頼むから……」
俺が柳の方へ顔を向けると、ちょうどいつからかこちらを見ていた柳と目が合った。
いつもの見据えるような目は、いつにもまして……何か揺れているようにも見える。
瞳孔がせわしなく収縮しているのは、
「分かった。……だが、明日まで待て」
「明日?」
「俺だけで決められる事じゃねェんだ。明日なら多分……大丈夫だ」
二限目のチャイムが鳴り響くのを聞いて、それでも俺達は廊下で沈黙していた。
やがて……数分してから、ようやく、俺達は教室へ戻った。
窓の外に止まっていた蝉は、いつの間にか飛び立ち、消えていた。
*****
そして――――俺は、柳に導かれるままに獣道を歩いている。
時刻は午後十時を回ってしまった、光源のない闇夜の道を。
かれこれ、もう三十分もこうして
俺は柳に持たされたライトを片手に、後を追うばかりだ。
「……おい、柳! いったい何処まで……!」
「もうすぐだ。黙ってついてこい、ナナ」
先頭を行く柳は、ライトも何も持っていない。
月や星の明かりすら射さない山道を、迷いなく歩く。
まるで昼間であるかのように、長柄の剣先スコップを担いでだ。
不安感は、大きく二つ。
本当にこの先に、“何か”あるのかという事。
ここは村の北側のはずれであり、建物を見たのはもう一時間近く前にもなる。
ひっきりなしの虫の声、近くの藪から聴こえるガサガサという音、遠くに聞こえる
どれもが、俺を歓迎していない気がした。
何度も足をもつれさせ、さっきなどは「右側にヘビがいる。ゆっくり歩け」とまで言われた。
歩けば歩くほど人里を離れるのに、この先に……本当に何かあるのか。
もう一つの不安は、その“何か”があるとして、俺に突きつけられるものはいったい何なのかという事。
答えを知る事は、本当に、俺のためになるのか?
知らずにいた方が、本当は幸せなのではないか。
俺は昨日から何度も自問して、今日になって柳に本当に行くのかと訊ねられた時も、考え込んでしまった。
「……何があるかぐらい教えろよ、柳」
「ひとつ言えるのは――――この村に一つだけある、タブーだ。心配はいらねェ。手さえ出さなければ、そいつは至って無害なモンだ」
「何……」
やがて、視界が開けてきた。
獣道の“向こう側”の末端が、少しずつ、少しずつ広がって――――やがて。
「これ、は……学校、なのか?」
それは、古い校舎に見えた。
俺達の
無事なガラスは、ライトで外観を照らしてみてもほんの一枚か二枚。
「柳、ここって……」
「
「こんな所に……学校が?」
その時、身が粟立った。
ここで、俺は何かを失った。
そんな確信に近いものが、脳裏を
「さぁ、入るぞ。こんなトコでやる事なんか……肝試ししかねェだろ」
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