神居村へ、初めての夏を

ヒダカカケル

Prologue

Prologue 放課後と、ターボババァと待ち伏せと


 ぎりぎりと泣く蝉の声が、そこかしこから聴こえてくる。

 耳がおかしくなったような、遠くに連れて行かれそうな感覚は……半分以上、暑さのせいかもしれない。

 抜けるような青空、もくもくと立ち上がる入道雲、頬を撫でる風。

 さっきまでは近くの田んぼに引かれた水路から、水が流れる音が聴こえていた。

 息を吸い込めば緑の匂いが肺へ満ちて、からりと晴れた青空が口の中にも広がる錯覚のある、清々しい晴天。

 そんなまるで遺伝子に刻まれたように懐かしい田園の風景の中、何度目か思う。


 なぜ、俺は――――――真夏の炎天下、「ターボババァ」を待ち伏せしているんだろう。



「あ、来た来た。ほら、あれ。……今日のお婆ちゃんは早いね」


 少し後ろで立つ快活な少女……同級生、咲耶怜さくや りょうが、呑気な口調で指さした。

 ざっくりと切ったショートカットが似合う、どこか和犬のような印象を受ける、活発そうな女の子だ。

 くりんとした目、この日差しの中でも焼けていない肌、細い首は、たまに見とれる。

 彼女が片腕を通して肩にかけているスクールバッグには人の頭ほどの、あらゆるお守りの塊がぶら下がっている。

 見える分だけで「交通安全」が三つ、「無病息災」が二つ、「交通安全」二つ、「家内安全」が五つ。

 それだけならまだしも、……「安産祈願」は、いくらなんでもいらないはずだ。

 半袖のブラウスは少し汗で透けて、若草わかくさ色の下着が見えているが、気にする素振りも無い。

 スカートは太ももの半ばまで上げて、靴下は白の三つ折り、白い動きやすそうなスニーカー……って、これは……。


「……また運動靴と履き間違えてきた?」

「あっ……! どうりで!」


 朝会った時は、彼女は布製の赤いスニーカーだった。

 学校の靴箱でまた履き間違えて帰ってきたらしい。


「どうしよう、間違えちゃった。……出るとき、バタバタだったからかな。履き替えに戻るのもね……」

「それぐらいついて行くから。ってか……集中!」


 また、視線を田んぼを横切る舗装道、その先から走ってくる「老婆」を見つめる。

 もう――――目と鼻の先、ほんの200mほど。

 風景写真のような夏の一日、その一コマを切り裂いて走ってくるのは異様なもの。


 はだけた病衣びょうい、カサカサの肌、鬼の形相、枯れ細った手足。

 そんな老婆が、手足を狂おしくばたつかせるような、いびつなスプリントで……こちらへ走ってくる。

 その軽快な速度は老婆の……いや、人間の生み出すものではない。

 こいつは、このスピードで何十キロも走ってきたに違いないからだ。

 老婆は「ターボババァ」と呼ばれた、既に忘れ去られたはずの都市伝説の怪異、その残滓。

 伝わり方は諸説あり、この個体がどの伝説の顕現なのかは掴めない。

 自動車に並走して首をねじ切り落とすのか、追い越すだけなのか、事故を誘発させるのか。

 こいつの伝説は、どこで伝えられていたものなのか。


 正直なところを言えば……怖い。

 時速百キロで迫りくる、鬼の形相の妖婆。

 まだまだ、まだまだ、慣れるはずもない。


 しかし――――ここに来たのなら。

 この村へ、神居村へ流れ着いたというのなら、やるべき事はたった一つ。


 俺は、しまい込んでいた「つか」を取り出す。

 後ろで、咲耶がお守りの一つを解いて、手のうちに握り込んだ。


「神居村へようこそ。そして――――還れ」





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る