7月29日 午前6時12分 相模灘

 これは、百里基地での45分の座学に含まれていなかった。

 丁度鷺野さぎのの真上にかぶさってきたパラシュートは海面と空中をぴっちり塞ぎ、鷺野が呼吸するスペースを確実に殺していた。

 耐Gスーツのライフジャケットが膨らんでいたことも事態の悪化に拍車をかけた。

 スーツは鷺野を上へと浮かばせ、パラシュートの繊維は呼吸を阻んでいた。

 鷺野は25メートルぐらいなら泳げたがこのパラシュートの最先端科学の超軽量繊維が水泳という運動のすべてをはばんでいた。

 心の中でナイフ、ナイフとわめいていたが、空自のスーツのサバイバル・キットにナイフを装備しているかどうかすら知識がなかった。

 改札での定期かICカードを落とした酔っぱらいのようにすべてのポケットを探った。 

 なかった。

 体はもがけば、もがくほど、脳と筋肉は酸素を必要としていた。

 百里基地の保安隊から在籍しているという噂の曹長はハーネスの外し方を教えてくれていたが、真夏の無風での降下で真上から綺麗にパラシュートがかぶさった場合の方法は教えてくれていなかった。

 腕を軸にしてテントのようにパラシュートを持ち上げて空間を作って息をしようと試みた。

 重い。

 体は沈む。

 鷺野を生かすための装備すべてが今や敵だった。<遼寧>より手強い。

 ハーネスは外せた。最後のチャンスだ。海中に潜ってパラシュートの外に出る。これしかない。

 これには、ライフジャケットが鷺野の新たな敵となった。脅威の浮力だ。当たり前だ、生かすために沈まないように作られている。脱いだ。それしかいないのだ。

 そして泳いだ。ゆらゆらクラゲのように漂うベージュの色をしたパラシュートの外へどうにか、出ると、漸く大きく息を吸った。

 酸素だ。当たり前が当たり前でないのがサバイバルだ。

 上を向けば顔だけ浮かぶこと知っていたがどうしてもうまくいかないことの理由に到達するのに5、6分かかった。低酸素症になったとDr鷺野は自身のカルテに書き込みそうになったがヘルメットが原因だと気づいた。

 メットも捨てた。

 国民の税金で購入したものだが、鷺野も国家公務員で税金は給料で支払われる前に完全天引きで一銭も脱税無しで払っている。

 どっかの自営業や経費で落ちる誰かさんとは違う。

 メットは逆さまになって一寸法師のお椀の小船のようになり沖へ流れていった。

 おとぎ話を思い出すと母親とか幼稚園が思い出され、懐かしくなるのとブルーになるのと半々だ。

 何度も大きく息を吸った。

 海面で真夏の穏やかな朝の天空を眺めて浮かんでいた。

 このまま相模湾に帰らなくても良いとさえ思った。

 というより、陸地探してを目指す気がしない。

 事実、樋渡快人ひわたしかいとは帰れないのだ。

 永遠に、、。

 永遠という言葉が重かった。不可逆という意味だ。

 それを思うと急に悲しくなり、生きていることが申し訳なくなり、また、生きなければいけないと思うとよくわからないが辛くなった。

 <遼寧>のことはあまり気にならなかった。無理やりマッハ2級のジェット戦闘機に乗せられコンピューター・ウィルスを駆除したのだ、誰も文句あるまい。

 それより、副総理や、官房長官、樋渡、のことが気になった。山川陸将補もあんまり気にならなかった。というより、百里に行った辺りから一度も山川のことを考えることがなかった。

 基本自衛官というより陸自はああいう人の集合体なのだ。一番よくいるタイプだ。

 このまま、浮かんでいると黒潮に乗って北上するのかなぁとか、考えた。

 二三日飲まず食わずで漂流するのも楽しいかもしれないと思った。

 別名を名乗り、千葉の九十九里浜に、いやぁーサイバー・テロはどうなりましたか?とか言って上陸するのだ。関東ローカルのニュースになるだろう。あれだけむちゃをやったのだから記憶喪失説も通るのではないだろうか。悪い考えではなさそうだ。

 しかし、サメはいるんだろうか?いるだろう。確実に居る。急に嫌になった。

 それより、喉が渇いていることに気づいた。

 日差しもきつくなってきた。それより今何時なんだ。ホームセンターで買った時計は百里基地に置いてきた。スマホがないと時間すらわからない。

 どれくらい、相模灘に浮かんで真上を向いていたのだろう。


 と思ったら、回りの海が急に波立ち泡立ちだした。それも大波でなく小さな小波だ。

 なんだ、なんだ。

 風がきつくなってきた。

 台風だ。

 しかも、変な風だ。真上から吹いている。

 知っているぞ。ダウン・バーストだ。

 爆弾低気圧とかいうやつじゃないのか?。違う、二重重ねの高気圧団だ。熱波だ。

 鷺野の地球物理の知識はニュースの最後の数分の天気予報でよく言われるセリフと小学生向けの図鑑程度だった。

 死ぬのか?ハリウッドのハリケーンとかトーネードの映像が頭をちらつく。

 突然、巨大な黒い物体が鷺野の上空に現れた。

 おわぁー。助けてくれ。

 知っているぞ、地球外生命体だ。アブダクションされるのだ。なにかインプラントされるのだ。

 がいしてそれらは両方共ちょっと嫌だ。

 黒い物体からは強烈な風が吹き付け鷺野の呼吸を困難にした。

 逃げなければ、と思った瞬間。

 黒い物体からなにかが飛び降りてきた。グレイ・マンだ。リトル・グレイ。

 違った。それは人だった。

「おはようございます。浜松航空救難隊の赤間あかま一曹です」

 しかも、礼儀正しかった。

「おはようございます」

 関羽も言っていた非礼に値する礼儀なし、と礼儀正しく返さねば。

「どこか、痛みがあるところとか、感覚がないところとか、ありませんか?もしくは、出血しているところとか?」

 そんなところは一切なかった。

「ありません」

「陸自の鷺野二尉殿ですね、もう大丈夫ですよ、ホイストで挙げますんで、自分に抱きついて捕まってください」

「それより、ここは<遼寧>との戦闘空域ではないのですか?」

「うちの機長がね、いつもは本当に怖い人なんですが、人助けの為の俺らが、基地司令の命令なんて守れるかって啖呵切って勝手に侵入して旋回して待っていたんです。それにファントムはもっと西南西に飛んでいったという無線を受けていますし」

「もう少し向こうに、、」

 と鷺野は海の向こうを指さしたが向こうと言ってもジェット機でのもう少し向こうってどれくらいになるのか鷺野自身にも全然検討がつかなかった。

「知っていますが、それは別の部隊が割り当てられています。自分に捕まってください」

 というと、赤間一曹はもうガチっと小柄な鷺野を捕まえていた。

 ホイストで赤間一曹と抱き合いながら釣り上げられる時に思った。

 また、UH-60Jブラック・ホークかと。 

 しかし、機内に収容されてこうも思った。助かった、と。

 航空救難隊のダイバー、彼ら自身はメディックと呼ぶらしいが航空救難隊はどんな悪天候でも飛び救助する全員精鋭中の精鋭である。

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