7月28日 午後11時27分 官邸

 眼の前上方にみさおあかね士長が居た。

 まだ、少し頭が痛い。それと、首も。

 包帯は巻いていない、殴られたところから出血はなかったようだ。

 鷺野さぎの二等陸尉はふかふかの絨毯ではあるが雑魚寝で官邸の仮眠用の低反発ウレタンの枕に仰向けに寝かされていた。

 先程の官邸特別緊急対策室とは別室のようである。

 ここでも、自家発電で赤々とLEDの蛍光灯が付いている。

 民間では蝋燭を付けて断水の中生活しているというのに全くいい身分だ。

 みさおあかね士長は、安物の回転式の移動式の事務椅子に座りラップトップのPCを操作している。マウス・ポインターを動かすボードの脇でUSBで接続したマウスを小さくちょこちょこ操作するのが操あかね士長のやり方。

 全ての女性にいえることだが、どの女性もよく見るときれいだったりかわいかったりするものだ。

 しかし、背が低く小太りなのが、少し残念だと思ったが、鷺野も人のことは言えない背はかなり低い。

 操あかね士長もこの大きな黒縁のメガネさえ外せば案外と美人の部類に入るのかもしれないと思ったが、こういった考えがセクハラに繋がるのか、、、。

 もう少し操あかねを見ていても悪くないなと思ったが、鷺野はわざと

「痛ててて、」

 と声を出し、体を起こした。

「あっ、小隊長、気づかれましたか」

「おお、何時間ぐらい経ったんだ?」

「二時間ぐらいでしょうか?。階下の別室に第一連隊いちれんの医務官がいるそうですが呼びましょうか?」

「いや、大丈夫だ。少しふらつくだけ、、陸将補のアキレス腱に噛み付いた後の記憶がない」

「脳震盪だって」

「やっぱり殴られたのか、だろうな、、、、。状況は?」

「一瞬、電力が列島中で回復しましたが、すぐに元に戻ってしまいました」

「<探龍たんりゅう>?」

「はい、恐らく、過負荷でPCごとフリーズして班長が強制終了しました」

「たけちゃんが?」

「はい、現在、第505特殊電算小隊はフェーズ2に移行中です」

「フェーズ2ってコード・レッドのままでやってんの?」

「はい、小隊長は失神しておられたので、最先任の佐竹陸曹が指揮をとっております」

「へー、やるじゃん、国立長野高専こくりつながのこうせん。まぁブラックよりはましか?」

「フェーズ2はいいけど、状況は?」

かんばしくありません」

「ウィルスのデータは全部取れた?」

 操あかね士長の表情が一瞬明るくなる。

「はい、取れました。<探龍たんりゅう>のおかげです」

 <探龍>のプログラミングはほぼこの黒縁のメガネの操あかねが書いたのだ。しかし、一瞬で顔が曇る。

「でも、データ量が多すぎてワクチンは無理だと班長が」

「でしょうねぇ」

 もし単純なウィルスなら、第505特殊電算小隊が呼ばれる前に白シャツネクタイののサイバーセキュリティの専門家たちがワクチンを作ってばらまき駆除して終わっていたはずだ。

 鷺野も老人のように両手で椅子を掴み腰をかけようとすると操あかねが手を貸そうとする。

「大丈夫です」

 と鷺野。

「何を見てたのかな、みさお士長?」

 と操あかねのPCを覗き込む。

 操あかねのラップトップの画面のアイコンは全部自作のドット絵でクマとか猫とか犬とかペンギンに置き換えられている。

 ゴミ箱でさえ、ピンクのマグカップだ。

 それにフォントも手書きの丸文字みたいな変わったフォントに変更されている。

 ソフトのウィンドーの枠もショッキング・ピンクだ。

「これは結構見辛くない?」

「陸自の装備品で私物じゃないのにすません。ウィルスのデータの確変のパターンをどうにか関数のファンクションに置き換えられないかずっとやってたんですけど、駄目でした」

「いいね、それ続けて陸士長」

 操あかねの目がキラキラする。

「了解です」

「たけちゃんは、あの特別対策室に缶詰めのまんま?」

「はいそうです」

「山川陸将補も?」

 操あかねの顔が曇る。

「たぶん」

 こんな表情がよく変わるだと操あかねのことを鷺野は思ってもいなかった。

「自衛官として宣誓した身の上だし、戻って働いてきますか、名門国立長野高専こくりつながのこうせんとはいえ、たけちゃん一人じゃ大変だ」

「自分も戻ります」

「了解」

 二人は、部屋の名前も知らない会議室を出ると特別対策室に向かった。

 操あかねは自分用のラップトップを後生大事に胸に抱えて。


 山川重五郎やまかわしげごろう陸将補は正確には特別対策室には居なかった。

 悪さをして教室の外で立たされている小学生のように、特別対策室の前の廊下に辛うじて椅子だけ与えられつまみ出されていた。

 やるべきことはやった自分は間違っていないという、誇り高き改悛とも呼ぶべき複雑な表情を浮かべ恍惚とし官邸の廊下の中空をぼーっと眺めていた。

 そこへ、鷺野と操あかねがあらわれた。

 鷺野が気軽に声を掛ける。

「陸将補、何をしているんですか?」

 思わぬところを見られてきまりが悪そうなのは山川だったが、鷺野に気づくやいつものキリっとした表情に戻る。

 殴り合いの喧嘩をしても、その後すぱっと遺恨なしに切り替えられる体育系の良さが自衛隊の売りの一つだ。 

「陸上幕僚長、直々じきじきの命令で特別対策室を”出禁”になった」

「でしょうねぇ」

 と半分したり顔の鷺野だが、

「自衛官は星の数よりメンコの数なんじゃないんですか?陸上幕僚長は陸自でも防大でも山川さんの後輩でしょう」

 山川の眉間に皺が露骨に寄る。  

「嫌味ではありません。仕事に戻りましょう、陸将補は私のオブザーバーの筈だ、私のいくところ全てに付いてこないといけない、ちがいますか?」

 山川から返事はない。

「それとも、過去形ですか?さぁ、いきましょう。中のあんな連中に国を任せていては日本は滅びますよ」

「おうっ」

「”レンジャー”って返事しないんですか?」

「もう現役のレンジャー隊員ではない」

 三人は、ノックもなしにガチャと特別対策室の両開きのドア開け入った。

 ドアを警備する警察官、自衛官はいない。官邸そのもののセキリティが厳重だからだ。


 特別対策室中は、鷺野と山川が取っ組み合いの喧嘩をしたときから、室内に疲れと諦めとまったり感が増えただけで、何一つ変化していなかった。

 最終決定権を持つ大机には官房長官と副総理がどかっと座り椅子の背もたれを最大限に使い天井をふたりとも眺めており、同席しているのは統合幕僚長と防衛大臣だけだった。

 この二人も完全に打つ手なしといった体である。

 それと、職務上サイバー関係ということで総務大臣も同席しているが、そんなに離れていては声も届かないだろうという距離に座っている。難しいことは聞くなという意思表示である。 

 官邸付きの官僚達は完全に”壁のシミ”と化しスーツを着たまま謎のA4ペーパーを胸に抱え文字どおり控えている。

 大手通信業界、大手プロバイダーのサイバーセキリティの専門家たちは、官僚たちのさらに端の端に追いやられていた。 

 任務遂行中の第505特殊電算小隊の佐竹三曹はふかふかの絨毯に長身を丸め込みあぐらをかき、デスクトップのPCを床において、目の前には23インチのモニター、キーボードも絨毯の上、デスクトップの筐体の上部をマウスパッドにしてマウスを扱っている。ちょっと高いところにあるマウスパッドはあきらかに扱いづらそうだ。

 これが現在、日本全国を機能不全に落としこんでいるサイバーテロと国として戦っている唯一の実行組織なのである。

 鷺野は若干の恐怖すら感じた。

 鷺野に気づいた、佐竹三曹が声を上げた。

「あっ、小隊長」

 それを契機に特別対策室内の全員の注目が鷺野、山川、操あかねにあつまる。

「君は、、、」

 と、統合幕僚長が山川陸将補の入室を咎めようとした瞬間、鷺野が制した。

 自身の自衛官生活の中でもっともきちっとした美しい気をつけの姿勢をとり敬礼姿を取るとともに大音声で声を発した。

「第505特殊電算小隊小隊長、鷺野二等陸尉、只今をもって原隊に復帰いたしました。尚、山川陸将補にはこの任に当たるに際し、自分ひとりではこの重責を全うしかねるので、オブザーバーを願い出ておりまして、列席していただいております。以上、自衛隊最高指揮権をお持ちの現内閣、副総理、並びに官房長官に対し報告いたします」

 そして、続いて45度のきれいな礼。

 つられてか、若干遅れて、山川と操あかねも同様に続く。

 副総理も、統合幕僚長も虚を付かれてか、声が出せない感じである。

 鷺野は勝手にばっと足を開き、腕を後ろで組み休めの姿勢をとるとこれは、本来なら許されない行為であるが、続ける。

「つきましては、取り合えず、どうか第505特殊電算小隊に人数分の机と椅子を与えてはもらえないでしょうか?これでは作業効率、生産性が著しく落ちます。おわかりだと思いますが、ミス・クリックひとつで国家の命運が決まります」

「おい、机と椅子を、、」

 官房長官が官僚に命じる、官僚たちの動きは早い。日本の官僚たちが有能な事は事実だ。

 ぱっぱっと官僚たちが動き最高意思決定機関が使っている大机よりは若干小さめの机と椅子が数台運ばれて簡単な会議セットが設置される。

「物理的、形而下けいじかの攻撃が概ね失敗した今、これより、本格的なサイバー空間での戦いに完全に移行します。できれば、海自は別のようですが、陸海空の三軍の全指揮権を自分に渡してください」

「そんなこと出来るかっ!」

 海自上がりの統合幕僚長が叫んだ。

「やらせてみたら、どうですか?」

 壁から声がしたと思ったが、声の主は当選二回の榊原政務官だ。この男はいつ何時でも楽しめる様子だ、今も小さく不敵な半笑いまじり。

「お言葉ですが、統合幕僚長殿の意思や権限とは別に結果としてそうなると思いますが、、、、」

「どういう意味だ?」

 統合幕僚長の延岡のべおか海将の顔が若干険しくなる。

「自分はこれでも、サイバー・テロならびにセキリティのまだ新参者ですがプロです。簡単に言えば、ハッカーやサイバー・テロリストとほぼ同様です。中国空母<遼寧>のEEZ侵入、第一列島線突破に関することで多少なりとももう情報は得ております。それを開示してもよろしいのでしょうか?」

 急に、副総理、官房長官の視線が、統合幕僚長の延岡に集まる。

 副総理も官房長官も知らなかったのだ。

「鷺野とかいったな、貴様、自衛隊三軍のトップを脅すつもりか?」

 延岡海将の声は小さかった。

「公職の非常に高い地位におられる方が事実を開示することをそう取られるの非常に残念です」

 延岡海将の声より更に小さい声が海将を襲った。

「延岡海将、どういうことだね?」尋ねたのは官房長官だ。

 延岡は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ俯いた。

 しかし、鷺野は滔々と喋り続けた。

「<遼寧>出港の1週間前、海自の潜水艦<げんりゅう>は日本海から黄海に至る海域で、、、、」

「やめんか!!」

 延岡が叫んだ。

「全然、聞いとらんぞ」と副総理。

 延岡は恥じ入るように言った。

「ここから先は、外相と、在日米軍指令官を通じてお尋ねください。自分の口からは答えられません」 

「うちの小隊のようなものをこんな官邸のシステムからネットにアクセスさせるからですよ。それに明らかに海自は、やりすぎた」

 延岡は何一つ答えなかった。

「そこの、背の高い陸曹はずーっとあの姿勢のまんまで進展は一切ない様子だが」

 と官房長官。

「自分もさっきみさお士長より簡単なブリーフィングを受けただけで、状況がつかめておりません、若干時間を頂きたい。よろしいでしょうか」

「もう君があの大男の幹部に殴られて伸びてからずーっと待っとったよ、構わん、好きなだけ時間を使いなさい」

「はっ」

 鷺野は軽く敬礼。

 もう佐竹三曹と操あかね士長は、普通に机と椅子に着座して作業している。

 鷺野はそこへつかつかと現れると、小声でひそひそ。

「状況は?」

「小隊長、大見得切りすぎですよ、<探龍>はアウト。ウィルスの概ねのパターンをようやくつかめたぐらいです全部じゃないですけど」

「上出来、国立長野高専」

「それやめてくださいよ」

「一応褒めてんだけど、高専の数学の教官なんて学者崩ればっかだよ。変化のさぁ、偏差パターンとかわかってんの?」

「任意のnにおける関数をコピー中ですけど、全てはつかめていません」

 と今度は操あかね。

「了解、一応、つかめてるのがあるってことだよね」

「そうです数えられる程度ですがもう把握しています」

「攻撃型と駆除系のソフトの準備は?」

「ネットと切り離してばっちしOKです。いつでもやれます」

「了解、把握している分だけ攻撃型と駆除系にウィルスのデータ、アップリンクして大急ぎでたけちゃん」

「了解。隊長、少し分けて投入しますか?どんな感じになるか皆目検討つかないし、、」

「俺にも、それはわかんないよ」

 普通指揮官は、迷っていることや困っていることを部下に見せてはいけない、これはスポーツのチーム指導者でもそうだし、会社の上司リーダーもそうだ。

 しかし、本当に強い組織はそんな縦社会のガバナンス、ルールのとり決めだけでまとまっていない。柔軟でかつ不変的に一つの目標を成し遂げるための最善の方策を求めつつまとまっている。

 取り組む組織内で信頼とか、目標意識とか確かめている時点でもう自分自身に負けている証拠だ。

「副総理や官房長官も疲れきっているみたいなので、もう一気にアップリンクしよう」

「隔離していた攻撃型と駆除系に繋ぐのは不可逆ですよ、隊長」

「もっと待って、週単位や月単位でまた何千人体制で作業して全部のウィルスの偏差パターンつかめる確証はある?」

 佐竹三曹の返事は早かった。

「ほぼないですね」

「操士長の意見は?」

「ありません」

「よし、やろう。時間は我々に有利に働かない、逆にウィルスの<ナイト・キング>の軍勢のダイバーシティーを豊かにするかも知れない」

「すいません」

 その時、おもわぬところから声が掛かった。大手サイバー・セキリティ会社の白シャツ軍団の一人だ。

「なんでしょう?」

 身分と給料と待遇は大きく違えども一応ご同業だ。丁寧に受け答えする鷺野。

「うちのスパ・コンもしくはサーバー用の演算機を使用されてはいかがでしょうか?」

 鷺野は来たとばかりにしたり顔で答える。

「申し出はありがたいのですが、我々第505特殊電算小隊は予算も装備もない物づくしでやっています。演算量は数学的ずるさをはっきしてCPUの物理的演算量を減らす訓練をいや、設定をしていますので、心配、御無用、、といいたいところですが、土壇場ではお借りするかも知れません。じわじわやっても埒が明きそうにないので一気に全面攻撃に出ます」

「そうですか」

 白シャツネクタイの専門家は気落ちした様子もなく、また嘲ったようすもなく、

「これを」

 と言って、名刺を渡した。

「あいにく、私は今名刺を持ち合わせておりません」

「偉い方々には内緒ですが、この一件のあと、うちの会社に来られませんか、三人共ご一緒に、、」

「ヘッドハンティングですか?部下の二人とも優秀ですよ」

「では、なにかあれば、、」

 そういうや専門家は、壁際の椅子に去っていった。

「それでは、第505特殊電算小隊、全員かかれ、第505特殊電算小隊前へ」

 鷺野の声は大きく特別対策室に響いた。

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