7月28日 午後9時13分 官邸

 これほど、落ち込んだ人間を見るのは鷺野さぎの二等陸尉も始めてだった。

山川重五郎陸将補は片膝を付いてロダンの彫刻と全く同じポーズでダイヤモンドリーダーの最後の通信が傍受されたときから微動だにしていなかった。

 山川の目には俯いているため良くはわからなかったが光るものがあった。

『だから、罠だと言ったでしょ』

 と何回言おうかと鷺野は考えたがわからないが、この山川の失望というべきか絶望ぶりを見ると声を発することが出来なかった。

 レンジャー部隊の個々の通信は全てヒアリングのみのラインだが官邸に逐一届いていた。

 助かったのはスナイパーだけらしい。

 それも田中家の床下の基礎部分に浸されたガソリンの上部には今度は釘やナット・ボルトではなく、ただのバラストと普通の岩だったそうだが、田中家は大爆発を起こしスナイパーは蓑田家の納屋から吹き飛ばされ、蓑田家の壁で頭部を激しくうち脳震盪を起こし気を失しない右肘をひどくやけどをしていた。


 しかし、レンジャー課程終了のおとこ、山川は立ち上がった。

「鷺野!」

「なんでしょう」

 鷺野の声のほうが山川より小さかった。

「入間には、もう一チーム居る。テロリストは指向性をもたせてオンラインのまま攻撃しているのだろう。他のIPアドレスはわからんのか!?」

 山川の声は絶叫に近かった。

 怒りの矛先が完全に転換して鷺野に向いていた。

「鋭意努力していますが、Torを通常の方法で突破するのは不可能です。全世界のIPアドレスを経由させて搦めてからネットに繋がっています」

「山川陸将補、もういいでしょう」

 陸上幕僚長が特別対策室の大机を離れながら言った。机を離れるということはもう陸自にできる仕事はないということを示していた。

 一方の国家公安委員長と警察庁長官は笑顔こそ浮かべていないがしたり顔である。

 やや時間はあったが、鷺野が膝をついたままの山川陸将補に声をかけた。

「陸将補、受け入れるしかありません。日本が先の大戦で学んだことは無理なことは無理だということでしょう」

「なに!?無理だと」

 レンジャーに無理という言葉はない。完全実行。それはレンジャのみならず女性隊員のWACにも通用する自衛官の姿勢だ。

 やれと言われたことは泣こうが叫ぼうがやる。実施するのみ。

 山川が片膝を付いた姿勢からゆっくり立ち上がった。まるでどこかの怪獣のようだ。もしくはダビデとゴリアテ。

 鷺野は続ける。

「今、殉職したレンジャーの隊員には哀悼と敬意を表しますが、このさいだからいいます。傷口に塩を塗るようですが、いまの陸自のレンジャー部隊の訓練、運用には問題があるように思います」

 落ち込んでいた山川が阿修羅像のように完全に怒りの表情となった。

「なにが言いたい?」

「あのきびしい訓練で限界を越えることを身につけることは意味があると思いますが、所詮、レンジャー部隊の伝統や教官が定めた限界でしょう」

 珍しく山川がだまった。

「どっかの部活の根性練習と同じだって言いたいんですよ」

 鷺野も真剣な表情で言った。

 山川はにらみつけるを確実にこえた殺意をもった目で鷺野を見ていた。

「精強、精強って言いますが、撃たれた銃弾を生身で跳ね返せますか?クレイモアやカール・グスタフを跳ね返せますか?4日間不眠不休?じゃあ一週間ならどうです?」

「言いたいことはそれだけか?このチビ野郎」

 山川の声は低く小さい。

「戦争は全て形而下、物理の法則に則って行われている、個人の精神力の限界点なんか、意味がないと言いたいんです」

 また、山川は黙ったが表情は雄弁に語っている。

 発火2秒前だ。

「もう一つあります」

 鷺野は続ける。

「憲法9条で日陰者になっていると言われる自衛隊だが、その日陰であぐらをかいているのも自衛隊そのものだ。これが一番訊きたかった。敵を前にして引き金を引けますか?レンジャー御得意の隠密に至近距離から口を塞ぎ背後からナイフで刺せますか?」

「同じ自衛官のお前はどうなんだ?」

 山川の声は小さいままだ。

「わかりませんね、そのときにならないと」

「俺は引き金も引けるし、刺せる。情報を得るためなら無抵抗の捕虜に拷問だって出来る。宣誓したときから心は決まってる日本を守るためならなんでもやる。それが自衛官だ」

「そういうタイプの人間が一番戦場でのPTSDに悩み、自分の殺害戦果にあとから悩むんだ。ダイヤモンドは硬いかも知れませんが、化学の摂理です、硬いものは、もろいんですよ」

「うん?レンジャーが埼玉のど田舎で壊滅してやけにペラペラ話すようになったな、鷺野?お前が一番ショックを受けとるんじゃないのか」

 鷺野も痛いところをつかれた。鷺野の表情に出る。

 しかし、鷺野も黙らない。

「これは、あそこに座っている政治家にも言いたい」

 と言って、視線を大机に座っている副総理や官房長官、防衛大臣に向ける。

「レンジャーは、こんな国内のサイバーテロでなく、国外のいかなる拉致被害者の奪還にこそ使うべきだ。政治家こそ、9条にあぐらをかき、拉致の問題を票集めに使ってる。情報さえ手に入れば、韓国の一番北よりのヘリポートから飛べば往復で1時間のミッションだ。なぜやらない!成功しようが失敗しようがCIAにように敢然と否定し続ければいいそれが国際政治のルール無きルールだ」

「命令さえあれば、やるに決まってるだろ。待っているぐらいだ」

 山川陸将補の声は大きかった。

 政治家は黙っている。

 鷺野の位置からは距離があって政治家たちの表情まではうかがえない。

 山川が更に鷺野の前ににじり寄った。

「おまえ、防大の”棒倒し”がどうのこうのとさっき言っていたな」

「えー所詮ルールに守られた、、、、」

 とそこまで、鷺野が言ったとき、食い気味にかぶせて山川が言った。

「俺がお前にルールなきルールを教えてやろう」

 そういうと、山川はほとんど振り構えずに強烈な左フックを思いっきり鷺野の肝臓のあたりにぶち込んだ。

「ぐぅっ」

 と声なき声を上げ鷺野は前のめりになり、膝を付き倒れ込んだ。

「小隊長!」

 PCにかかり放しだった佐竹三曹が叫んだ。

 ダンゴ虫のように丸まり両手で腹を抱え鷺野は額を特別対策室のふかふかの床につけたまま、くぐもった声を響かせていた。

 しかし、小さな声で誰にも聞こえないようにこう言った。

「幹候でも、汚いことを最初にやるのはいつもきまって防大の連中だった」

 そこに山川が手を鷺野に伸ばした。最初からこの二人勝負は目に見えている。

 起こしてやろうというのだ。山川はそこまで陰惨な性格の漢ではない。

 むしろ非常に潔く気持ちのいい体育会系の男である。それゆえ昇進を後輩に譲っているのだ。

 しかし、その山川の行為を逆手にとりぐわーっと獣のような悲鳴を鷺野が上げるとかがみ込み丸まったまま山川のくるぶし、アキレス腱のあたりに両手でしがみついた。

 山川は作業服でないので、編み上げのブーツは履いていない。

 鷺野は山川の靴下の上からだったが、くるぶしの裏、アキレス腱に思いっきり文字通り噛み付いた。

 今度は、山川がぐーっと声にならない悲鳴をあげ、真後ろに倒れ尻もちをついた。

「おいだれかやめさせろ。いい大人がなにをやっておるんだ。ここは官邸だぞ」

 陸上幕僚長が立ち上がり、指を差して制しようとした。

 が山川は老いたりとはいえレンジャー課程終了者、武器を持たない徒手格闘の訓練は一般大学から幹候上がりの鷺野以上にみっちりしかも完璧に受けている。

 必殺かどうかわからないが、山川陸将補は足首にタックルをして噛み付いて無防備な鷺野のこめかみに右フックを叩き込んだ。

 鷺野は、脳震盪をおこし、そのまま突っ伏してしまい動かなくなった。

  

 

    




 

  

 

 


 

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