白亜の記憶 ― 2

 乱雑に、ウィッグを取り払った。

 そうして改めて鏡に向き合うと、首も手も、体の全てがまるで自分ではないように思える。

 これで幾つの年をこの館で数えた事になるだろうか。少なくとも、片手ではもう足りない。はじめてであった時、まるで鏡のようだった……否、鏡のように仕立てられていた2人の姿も、自身がこうも変わってしまえばもはや成り立たない。それがどうにも異質に思えて、気持ちが悪い。

 彼女と同じであるべくして、そうあるようにと務めてきた。いつもの彼女、ではなく、外向きの姿、であるけれど。だから、もはや誤魔化しの効かない程、男性的な成長をはじめた自身の体は、中々に受け入れがたいものだった。


「……」


 同じくあるようにという使命も、隣にという日常も、やがて終わりが来る。

 一体どこへ行けばいいのか、どこに立てばいいのか、分からない。


 気分が悪くて、隠すように鏡を布で覆った。



 月すら雲に隠れて、光のない夜だった。

 ただひたすら、遠く近く、虫の声や風の音がしていて、うるさくて眠れない。

 誰も起こさないようにこっそりと部屋を出て厨房へ向かう。

 当然のごとく誰もいない廊下に、ほっと胸を撫で下ろした。


 普段、整理整頓された厨房に、立ち入る事はない。日のある間であれば、コックさんやメイドさんたちが出入りしているし、欲しいものがあれば大抵すぐに用意してくれる。仕事でしているわけで、むやみに奪ってはいけない。と昔言われたのだけれど、実のところ、ただ甘やかされているだけな気もしている。


 火の元栓を開けて、小鍋を取る。ココアでも飲めば、眠れるだろうか。

 その時背後で、コツン、と足音がした。


 ◇


「……ありがとうございます」

「いえ、砂糖とミルクは、たっぷりでしたな」

「……はい」


 机の対面、スーツを身に纏い、薄らと白の混じる髭を撫でる老紳士は執事長。色々と訳アリのこの館を纏めていて、何かと気にかけてくれている。良い人だ……と、思う。

 音も立てず机にのせられる珈琲は、ミルクと砂糖を入れて尚薫り高く、酷く値の張るものだ。昔は、これ1つ飲むにも緊張したっけ。


「……」


 ほう、と息を吐く。温かい。


「ユリウス様が夜更かしとは、明日は雪が降るかもしれませんな」


 細い目を殊更に細めて、深い皴の刻まれた頬を緩めた。彼の手にあるコーヒーは、自分のカップの中のものより濃く透き通っている。


「……たまには、します。本を読んだりとか…」


 老齢ながらも整った顔立ちに、威厳のある風格。今まで2人きりで話すことはなかった。少し、緊張してしまう。何か、見透かされてしまいそうで。そう、見透かすものすら、内にないことを。


「今はどのような書物をお読みに?」

「……ミステリー、とか……あと、戯曲……とか」

「おお、良いですな。私も好む所です」


 いくつか、好みの本についての問われて、返して、を繰り返す。

 常の役柄からか、彼は話がうまくて、繰り返すうち、こちらも饒舌になってしまう。


「いずれ、劇場を見に行けると良いですな」


 その一言に、声が詰まった。


「好きな劇団がおりましてな、ぜひとも見て頂きたい物です」

「……は、僕は、そんな日は、要らない……」


 じわりじわりと、珈琲の苦みが広がっていく。甘く甘く、してもらったはずだった。


「体がどんどん、成長していくんだ。リーラと違う物になっていく。

 リーラじゃない僕なんて、価値が、ないから。

 ここで要らなくなったら、行く場所なんて、知らないし、それに、

 それに、リーラじゃないなら僕は、僕は、誰になればいいんだろうって」


 眠れない理由は分かりきっていた。


「明日なんて、いつかなんて、来なければいいのに」


 止まれと願っても、成長は止まらない。そうあれかしとされてきたものが、務められない。他に出来る事だって、自分にはない。

 こわくて不安で、でも言えなくて。形がないまま、重さに押しつぶされて。


 どうしようもなく震える肩に、細くて、でも、しっかりとした手のひらが置かれた。


「ユリウス様」


 顔を上げると、細い目が、先ほどとは違う形で細められている。


「いつかは来ます。どれ程恐ろしくとも、朝も夜も皆平等に訪れるのです」


 そうして、ゆっくりと手の平は上へ上へと移動していって、白に染められた頭を撫でた。


「貴方はまだお若い。人も世も、恐ろしく見える事はありましょう。

 リーラ様の事も、貴方ご自身の事も、その背には重すぎるのかもしれませんな」


 ゆっくりと、すこし不格好に、けれど、随分と優しい手の平だった。


「けれどもきっと、恐ろしいばかりではありませんぞ」


 幾年と積み重ねられた自信が、紳士の声からは伝わってくる。それは、自分にはない輝きだった。


「ユリウス様にとってリーラ様などのような方ですか」


「……そんなの、わからない……でも、

 いつかが、リーラには、絶対、きてほしくない……」


「……そうですな。けれども、我々にそれを止める手立てはありません」


「……」


「……館の皆、気持ちは同じですとも。

 であるからこそ、いつかが来るまでの日々をお守りし

 よりよい日々をと願い努めております」


「……僕もそう、だよ…でも……」


「写し身とあるだけが御身の全てであるというのは間違いですぞ。

 事実、ユリウス様が来てからのリーラ様はよく笑っておられる」


「……でもそれだけじゃ、ここにいる意味…には、なれないよ。

 同じでいられたら、ずっと守れる……最後、まで。

 でも……できなくなったら……」


「別の方法で、守って差し上げてはいかがですかな」


「……できる、と、思うの……僕は何も、できないよ……」


「できますとも。幸い、ここには師が多くおります。

 これでも私も若い頃は、剣の達人として名を馳せたものです」


 ぱちん、と茶目っ気たっぷりにその紳士は僕に向けてウィンクしてみせた。…少しだけ、下手だったけれど。


「……こほん。少々、若作りが過ぎましたかな?

 背丈が伸びれば視野も広がり、その手に守れるものも多くなりましょう。

 そうして酸いも甘いも知る頃には、この苦みも無二の友となるのです」


 彼は小さく音を立てて手と体を離すと、僕のとは色の違う珈琲を飲んだ。

 ブラック、と形容されるその色は深く、底も見えないくらいで。

 未だ成人を迎えていない僕からすれば、

 目を覚ますとか、そんな理由以外に飲む理由は分からない。


「……爺はそれ、美味しいの……?」


「飲んでみますかな?」


 頷くと、こちらに持ち手を回してカップが渡された。

 おそるおそる、一口飲んでみる。


「………………うぇ」


 目の前で口元を隠して、楽しそうに、おかしそうに音を殺して爺が笑う。ちょっとうらめしいと思った。まだまだ僕じゃ、足元にも及ばないみたいで。


「……これが美味しいなんておかしいよ……」


「は、は、は、ユリウス様はまだまだ子供ですな」


「……大人って変だ……」


「早朝であれば、剣術の稽古をつけても良いですが、いかがですかな」


 変な気分だった。何が解決したとかじゃなくて、納得とかできなくて。でも、すこしだけ、試してみたいとおもった。いつか、彼女がいなくなるなんて信じがたくて。でも、どうしてもその日が来てしまうなら。


「……うん、お願い、します」


 いつかの日まで、傍にいられるなら。そのために、少しだけ。

 僕は彼女じゃなくて、僕として、変わっていきたい。

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ツラツラトオボエガキ 空木 @utsugisora

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