名探偵は悔やまない
小さな事件、彼からすればそう形容して差し支えない事件だった。
とある町に住む女性からの依頼に助手と見習いをつれて赴くと、その日の夕刻、女性が何者かに殺害されてしまったのだ。荒れる関係者、兼容疑者候補たちをなんとか抑え、現場やアリバイを確認したところ1人の女が浮上した。おそらくは、怨恨の類いだろう。
金や利権が絡むでもない、連続殺人が起こる気配もない。死者はひとりだけ。多少のトリックはあれど稚拙。確たる証拠があるために言い逃れも難しい。
大層な肩書きではあるが、名探偵と呼ばれる彼からすれば、稀によくある程度の事件と言えた。
とはいえ、名探偵には流儀がある。全てのピースが揃ったら、関係者を前に事件の真相を語らねばならない。例え小さな事件だとしてもだ。そして美学もある。これが大事なのだ。話を始めるまえに、必ず、頭に例の接続詞をつけねばならない。勿体ぶっているわけではない。
ただ彼に言わせれば、探偵とはそういうものだ。
「さて」
コツン、と革靴の踵が鳴る。スポットライトがあればなおドラマチックだったのだが、あいにくここには蛍光灯の明かりしかない。
「この事件の真相をお話しましょう」
コツ、コツ、ゆっくりと部屋唯一の扉の前を歩く。助手である黒髪にルージュの口紅をひいた女性は向かって右側に静かに控え、彼の言葉を待っている。白手袋の上には、この度の事件の証拠品が盆にずらりと並べられていた。
いつも通りであったが、彼はその姿をみるたびに感激すらするのだ。ピシリと伸びた背筋もさることながら、真相を話してもいないのに証拠品が順番に並べられているのだから。ああ、良い。このままいつも通りに終わってくれればよいのに。
彼は、助手のそのまた横に視線を這わせて願った。
「まず、被害者の女性ですが――」
「はい先生、被害者は
名探偵は、思わず額に指をあてる。決して、うなだれてはならない。美学に反する。視界の端には、助手に耳を引っ張られる見習いの少年の姿があった。
「見習いくん、控えなさい」
「しかし」
「しかしもだがしもありません。黙って、名探偵の推理を、黙って、聞いていなさい」
「でも、いてててて。先輩、痛い、痛いです」
名探偵は、しずかに待つ。見習いの少年が(不服そうであったが)押し黙ったのを確認するまでぐっと耐えた自分の精神を褒めたかった。
「被害者の死因、これは――」
「はい! 先生、死体には殴打痕が目立ちますが、僕はこれはダミーだとい、いたっ痛い痛い痛いです!」
「黙りなさいと言ったのが、分からなかったのですか? 犬以下ですね少年?」
眩暈がしそうな光景だった。いや確かに名探偵は眩暈を感じていた。なぜ、なぜなのだ。あれ程までに、毎度毎度言い含めているのに。関係者たちが怪訝な目で見ているのがわかる。ああ……。
「良いですか、おぼえておくことです。あなたも助手を名乗るのなら、名探偵の台詞を遮ってはいけません」
「しかし先輩」
「シャラップ。少年、部屋を出るまで言語を扱うのを禁じます」
「不当な扱いです!」
「不満があるなら今すぐ去りなさい。私も名探偵も止めはしません」
助手のいらだちを肌で感じる。彼女が感情を表に出すのは稀だが、稀だからこそ出しているときは手に負えない。制御が下手だと言える。これ以上彼女を刺激しないで欲しい。名探偵はもう一度、見習いの彼に祈った。
こほん、ひとつ咳払いをして、彼はもう一度部屋中を見渡す。関係者たちはまだ、彼を名探偵として信用しているようだ。思わず安堵の息が出かけたが、すんでのところで飲み込めた。幸い、今度こそ少年は沈黙を選んだようだった。
+
コトン、と音が鳴る。見やれば、温かいコーヒー(勿論ブラックだ)が机の隅に置かれていた。マグカップに伸びた指先を順に追えば、見知った黒髪とルージュの唇が目に入る。
「お疲れ様です」
「ああ、君も。飲んでいくかい」
「ええ。お言葉に甘えます」
彼女の目尻が、思ったよりも釣りあがっていない事に気づいたのはいつ頃だったか。濃いめの化粧で切れ長のツリ目に見せているだけで、本来は優しさの滲む目元なのだ。
「彼はどうかね」
「ハッキリ申し上げるなら、どれだけ鍛えても一流の助手にはなれないでしょう」
一流というのが何を指し示すのか、その指針は特に設けられていない。ただ、恐らくは彼女こそ一流と呼ぶに相応しいだろうと名探偵は考えている。その彼女が言うのだからこれは間違いのない事だろう。
実際少年の言動には名探偵としても困ることも多かった。先だっての事が良い例だ。助手が主人の行動を阻害しては話にならない。
「……ですが」
しばし逡巡し角砂糖とミルクの甘い香りを手元で遊ばせてから、彼女が口を開く。
「恐らく、探偵の才はあるのでしょう」
半分、疑問を投げかけるように見つめられる。彼女の瞳が黄白色の電灯に照らされて、その内のかすかなブラウンを覗かせる。自ら言うべきか、出すぎた言ではないのかと迷っていたのだろう。名探偵は、それこそ笑みが零れてしまいそうだった。そうか、と思う。やはり彼女は一流なのだ。
「ああ」
そして少年もまた、恐らく一流たる人材なのだ。
彼は言葉を遮る事はあれど、答えを違えたことは名探偵の記憶する限り一度としてなかった。
名探偵の短い返答を聞くと、助手はそれだけで自らの内の答えも得たようだった。暫しそうして、言葉少なにすごした。古書とコーヒーの香りに満ちたその部屋は、普段より幾分かゆっくりと時間が過ぎるようだった。少年にも探偵としての流儀や美学を聞かせてみようと思った。焦る事はない。彼の
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