れんごうかいのにじゅうご
◆
「最初っから知ってたんだよな」
ヨウジュの部屋の柔らかい絨毯を撫でると、毛の向きが変わって、そこだけ色が変わる。反対側に撫でれば、それが元に戻る。なんとなくその動作を繰り返しながら相手の様子を伺うと、プラスチック製の、黒い縁の眼鏡の位置を直しながら、ヨウジュは首を傾げる。
「知ってたって、何が?」
「……だから」
言わなくてもわかっているだろうに、それとも俺にちゃんと言わせようとしているのだろうか。デフォルトが無表情の友人の感情を読み取るのは一苦労だ。でも、もう苦じゃない。
「ヤハラのことも、クロバのことも……シドウのことも、全部知ってて俺に話しかけたんだろ。もしかして、シドウと俺をあわせるためだったんじゃないのかなって」
「ああ、そのコト」
「そう、そのこと」
ヨウジュはうーんと呻きながら、ごろりと絨毯に寝転んで、こちらへ転がってくる。膝枕、と言いながら勝手に膝に上がってくるのを、なんとなく手で押しのけると、わかりやすく口を尖らせる。相変わらず口角は上がらないが、楽しんでいるようだ。
「サクラがそう思うなら、なんでもいいよ」
「え、いや。俺はなんでも良くないよ」
「俺は結果的に、サクラと友達になれたし、シドウさんとサクラは会えたし、仲直り出来たみたいだし、いいじゃん」
「……ヤハラには会えなかったけど」
「まあ、全部一気には解決しないよ」
柔らかく言うヨウジュの言葉に、俺はぼんやりと後輩のことを思い出す。体の小ささに反比例するかのように才能を持った、そしてまた態度も大きかった後輩は、才能を持たない先輩部員らと衝突し、部活には顔を見せなくなった。聞くところによれば、クラスにも顔を出していないらしい。校内統一試験の結果の上位にも、もう彼女の名前を見なくなった。
「……俺がなにか出来てたら、変わってたのかな」
ヨウジュは寝転んだまま俺の頬に手を伸ばし、そのまま優しく肉をつまんだ。え、というまもなく、両側の頬を引っ張られて、どう反応したものか悩んでいると、ヨウジュは小さく息を漏らした。
「慌てないで。一日はいつも二十四時間、一時間はいつも六十分、一分はいつも六十秒、一秒は」
「……そうだな」
ヨウジュが言い終わらないうちに頷いた。頬を引っ張られていたせいで若干言葉が伸びる。ヨウジュはそんな俺を見て頷き、俺の頬から両手を外して、体を起こす。それからじっと俺の目を見て……笑った。
「一個ずつだね。まずは、よく頑張りました」
「え」
いつも無表情のヨウジュのあまりにも自然な笑顔に、俺は思わず声を上げた。ヨウジュはそのまま俺の頭を優しく撫でてから、首を傾げる。表情はもう、いつものままだ。
「いま、ヨウジュ、笑った?」
「俺はいつだってアルカイックスマイルだよ」
「いや、いや」
なあにサクラ、ついに惚れちゃったの?いいよ、式はどこであげようか、と、冗談とも本気ともつかない顔で、スマホで今検索したのだろう、人気の海外式場の記事を見せてくる。海の見えるところがいいなと答えると、じゃあハワイにしよう、とヨウジュは優しく言った。
◆
「学業に専念します」
久しぶりに会ったヨウは、軍人のように敬礼のポーズを取りながら言った。はぁ、と俺から息の抜けるような音が出る。
久しぶりにからっと晴れた日のことだった。公園のブランコに座ってただぼんやりとしていた俺に、何してるんですか、とヨウが話しかけてきたのだ。俺の隣のブランコに腰掛け、俺たちは人のいない公園で、少しだけ揺れながら、並んでいた。
「俺、あと一年で卒業するから、そうしたらレンゴウカイに戻ってきますよ。約束します。だから、ちょっとのあいだ、お休み頂きますね」
「……そうか」
頷いた俺の顔をじっと見つめながら、ヨウは動かない。なんとなく、それに合わせて、俺も動きを止めていた。
ただどこへ行こうとしていた訳でもなく歩いていたが、そういえば前にもここで学生の群れの中のヨウと会ったな、と思い返していた。あれは……まだ、抗争が大きくなる前のことだ。
「それにしても、抗争の激化した数日、他区に避難していたのは正解でしたね。随分と大きなものでしたし、まだ爪痕も残ってる。避難してなかったら、うっかり巻き込まれてたかも。ナイス判断」
「……カイトがそうしたんだ」
親指を立てるヨウに、俺じゃないよと首を振る。すると、今度はヨウが首を振る。
「そんな舎弟がいるシドウさんの手腕ですよ」
手腕ってなんだっただろう、と思ったものの、聞き返す気にはなれなかった。俺はまた首を横に振り、ヨウとはそれなりの挨拶を交わし、別れを告げた。数回会って言葉を交わしただけで、なんか不思議なやつだったなとぼんやり思った。
一人残された公園は、元いた時よりも静かに思えた。俺はまた、きいきいと鳴る鎖を握り、ゆっくりと地面を蹴る。地面に足がつかないギリギリでブランコに揺られ、また足が地面につき、止まる。高くこぐ気にはなれなかった。
ぎらついた日差しが肌を焼く感覚が痛くて、俺はパーカーのフードを被った。前髪もいつのまにか伸びきっていて、視界の半分以上を覆っている。そのまま特によけることもなく、暗い視界を歩いた。
街はいつも通りだ。本当にこの街で、抗争が起こっていたのだろうか。いつも怒鳴り声をあげている男は今日も怒鳴りながら歩いているし、並んで歩く女子高生のスカートはいつもどおり短いまま。コンビニの隣の細い路地から、俺はただぼんやりと突っ立って、そんな人の流れを眺めている。
そういえば、朝から何も食べていなかったかもしれないと思った。そっと手を腹のあたりに当てる。……空腹は感じなかった。なら、いいか、と手を下ろす。
それより、いまは、なんだか眠たくて。
重たくなっていく頭を抑えながら向きを変え、路地の奥へ奥へと進んだ。誰も来ない場所でひと眠りしよう。陰になっているからか、奥の方は少しひんやりとしていて、涼しいなと思った。
路地の奥はまたわかれ、そこでさらに奥に行き、ここまでどうやってきたのかはっきりとわからなくなったが、それでもいいと思った。表通りよりもずっと散らかり、壁やモノにはスプレーでかいたであろうらくがき、また地面にはその缶も転がっている。さっきまで誰かがいたのだろう、まだ煙の出ている吸殻が落ちていて、俺はそれを靴で潰す。
転がっている缶のひとつを手に取った。赤い缶だった。誰が使っていたのか、ややベタついているような嫌な感触がしたが、それにもすぐ慣れた。
頭の突起を押せば、赤い霧が飛び出した。そっと左手で触ってみると、ひやりとした冷たさを帯びながら、手を赤く染めていく。
赤いな、と思った。
そのまま、スプレーを壁に向けて噴射した。誰かのかいたラクガキを、俺の赤が上書きしていく。そのまま、綺麗に赤だけが残っていく。
俺はそのまま、赤いスプレーが出なくなるまで、ただひたすら壁を塗り続けていた。出なくなったスプレーを振り、また押してみたが、もう赤は出てこなかった。俺はその缶をどこへともなく放り投げ、そのまま地面に寝転んだ。落ちているゴミの感触で、背中がごわごわした。何が落ちているのかは、あまり確かめたくない。
空を見上げた。星は見えないが、いつの間にか夜になっていた。寝ないと、と思い、目を閉じた。夜は早く寝なければ。寝て起きたらきっと朝が来ている。
酷く慌てた様子のカズシに起こされたのは、たぶんそれから数時間後のことだ。
◆
目を覚ました時、隣にはもうあの人はいなかった。それとも、昨日の夜の出来事は全て夢だったのだろうか。目覚めたままでまだ動きたがらない体で無理やり寝返りを打つと、誰かの腕にぶつかった。ぼやけた視界で見上げると、温かく大きな手が、頭を優しく撫でる。
「おはよう」
少し低くて優しい声。大好きなあの人とよく似た、けれど抑揚やテンポのまったく違う声。
「ゆう、きさん……」
「……ああ」
一度目を閉じると、そんなあたしの頬を、ユウキさんの手が滑る。安心する、優しい手だ。
「……りょうがさん、いっちゃいましたか」
あたしの声はガラガラだった。昨日飲んだクスリのせいだろうか。それとも嬉しくて騒いだからだろうか。お酒を飲んだからだろうか。わからない。頭も痛い。正直言うと、昨夜のことをよく覚えていない。おいで、と手招きされ、大好きな人に愛されていたということしか、覚えていない。逆に言えば、その感覚だけは覚えている。
肌を滑る愛しい人の手のぬくもりを。
「ごめんね」
耳元でささやいて、頬にキスをひとつ落とされる。……嫌ではない。少し身を捩る。
「目が覚めてもリョウガにいて欲しかったでしょ」
優しい声だった。そうですね、とは言いづらいものの、違いますよ、とも言わないまま、あたしは焦点の定まらないままユウキさんを見つめた。
どうしてそんなに悲しそうな顔をしているんだろう。それとも、視界がぼやけているからそう見えるのだろうか。
「……あ、お花」
思い出して、慌てて部屋を見回すと、これかい、とユウキさんが小さな花束を手渡してくれた。花には詳しくないが、明るい色の花束だった。はず、だけれど。
「……枯れちゃいましたね」
「……生花だったからね」
捨てようか、と手を出すユウキさんに、あたしは首を横に振った。ところどころ茶色くなった花を見つめながらも、花束を抱きしめる。
「リョウガさんがくれたお花だから、枯れててもいいの」
「……そうかい」
ユウキさんは息をつくと、あたしに背を向けた。立ち上がり、広いVIPルームの端のクローゼットから背広を取り出した。もう行くんですか、と聞くと、優しく微笑んで頷く。
「……今日は客を通さないから、キミはゆっくりしておいで」
「え、なんでですか。少し時間が経てば働けますよ」
「リョウガとの余韻が消えちゃうでしょう?それに、そんな状態じゃろくに接客できないでしょ」
上体を起こし、ぐらついた頭を思いながら、そうかもしれないと頷く。一瞬すべてのものが形通りに数字に見えて、はっとして首を振り、元に戻る。幻覚症状なのか、この世界が数字でできてるのか、あたしに見えている世界は他の誰かにはどう見えているのだろうか。
ユウキさんは身支度を整えてから、ベッドに座るあたしの頭をまた撫でた。それから頬を撫で、また頭を撫でて、微笑む。
「行ってきます」
行ってらっしゃい、と頷くと、ユウキさんは出ていってしまう。
一人残されたVIPルームはあまりにも広くて、静かだ。元々防音がきいている部屋だから、周囲の音で時間を判断することはできない。それでも、ベッドに横になっていると響くのは掃除の音。朝か、昼だな、と検討をつけた。
不意に頭が強く痛んで、あたしは呻きながらベッドに倒れ込んだ。昨日使ったクスリだろうか。それでも、あの人が使うものが悪いもののはずはない。横になってから、枯れた花を掴み、その手を天井に伸ばしてみる。
「……リョウガさんがあたしにくれた花」
寝返りをうち、うつ伏せになって目を閉じる。枯れた花束を抱きしめる。まだ甘い匂いがする。あの人と違う種類の甘い匂い、花の匂い。
「……リョウガさん」
当然返事はない。それでももう一度呼んだ。
愛しい名前を、何度も呼んでいるうち、また眠気に襲われて、そのまま沈んでいった。
◆
困ったことになったな、と思いながら、何度もボイスレコーダーの録音を最初から回し、自分のメモを確認する。より正確に、より正確に。手元にあるのは、派閥を持つ嫌味な女のプロフィールだ。信頼のおけなさそうな派手髪の情報屋と、信頼の置けなさそうな素顔の割れないスラムの情報屋に頼んだ情報の中から、被るものを抜いて、より正確に濾過した情報だ。
そこに、真面目な顔で必死に訴え、慣れない駆け引きをしようと表情を引き攣らせていた、青年の言葉を加えていく。普段は曲がっていた背中を伸ばし、拳に汗を握る姿を、ぼんやりと思い出す。弱々しくも、決意に満ちた強い眼差しを。
作業をしていた暗闇が不意に途切れた。落ち着きつつも、素早い動作で、見ていた資料と仕事の資料を入れ替える。ちら、と視線をやると、今一番会いたくない女がいた。
俺を見て笑うその表情には、にたあ、という擬音が一番向いているだろう。気色悪い、爬虫類のような女だ。長い舌で唇を舐め、こちらを仕留める機会を狙っている、そんな目。この目にも、もう、慣れてしまっているのが恐ろしい。
「こんな時間まで残業とは珍しいじゃない?ミスター定時退社なのに」
「お前が残業しすぎなだけだろう」
「私には残業とか定時とかそんなんないわ。ここは私の家で、私は与えられた玩具で楽しく遊ぶだけ。ね。羨ましいかしら?」
タカハシの姓を名乗るヒメカという女は、どこかでリョウガが拾ってきた女だった。いつ、どこで、どんな出会いをして、なんのために連れてきたのか、その一切を俺は知らされていない。だが恐らくは、ヒメカのどこかの部分がリョウガにとって「おもしろい」と映ったのだろう。きっと、それだけだ。
人を痛めつけることに快感を得ているのか、人が作った傷が好きなのか、正解がどうでも別によかった。俺にとっては、頭のおかしい女だということに変わりはない。そして。
アラキワタリと話をし、今回高橋組から混ざりもののドラッグを流している首謀者はこのヒメカだろうということがわかっていたから、なおさら会いたくない。
「ねえ、なんの仕事してるのよお」
「事務仕事だ」
「あら、つまんない仕事してるじゃない?私と一緒に遊んでくれたらいいのに」
「……遊んでいる暇はないんだ。出ていってくれないか」
「あら、いつもカズヒトとは遊んでいるくせに、私とは遊んでくれないんだ?」
ヒメカが名前を出したのは、これまたリョウガがどこからか拾ってきた、英語混じりの日本語を話す金髪の青年だった。その緑色の瞳とうっすら違う肌の色から、海外の血が入っていることが一目でわかる。いったいいくつなのかわからないが、あまりにも子供っぽく、勝手に世話係を任命され、いつも面倒を見ているのだった。
「……まあ、どちらかというとまだカズヒトのほうが可愛げがあるからな」
「思ってもないこと言っちゃって」
そうだな、とあっさり頷いた。ヒメカはだんだんつまらなくなってきたのか、俺を見て不満そうな顔をし、踵を返す。ようやく出ていくかと思い、ほっと息をついたところで突然振り返り、開いた扉から差し込む光がヒメカで遮られる。逆光で、詳しい表情は見えない。
「ねえユウキ、余計なこと、しないでね」
「え」
不意をつかれた俺の表情を見て満足したのか、ねっとりとまとわりつくような笑い声を上げながら、ヒメカはそのまま去っていく。体中を何かがうねるような嫌な感触がして、思わず首のあたりを手で拭った。粘り気のある液体が這ったような不快感だけがそこにあるが、流れているのは俺の汗だ。
本当に気味の悪い女。一体、何を考えているのだろうか。いや、何を考えているのかなんて、一生わかりたくはない。
俺は高橋組ナンバーツーとしての仕事をするだけだ。そう、高橋組を守らなければ。
◆
「死んだかと思ったじゃねーか!」
おはよう、と言うと、カズシはそう言って怒鳴った。どうして怒るんだ、と首を傾げると、大きくため息をつく。ごめん、と謝ると、まったくだよ、と頷かれる。カズシが伸ばした手に、反射的に目をつぶると、そのまま頭に柔らかい感触。
「……よかったよ、ホント、無事で」
恐る恐る目を開けると、カズシは泣いているような笑っているような、変な顔でこちらを見ていた。
「おかえり。シドウちゃん、見つかってよかったよ」
カズシに引きずられるようにカズシの家に戻ると、出迎えてくれたのは水色の髪に、黒いドレスのようなワンピースを着た人物。背は高い。キツい化粧から覗く表情は優しい。瞬きする度に揺れるまつ毛。吸い込まれそうな瞳は、空の色。
「わ、たり」
呆然としたまま名前を呼ぶと、相手は微笑んだ。カズシは真っ赤な俺の手を指差しながら、こいつスプレーで遊んで寝てやがったんだぜ、と呆れた声で言った。口に手を当ててワタリは笑いながら、じゃあ先におフロだね、と俺の赤い手を引いて、風呂場へ連れていく。大きさはあまり変わらないが、細く白い手が、俺の真っ赤になった手と重なる。
「おフロ入れる?洗ってあげようか?」
「あ、いや、いい」
「エンリョしてるの?照れてるの?」
「い、いいから」
はいれるから、とワタリを風呂場から追い出すと、しばらくぽかんとしたまま、酷く間抜け面をした、鏡に映った自分と見つめあっていた。
とりあえず、風呂にはいらなければ。扉を開けると、温かい湯気が風呂場に広がった。
服を脱ごうとすると、ズボンのポケットがガサガサと音を立てた。はっと現実に引き戻された気分。真っ赤な手で、ゆっくりと取り出したのは、真っ白な封筒だ。俺のせいでもうぐちゃぐちゃになっている。けれど、封はしっかりしてあったようで、開いていない。
……ごくり、と唾を飲み込んだ。ゆっくりと、封筒の口に手をかける。心臓の音がうるさい。身体中の血が吹き出すくらいに熱くなっている。手が震える。喉が渇く。
でも、いま読まなければ、もう俺はこの手紙を読めないような、そんな気がして。
真っ赤な指が、真っ白な封筒の口を、そっと開けた。ぺり、と乾いた音がした。
「遅いから茹で上がっちまってるんじゃねえかと思ったぜ。茹でシドウは流石にマズそうだからな。目まで真っ赤じゃねーか」
「はい、シドウちゃん。水分補給しっかりしないとね、飲んで」
風呂から上がり、ワタリに手渡されたグラスの水をそのまま飲み干した。体が冷えていくのと同時に、少しだけ頭が冴えていく感覚がした。促されるままに、カズシとワタリのそばに腰掛けた。
「……よかった」
ワタリに言うと、微笑んで頷く。蒸し暑い、別れを告げた夜を思いだした。もう、会えないのかと思っていた。無事でよかった。
「でも、なんでここに」
「あー、仕事一緒にしたことあって、しばらくウチに泊めることになったワケ」
「仕事」
そ、と頷くカズシには、キャバ嬢は似合わなさそうに思えた。まあ、深く考えるなよと言われるまま、疑問を飲み込んだ。
「しっかし、やっと抗争も落ち着いたし、これでゆっくりできるな」
カズシはそう言いながら、天井に向かって伸びをする。バキボキと聞こえた音に、肩でも揉んでやろうかと手を添えると、逃げられる。黙って首を横に振るカズシに、俺は首をかしげた。そんなやりとりを見ながらワタリはクスクスと笑っている。
「てかまァ、ジチケーが事実上解散みたいになっただろ、あのセイラの後を継ぐやつもいないだろうし、街はどうなるのかね」
どきりと心臓が跳ねた。風呂の中で何度も考えていたことを言おうとして、音が出ないまま口をパクつかせる。カズシとワタリはそんな俺を見て、何を言い出すのかと待ってくれている。
「あ、のさ、俺、考えたんだけど……」
馬鹿なりに一生懸命言葉を繋いでいく。カズシは口を開け、ワタリは目を大きく開いた。それでも、と俺は言い切った。
これでいい。目の裏に誰かの長い黒髪が映り、柔らかく凛とした声を聞いた気がした。
俺はレンゴウカイのリーダーなんだ。心の中で繰り返して、二人に頷き直した。
◇
木下 紫導様
堅苦しい挨拶は貴方には不要かしら。肩の力を抜いた文章で失礼致します。
貴方がこの手紙を読んでいるということは、わたくしはもうこの世にいないことでしょう。少しは泣いてくれたのかしら。それとも、ぽかんとしているだけかしら。貴方なら、少しは悲しんでくれるのかな、と期待しています。
貴方と出会ってまだそんなに日が経っていないのに、わたくしの中で貴方の存在は本当に大きいものになりました。
わたくしはたくさんの人たちに会いましたが、そのどれも自治警察の朝霧世薇としてで、ハルや正紀以外にただの世薇として会う人はいませんでした。いつも緊張して、気を張って、強くあらねば、わたくしが象徴となるのだからと精一杯やっていました。
だから、貴方様がわたくしのことを知らなかったことも、わたくしのことを知ったあとも普通の、ただの女の子として接してくれたことが、非常に嬉しかったのです。
一緒に食べたアイスクリーム、初めて遊んだ公園のジャングルジムから見た景色。そのどれもがわたくしにとっては憧れだったもので、キラキラしていて、帰ったあともまだ余韻に浸っていたいと思うほどでした。
もし抗争が終わり、高橋組に大きな爪痕を残せたのなら、その時は貴方ともう一度出かけたいと思っていましたが……この手紙を貴方が読んでいるのであれば、それは叶わなかったようですわね。残念です。
わたくしの目的は、高橋組を街から追い出して街の治安維持をすることでした。そのために懸命に活動しましたし、たくさんの有志が集まってくれました。活動を初めて十年、その成果も現れ始めています。
けれどね、本当の、本当のわたくしの目的は、両親が死んだきっかけになった高橋組に復讐をする、という非常に子供じみた目的だったのです。
そのせいでわたくしは普通の女の子として生きることは叶わなくなり、普通の生活に憧れを抱くような生活が「普通」になりました。
貴方と僅かな夏休みを過ごした時に、わたくしは馬鹿なことをしたのかもしれない、と少し思ったのです。貴方とも、もっと違う出会いをしていれば、もっと仲の深い友人になれたかもしれません。わたくしは今、そんな幼かった自分の考えにとても後悔しているのです。
紫導様。
どうかわたくしのようにならぬよう、貴方は貴方として生きてください。
そして、これはわたくしの我儘ですが……。
覚えていてほしいのです、わたくしのことを。
貴方の中に、普通の女の子であったわたくしを、留めておいて欲しいのです。
過ぎた願いかもしれませんが、最期に、優しい貴方に甘えさせてください。
ハルがひどい言葉を投げかけるかもしれませんが、気にしないでください。彼女は些かコミュニケーションが下手のようですが、とても有能な部下です。
何かあったら正紀を頼ってください。きっと力になります。彼もまた、非常に有能な部下です。
そしてまた、二人はわたくしの家族です。何かあった際には、二人を訪ねてください。
……長い手紙になってしまい、申し訳ありません。読むのが大変だったでしょう。
それでは、ごきげんよう。
朝霧 世薇
◇
切れた街灯。ゴミだらけの路地裏。落書きだらけのビルの壁。吸殻をひとつ、蹴飛ばす。大きなゴミ箱の蓋を、そっと撫でた。もう、白い手は覗いていない。
「……ミヅキ」
初めてあの子と出会った場所だった。どうしてかいつも、何かがあるとここへ来てしまう。それはきっと、俺の始まりだからだ。この街で、あの子のために街を作り替えると決めた。
なぜ?ただ、なんとなくだったけれど、彼女に惹かれるままにそうしていた。でも、結局は流され続け、何もしていなかった。そうして、出来たばかりの大切なものを失った。
なら、次は一体なにを失ってしまうのだ。
「……なあに怖い顔してるんですか」
驚いて顔を上げると、腕を組んで路地の真ん中に立つ少女の姿があった。短い金髪に、今日は制服姿ではなく、必要なのかわからないフリルやレースの装飾のついた、少し上品なワンピース。
「……ミヅキ」
今度はしっかりと名前を呼んだ。それに応えるように、ミヅキはこちらへ一歩、一歩と歩いてくる。カツ、カツ、とヒールの音だけが響く。
「……なあミヅキ、セイラが死んでしまったんだ」
ミヅキが近づいてくるあいだに、俺は気がつけば喋っていた。
「そうですね、抗争は高橋組の勝ちでしたから」
ミヅキの声は冷たい。いや、特別に冷たいのではない。あまりにも普通だった。表情も変化はない。そうか、ミヅキにとってセイラの死は、どうでもいいことだったのだ。
何にかは分からないが、なんとなくショックを受け、俺はただ突っ立ったままミヅキを見ていた。ミヅキはそのまま近づいてきて、俺の目の前まで来ると……不意に両手を俺に伸ばした。
「ねえ、だっこしてください」
「え」
「はやく。お姫様抱っこ」
「あ、あ」
戸惑いながらもミヅキを抱えあげた。ミヅキはもぞもぞと体勢を整えて、それから満足そうに俺に微笑んだ。生ぬるい空気よりも暖かいミヅキの息が顔にかかる。
「あたしがいるからいいじゃん」
けらけらと笑うミヅキの言葉は、うまく噛み合っていないような不安感を纏っている。
「……そんなんじゃ、ないだろ」
「人は死にますよ。特に、戦っている人は負けたら死にます。みんな覚悟しているんです。今回の抗争、ジチケーが勝っていれば、ユウキさんが死んでたみたいだし」
「ユウキ……」
抗争を見に行こうとした夜に出会った男のことを思い出した。あの優しい男が、セイラを殺ったのか。憤りよりも、信じられない気持ちと、言いようのない喪失感で息苦しくなる。……頭が痛い。
「……ねえシドウさん、このまま連れてってください」
ミヅキは俺の耳元に口を近づけて、囁く。どこへ?と俺が聞くと、ふふ、と笑いながら言う。
「ここじゃない、どこかずっと遠いところです」
ミヅキが俺の首に腕を回して、俺の頬にキスをした。ここじゃないところ、と考えても急には思いつかないが、ミヅキは満足しないだろう。
俺はミヅキを抱えてぼんやりとしたまま、ミヅキの言うままに右へ左へと歩いていく。人のいない方へ、いない方へ。気がつけば、人影のない住宅街の方へ来ていた。東地区のそばだ。
「ねえシドウさん、誰もいませんね」
けらけら笑うミヅキに、夜中だからな、と答えると、また笑う。人工の光のない場所で、川に月が映っている。
「この世界に、あたし達二人しかいないみたい。ねえ、そうだったらよかったのにね」
ねえ、シドウさん、と言われ、反応する前に唇を奪われる。そのまましばらく立ち止まり、ミヅキが離れるのを待った。顔を離してミヅキは微笑み、かと思えば目を閉じて、そのうちすやすやと寝息を立ててしまった。俺は元きた道を引き返し始めた。
この世界にミヅキと二人きり。そうだったなら、本当に良かったかもしれない。それなら、何を守ればいいのかわかりやすかったはずなのに。いや、もっと俺が頭がよかったら。
【れんごうかいのにじゅうご おわり】
【れんごうかいのにじゅうろく に つづく】
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