れんごうかいのにじゅうよん


 人で溢れ、ざわざわと音の行き交うファミレスの中で、俺たちだけが無言だった。なかなか注文せず水ばかり飲んでいる俺たちに、ついに呼びもしない店員がやってきたので、とりあえずドリンクバーと口にした。お二人ともお付けしますか?と聞かれ、兄の顔を見ると、何も聞いてなかったらしい、慌ててきょろきょろと首を動かす。あ、はい、二人分で、と勝手に答えて、そのまま席を立った。

 動画を見て、行ったこともない自治警察ビルを目指した。まったく来たことのない街だった。大通りでも大声が上がり、すぐに喧嘩が始まり、目立つ場所に怪しい店の立ち並ぶこの街は、あまりにも俺の街と違いすぎて、一瞬、足を踏み入れるのをためらった。それでも、ここに行方不明の兄がいる、会えるかもしれないと、なんとか一歩を踏み出した。そして、無事に兄を捕まえた。なんだかいつも以上にぼんやりとした兄の腕を引っ張り、ひとまず近くにあったファミレスに入った、のがもう一時間近く前になるだろうか。

 グラスふたつに氷を入れて、野菜ジュースをひとつ、兄は……炭酸飲料かなにかでよかっただろうか。しばらく会っていなかったせいで、いったい今は何が好きなのかもわからない。

 席に戻ると、兄は俺を見て姿勢を正した。無言でグラスを前に置くと、そのまま黙ってストローに口をつける。けれど、なかなか飲み物が上がっていっている様子はなかった。

「……学校、は」

「お前に聞かれたくない」

 やっと言葉を発した兄をあしらってしまい、あ、と思って口を閉じる。そうか、と言って兄は目をそらした。俺も、机に落ちた水滴を見つめた。それからまた、会話が途切れる。じわじわと、グラスの周りについていく水滴がまた大きくなって、机に落ちていく。

「……急に連絡よこさなくなるから、びっくりした」

 ようやく話すものの、返事はない。見れば、何故か少し首をかしげている。……けど、少しして、何か合点がいったように頷いた。

「ちょっとあいつ、忙しかったみたいだから」

 あいつ?と俺が首を傾げると、それにまた兄も反対に首を傾げる。どうやら何も会話が噛み合ってないらしいが、久々すぎて忘れているだけで、兄なんてこんなもんだったかもしれないな、と思い直した。なんだかテンポや空気のずれた兄は、腕っ節のおかげでいじめられたりなどはしていないものの、自分の舎弟に扱いを悩まれるような存在ではあった。こういうことも、別に珍しくはない。けど。

「……なんか、あった?」

 今聞くべきだったのかわからないが、なんだかいつも以上にぼやっとしているように見えてそう聞くと、何かを言いかけては口を閉じてを繰り返し、結局口を結び、俯いた。

「……話したくないなら、いい……それ、よりも」

 いろいろ話したいことがあった。山のように言葉が浮かび、それは違う、こっちだろうか、と探し回っている。そうして結局、まだ、一番言わなくてはいけないことを伝えてないことに気がついた。

 俯いたままの兄に、あの、と声をかけると、兄はまた恐る恐る俺を見る。二、三度呼吸を整えてから、あの、ともう一度口を動かした。

「出ていけとかいってごめん」

 兄はきょとんとした顔で俺を見つめ、しばらくして理解したのか、一度驚き、それから……うん、と一度、首を動かした。


 カバンも何一つ持っていない兄の姿を見て、財布を取り出そうとすると、兄はズボンのポケットをあさり、裸の万札を取り出した。シワだらけの一万円を受け取って、帰ってきたのはアイロンをかけたような数千円。兄はせっかくの綺麗な札を小銭を包むようにぐちゃぐちゃと丸めると、そのまま俺の手に握らせた。

「いや、これ、お前のでしょ……」

「いや、俺のじゃない」

「じゃあなおさらもらえないよ」

「いや、ポケットに入れてたら音がするし……なんか、たぶん、ノートとか、買って」

「……ありがとう」

 俺はそのまま札を開かずに、財布の小銭入れの所に入れた。ファミレスを出て、入口の脇に寄り、改めて俺たちは向かいあった。帰ってこい、と言いたいものの、言わなければならないものの、いつ言うのか、本当に言っていいのか、さっきの金はどうやって手に入れたのか、危ないことに巻き込まれていたんじゃないか……いろんなことを考えていると、なあ、と先に口を開いたのは、兄の方だった。

「俺、まだここにいたい」

 え、と言えば、ごめん、と俯きながら言う。けれどその手はきつく握りしめたままだ。

「……ダメか」

 だんだん自信なさそうに小さくなっていく兄を見ながら、自分から何かやりたいと言ったのはいつぶりだっただろうかと思った。

「……高校は」

「次、次は行くから」

「もうお前ハタチになるんだぞ」

「そうだな……」

「……大事なことなのか?」

「ああ」

 そこだけきっぱりと返事をした兄に、これ以上言うことは無い気がした。

「お前今、どこに住んでるの」

「カズ……友達の家とか」

「ちゃんと手伝いしてるのか」

「うん……」

「……友達がいるんだな」

「……うん」

「じゃあ、俺、帰るから」

「うん」

「連絡しろ、危ないことはするな、連絡しろ、いいな、連絡」

 そう言うと、兄はよくわかっていない顔で俺を見て、首をかしげる。

「いい、のか」

「ダメ」

「え、えと」

「ダメだけど、連絡入れるならいいよ、どうせあの人たちはお前のことなんか気にしてないし」

 成長しすぎた会社が手に負えなくなって追い詰められている両親を思った。俺の塾の話はするけれど、兄が家を出ていったことに気づいてすらいないようだった。気づいていても、どうでもいいのだろう、と思い、少し胸が苦しくなる。

 そう、兄にはあんなところにいるよりも、居場所があるのならそのほうがいいのだ。

「……連絡、する」

「当たり前」

「でも電話番号わからないし、電話持ってないし」

「何言ってるんだよ、連絡してきてただろ」

「あ……そうだな、借りるよ」

「借りる?」

 うん、と頷く兄を見ても、やはり何か会話が噛み合ってない気がしながら、まあいいかと俺も頷いた。

「学校、帰らないと」

「……制服のままだな」

「お前がネットニュースになってて急いで来たんだよ、学校なの!抜け出したのなんか初めてだ。見つからないように帰れるかわからないよ」

「ああ……たぶんプールのとことか、でかい木の陰とかに抜け道があったり……」

「ミナヅキをレイコーと一緒にするなよ」

「でも学校抜け出すのなら、サクラより俺の方が先輩」

「威張れたことじゃない」

 そう言うと、なにかおかしかったのか、兄が笑った。相変わらず元気はなさそうなものの、少し緊張が切れたような顔だ。

「……駅まで送る、危ないから」

「駅わかるのか?」

「わからないけど、襲われるかもしれないから」

「なんだよそれ、危なすぎ」

「そうだな、このあたりは危ないところなんだよ、サクラは知らないかもしれないけど」

 少し得意げに歩き出した俺の隣を歩く兄の横顔は、なんとなく最後に会った時とは違う気がした。それからまた兄は、危ないんだ、と今度は噛み締めるように繰り返す。

 きっと俺の知らないことがたくさんあったんだろう。少し寂しいような、心配なような、それでも兄が話さないなら聞くべきではないだろうと思い、俺たちはまた、無言のまま駅まで一緒に歩いた。



『死んだかと思った』

「いや俺も死んだと思いましたけどねェ」

 第一声が死んだかと思ったはねーだろよ、と思いながら、はははと電話相手に笑う。相手は笑わない。声のトーンはマジなまま。廃墟に響くのは、俺の声だけ。割れた壁から差し込む光をなんとなく避けて、俺たちは影の隅の方で、二人で固まって座っていた。電話してんのは俺。相手は上司の上司だが、今は俺の客。

『……前した話、覚えてる?』

「さあ、なんでしたっけ」

『覚えているようで安心した。話がしたいんだけど』

「……それについてなんすけど〜、ご相談がありましてね」

 俺はちら、と隣に目を向けた。目先の相手は緊張しつつも、俺と相手の会話をワイヤレスイヤホンで聞きながら、頷く。水色の髪の毛がふわりと揺れる。

『報酬かい?』

「そら報酬も弾んで頂きたいっすけどね、そっちよりも、電話じゃなくて会って話がしたいんすよ、サシでね」

『……そうやって一人で行ったところで撃たれる、なんてことも予想できるがね』

「そうっすね、まあ普通に考えりゃそうなると思いますけど、俺を信用してよ」

『担保は?』

「……まあ、ですわな」

 再びチラ、と目をやると、隣でワタリが頷いた。スマホを渡した手は震えている。大丈夫、ジャミングの用意はした、特定されねえよ。頷くと、俺に合わせて頷いて、赤く塗った唇を動かす。

「私の子の件についての情報がほしいんですよね」

 今度は俺がモニタリングする番。イヤホンから、相手が息を飲んだ様子がはっきりと伝わってくる。掴みはバッチリ。ワタリの声は震えながらも毅然としている。

「あなたが信用に足ると証明してくだされば、私も一人で参ります」

 しばらく電話の相手は口を開かなかった。俺とワタリは顔を見合わせつつ、息を呑む。探知でもされているだろうか。ジャミングが上手くいってなくて、すぐにここなんか突き止められてしまうだろうか。気づけば手のひらにぐっしょりと嫌な汗をかいている。こみ上げそうになる吐き気を抑えこんでいたところで、電話口で再び声がした。

『……少し考えさせてくれ。夜にまたかけるよ。いまは急ぎで花を用意しなきゃならないから』

「……女性とでもお会いになるんですか?」

『……俺の女じゃない』

 それじゃあ、と言って電話が切れた。唐突な最後の会話がうまく飲み込めないまま俺たちはしばらく互いに顔を見合わせ、それからほっと息をついた。第一関門突破ってトコか。まあ、九十パーくらいは期待出来るだろう。

「……それにしても、あの人、女いんのかよ。とんだカタブツに見えるけどな」

「お固くても風俗を経営してる側の方だよ。無表情でも激しいのがお好きなのかもしれないし、人は見かけじゃわからないよ。それより、俺の女じゃないって言ってほうが気になるけど」

 そう言ってクスクスと笑うワタリは、偉そうな女のキャラがあっさり崩れている。それでいい、と思って、俺も笑った。キツい顔はお前には似合わねえよ。

「夜かかってきたら、どんな意味ですかって聞いてみようぜ」

「不倫かもしれないよ、怒られ

るよ」

「バッカお前、高橋組ナンバーツーの弱み握るチャンスかもしんねえだろ。条件にプラスしようぜ」

「キミ、ろくな人生送らないだろうね」

「もうろくな人生じゃねーからな」

「奇遇だね、ボクも」

 二人で顔を見合わせて、笑い合う。……そして、すぐに真顔に戻る。俺は前の、戦場でかかってきた時の電話を思い出した。

「ユウキはアクセルの件に納得いってないみたいだった。なんかひっかかってる。だから俺に情報を求めてきた。つまり、考えによっては」

「……うん」

 頷くワタリの手は、小さい何かをなぞる様に動いている。目はぼんやりと、どこを見ているのやら。時折、夢の中にいるんじゃないかというような雰囲気になることがあるのは、ジャンキー特有のフラッシュバックみてーなもんだろうか。

「助けてあげられるかな」

「……お前の、コドモ?を?」

「うん」

 頷いたワタリが見ているものは、俺には見えない。

「……ところでお前、行く場所あんの?今までどうやって逃げ回ってたんだ。誰か手引きしてくれる奴がいたのか」

「まさか。スキをついて逃げたんだ。あとはホームレス」

「の、わりには化粧も衣装もバッチリだけどな」

「……女の子だからね。勝手にお風呂も借りたし化粧品も借りたよ」

 一瞬迷った後、ワタリは俺の目を真っ直ぐに見て言った。……俺は何も言わなかった。すると、ワタリはもう一度言った。

「……女の子、だから」

 改めて言い直す姿は、今度は一気に不安になったようだった。俺は、うん、と頷いた。

「いいんじゃね、似合ってるしよ、誰に迷惑かけるもんでもねーし」

 頭に手を置くと、人口の毛の感触がした。カラコン入りの、つけまつげに彩られた目が俺を見る。

「なんでもいーよ、生きてたからな……あと、助けてくれて、サンキュな」

 足を撫でながら言うと、ワタリは泣きそうな顔で微笑んで、頷いた。

「さあて、夜まで、ユウキサンがどうするかわかんねえけど。お前の逃走劇でも聞かせてくれよ」

「売らないって約束するならね」

「約束するって」

「安い約束だなぁ」

 心配だよ、なんて笑いながら、ワタリは俺の肩に頭をのせて、ボソボソと喋り始めた。髪が当たってくすぐったい。耳に入ってくるスペクタクルは、暇つぶしにはサイコー。なんだかボロボロの俺たちは、夜まで大人しくしていることにした。



「リョウガ、また拾ってきたの」

 今度は猫?と聞くと、弟はやや俯きつつ、自信なさそうに、けど何かを訴えるように俺を見る。手には猫。泥をかぶったあとだろうか、くすんでいるが、それでも地は虎柄をしているようであるのが伺えた。俺を見る表情は怯えているが、しっかりと抱きしめている弟の腕を、ぺろぺろと小さな舌で舐めている。

「……父さんに、怒られるかな」

 弟の声は泣きそうだった。俺は少し考えてから、そうだろうね、と返す。俺たちの父は厳格な人だった。職業柄もあったかもしれない。俺たちは家族とは名ばかりで、血は繋がっていても家族ではなかった。なにか気に入らないことをすれば、家を追い出されても、指を落とされても、銃で撃たれても、文句はなし、文句を言うような権利もない、そんな関係。むしろ、血の繋がっていない『家族』のほうが、父にとっては大事であるように見えていた。そしてそれは良いも悪いもない、ただそういうものだった、それだけなのだけど。

 ひとまず俺たちは、まず、生き物を拾ってきていいという許可をもらっていない。

「……ねえ、ユウキ、どうしよう」

「さあて、ねえ」

 子猫にゆっくり手を伸ばすと、初めは逃げられたものの、指の先で頭を撫でてやっていると、もともと人懐こい子ではあるのだろう、少しずつ慣れてくれた。窓の外を見て、これを再度、この雨の中外へ置いてくるのは、弟にはできないだろうなと思った。

「じゃあ、俺の部屋で飼おうか」

「え」

 弟の目が丸くなる。慌てているようでもある。俺は力の抜けた弟の手から子猫を受け取り、抱きしめる。小さな胴体から伝わるのは生の鼓動。この子も生きている。別になんともない、けれど、ただ面白いなと思う。そっと頭を撫でれば、子猫は俺の手を恐る恐る、一度だけ舐めた。

「ユウキ、でも、そんなこと、見つかったらユウキが」

「子猫が俺に懐いてしまうのが嫌?」

「いや、そう……そんな、こと、ない……」

「でも、お前の部屋はみんながよく見に来るから。俺の部屋は誰も来ないでしょ、あの人たち、俺のことはもうどうでもいいみたいだし」

「で、でも」

 煮え切らない様子の弟に、俺は、わかった、と言って、その手に子猫を返した。手についた泥を払いながら、俺は混乱している様子の弟に微笑んだ。

「俺、しばらくリョウガになってあげるから、リョウガは俺になっててよ。でも、気が済んだらちゃんと戻ってよね」

「え」

 弟の返事を待たないまま、じゃあ、そゆことで、と手を振り、俺は弟の部屋に向かった。

 弟の部屋は本邸にある。俺の部屋のある離れからは歩いて五分くらいかかる。厳しい厳しい生活指導も入るだろうけれど、それもまた、きっと楽しいはずだ。俺に普段決められているのは、食事の時間だけ。あとはノータッチだった。真面目な弟は、少々戸惑うだろうな、と考えて、その表情を想像して笑った。

「あらリョウガ様、何か楽しいことでもあったのですか?ニコニコして、珍しいわね」

「あ、はい」

 使用人にテキトーな返事をしながら部屋に入って、その整然とした空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 お前達は本当によく似ている。嫌味な程に。父は俺の顔を睨みつけながら、よくそう言った。俺はその度、そうでしょうとニコニコ笑い、頬をはたかれた。

 双子ではなかった。それでも俺たちはよく似ていたし、よく間違えられた。だから、ちょっと髪型や服装を変えてしまえば、誤魔化すのなんて難しくない。

「さあーて、リョウガは何をしてればいいのかな」

 滅多に読めない本を本棚からランダムで選ぶと、椅子に座ってページを開いた。地味な女の子が同級生に恋をして、努力で自分を変えていく、そんな話。

「……俺は地味なお前も好きだけどな」

 これを読んでいた弟の気持ちを考え、くすくすと笑っていると、リョウガ様、お食事の時間ですよ、と扉を叩かれる。なんとなく不機嫌そうな声で返事をしてから、不機嫌そうな顔で出ていくと、何も怪しまれずに広間へ案内される。それにまた、面白くなって、必死に笑いをこらえていた。

 こんばんは、若、と挨拶される度に、なんだ、こんなふうに呼ばれても、思ったよりいい気分にはならなかったな、と、ぼんやり考えていた。これでは、リョウガをやるのも、あんまり面白くないかもしれない、なんて思いながら、父親を初めとする、高橋組の幹部達が構える食卓についた。


「リョウガ様」

 呼び声に意識を引きずられ、ゆっくりと体を起こした。優しく肩を叩く相手は、部下の一人。名前はわすれたが、いつも頼まずとも甘いココアを入れてくれる、長い茶髪をひとつに束ねた女の子。目が合うと、はっとしたように手を離し、すみません、と頭を下げる。

 部屋の中は真っ暗だった。いつから寝ていたんだろうか。懐かしい夢を見ていたような気もする。なんの夢だっただろう。つい今しがたのことのはずなのに、すぐには思い出せなかった。

「リョウガ様、ずっとお眠りになっていたんですが、もう退勤時間もすぎておりましたので……出すぎた真似でした、申し訳ありません」

「え?いいよ、なんで謝るの。俺、いつから寝てた?」

「ええと……昼過ぎにお部屋にお邪魔した時には、もう……」

「そっか。ありがと。……君ももう帰っていいよ。お疲れ」

「ありがとうございます、失礼致します」

 部下が出ていったあとで、何の用件だったか聞くのを忘れたなと思ったが、まあいいかと思い直す。大事なことならあとからまた来るだろう。なんといっても、直近の一番大事なことは片付いたのだから、深く悩む必要は無い。

 暗くなった部屋、寝起きの頭で、ああ、と思い出して、背広の裏ポケットから二つ折りのケータイを取り出した。だいぶ古い型だが、連絡を取るには十分。どうせ番号もひとつしか登録されていない。

 机に突っ伏しながら決定ボタンを押していくと、かかる。ニコール目で通話になる。控えめな、けれど食い気味に、はい、と聞こえる声は、幼いくせに、背伸びをしようとしていて、そんなところを可愛らしいと思う俺も、もうだいぶ歳をとったのかもしれないなと思った。

「お店においで」

 八時、いや十時……うーん、九時には間に合うように行きます、絶対、絶対に、絶対ですよ、九時には間に合うように行きま

 慌てたように喋る声を遮って通話を切る。時間を見る。ここからMARRYまではそんなにかからない。九時まではまだ時間がある。常用のスマホを開くと、ニュースアプリのトップに、スタバの新作ラテ、なんて載っていて、じゃあスタバで潰すか、と伸びをひとつ。職場に備え付けてしまったクローゼットから、特に目立ちもしない普段着を手に取り、着替える。部屋の電気をつけると、扉のそばに、可愛らしい紙袋が置いてあるのが目に入った。中を見て、なるほどと頷く。淡い色の花のあいだに夏らしい強い色の花をあしらった、主張しすぎないカラフルな花束が入っていた。可愛いようで、大人っぽいようでもある。

「さすが」

 いいね、と指を鳴らすと、はじけた音が部屋に反響する。優秀な一番の部下にも、今度スタバの新作を奢ってやろうかなと考えながら、黒いマスクで顔の半分を覆った。



「心配しましたよ、急に出ていったので」

 戻った時にはもうすっかり夜になっていた。眉を下げて言うカイトに小さくごめんと言うと、カイトは頷いた。

「夕飯、食べましたか?一応、ご用意したんですけれど」

「あ、いや、まだ」

「よかった、じゃあ無駄になりませんね。……あ、お風呂と食事、どちらが先が良かったですか」

「どっちでもいいよ」

「じゃあ、料理を温めますね」

 どうぞ、席で待っていてくださいと言われ、俺は居間のテーブルについた。皿が裏返して用意してあって、それを表に返す。ふと、俺の分だけでなく、三人分皿が用意されていたことに気がついた。

「……待ってたのか、ごめん」

 謝ると、カイトはいいえ、と言って、悲しそうに笑った。

「なんかミヅキ、忙しいらしくて、食べないでいってしまったんですよ」

「そうなのか」

「カイトには関係ないでしょ、ですって。危ないことじゃないならいいんですけど」

 小気味良い音が鳴って、カイトはレンジから料理を取り出して、テーブルに載せた。大皿に載っているのはナポリタン。小皿に小さなハンバーグが添えてある。別の皿には温野菜。いい匂いだ。途端に考えてもいなかった空腹が襲ってきて、ぐうぐうと音がなり、思わずカイトの顔を見れば、カイトは口元に手を当てて笑った。

「いいですよ、俺もそんなに食べないので、全部食べてください」

「いいのか」

「足りなければまた作りますよ」

「そうか」

 カイトも席につき、俺たちは一緒に手を合わせ、いただきますをした。カイトの料理はやっぱりおいしいな、と思いながら食べていく。ふとカイトを見ると、手が進んでいない。

「……腹減ってなかったのか。俺に合わせなくても、大丈夫だけど」

「あ、いえ。ただ……せっかく好きなもの作ってやったのにな、なんて」

 俺が勝手にしたことなんですけどね、と笑うカイトはやっぱり元気がないように見えた。……ミヅキのことだろうか。空いた席を見つめる。きちんと用意された箸も、皿も、ミヅキに合わせた少し小さめの、可愛らしいものだ。なんだかそれが、寂しく見えた。

「シドウさんこそ、自治警察はどうだったんですか。……なんか、ネットのニュースにそれらしき人影が映っていたのですが……」

「……」

 カイトに言われて、俺は黙って頷いた。何を話したらいいのだろう。どうしようもない記者たちのこと?困っていた自治警察のやつのこと?セイラはほんとに死んでいたこと?弟に会ったこと?……まだ封を開けていないもらった手紙を、そっとポケットの上から触る。

「……抗争も終わりましたし、西地区に帰りましょうと連絡は回したんですが」

 何も言わない俺に、カイトが先に話を進める。

「……カイトはいつも、いろいろしてくれるな。まるで、リーダー、みたい」

「……?何言ってるんですか、俺はただ、できることをお手伝いしたいだけですよ。不良の心得にもありました。舎弟がリーダーを支えるものだと。リーダーはシドウさんですよ」

「……そうか」

 リーダーか、と思った途端、急に口の中のスパゲティが飲み込めなくなった。なぜだかはわからない。急に味もしなくなった。よくわからないが、吐き出すと怒られるから、とりあえず水で流して、飲み込んだ。

「……リーダー、か」

 リーダーだから。響いた言葉が反響して、頭が痛くなっていく。

「……ごちそうさま。風呂、入るよ」

「あ、はい。……も、もしかしてお口に合いませんでしたか」

「いや、なんか、急に腹一杯になって。美味しかったよ」

 そうですか、と言ってカイトは笑った。冷蔵庫入れておきますから、明日にでもよかったらどうぞ。余った夕食は、ちょうどあと一人分くらい。頷いて、俺は風呂に向かった。

 パーカーを脱いで、ズボンを脱ぐ前に、紙の感触を感じて慌てて取り出した。……マサキにもらった白い封筒だった。レンゴウカイのシドウ様、と書いてある文字は、丸っこくて、柔らかそうだ。

 読みたくなかった。どうしても手が震えて、開きたくなかった。なぜだか急にとてつもなく眠くなるような感覚もして、今日は眠いから読めないと、ひとまず着替えの上に置いた。

 体を流して風呂の中に入ると、なぜだかすごく息苦しかった。何かをしなければならないと思っていた。だから、まだここに残るとサクラに言った。けれど、俺は何をしなければならないんだろう?

 リーダーはシドウさんですよ、と言っていたカイトの声がまた頭の中で響いた。なんだか妙な気分だった。どんどん眠くなるような感覚がした。風呂で寝たら死ぬぞと弟に厳しく言われていたのを思い出して、何とか湯で汗を流すだけして、さっさと風呂を出る。

 着替えの上に乗っている封筒はそばによけて、着替えていく。そのまま風呂場を出ようとして、迷って、また封筒をポケットに押し込んだ。

 でも、開けなかった。


【れんごうかいのにじゅうよん おわり】

【れんのうかいのにじゅうご に つづく】

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