れんごうかいのにじゅうさん
◆
カズシさんやハルカゼちゃんとのお茶会のあと、なんとなく俺たちは話をして、なんとなく解散した。もう大丈夫なんですか、と聞くと、カズシさんは大丈夫大丈夫と繰り返しながら、ふらついてハルカゼちゃんに支えられていた。二人はヨウジュに礼を言って、ハルカゼちゃんは懐から厚い包みをヨウに押し付けた。ヨウはそれを受け取り中を確認し、わお、と少し目を大きくした。
「なにこれ。すごいお金」
「……何、足りなかった?まったく、腕がいいからってキミのオヤジもがめついからね。いいよ、いくらほしいの」
ハルカゼちゃんは機嫌を悪くした風ではなく、ただ不安そうにヨウを見つめている。そんなハルカゼちゃんの横顔とヨウの手の中の包みを見ながら、カズシさんは何か言いたげだったが、下を向いて口を結んでいた。ヨウは、うーん、と言いながら封筒の口を閉じて、それをそのままハルカゼちゃんの手に戻した。今度はハルカゼちゃんがぽかんとしている。
「いらないよ。レンゴウカイの一員として、仲間を助けるのは当然だもの。俺、小学校のとき、ヨウジュくんのいいところはお友達を大切にするところだねって担任の先生に言われてから、お友達を大切にすることに命かけてるからね」
「いや、え、あ、うん……」
そんなヨウジュのどや顔に押されながらも、ハルカゼちゃんは、でも、と難しい顔をしている。それにまた、ヨウジュは緩く首を振りながら言う。
「どうしても払いたいならいいけど、その倍はもらわなきゃ」
「……キミってとんでもないなぁ」
ハルカゼちゃんはそう言って嬉しそうに笑いながら、包みを小さなカバンになおした。
「……なあサクラ」
別れ際、カズシさんは俺に言った。
「シドウってやつに会ったら、なんか伝えとくよ、俺。何か言いたいことある?」
「会う予定があるんですか?」
「いやいや、会ったらの話だよ」
「……電話なんかしてないでいいから、一回は帰って来いって伝えてください」
「了解」
そうやって、カズシさんとハルカゼちゃんと別れた。なんだかいろんなことが目まぐるしく起こって、俺にはわからないことだらけで、ひどく疲れていた。ヨウジュを見れば、やっぱお金もらっときゃよかった、今月ピンチなんだった、とぼやいている。
塾の合宿は終わったのね、と嬉しそうに声をかける母親になんだか申し訳ない気持ちになりながら、俺は部屋のベッドに寝転んでいた。よくよく考えれば、俺はシドウを探していて、ヨウジュはシドウのことを知っていて、だからシドウのことをきければとおもったのに、いつのまにかヨウジュと本当に友達になってしまっていた。いや、それは……嬉しいことなのだけれど。昼間の話だって、うまくはぐらかされたのだなと思ってしまう。
「……いま、どこで何やってんだ」
今日も連絡は来ない。壁掛け時計の秒針を刻む音が、不安になった心に拍車をかけていく。
翌日の昼休み、教室に戻ると、俺の席にはヨウジュが座っていた。何かリアクションを期待されているのだろうかと悩んでいると、ヨウジュはヤッホーと俺に手を振る。
「そこ、俺の席だけど」
「知ってる。ねえ、スマホニュース見た?ヤフーでもラインでもなんでもいいけど」
「えっと……いや、今日はまだ見てないよ」
またいきなり何を言い始めたんだろうと思っていると、ヨウジュはそっか、とだけ言って、席をどいた。
「見ないほうがいいとも言いたいし、見たほうがいいとも言いたいし、俺は複雑な気分なので自己責任でお願いします」
「え、何」
チャイムなっちゃう~、とわざとらしく言いながら自分の席に戻っていくヨウジュを見ながら、なんとなく、ネットに接続する。トップページには、話題のニュースがいくつか表示されている。その中でも一番上にあがっているのは、噂の抗争が異例の早さで終わりを告げたこと。自分も少し話題にしていたし、気になってそれを開く。
自治警察と高橋組の抗争。何度も続いていたその抗争が終わったのは、自治警察のリーダーが自ら飛び込んだ戦場で、命を落としたからだということだった。俺にはあまりなじみのない話だが、自治警察は西地区で治安維持に努めていた慈善集団でもあったようで、各方面に打撃を与えるのは想像に難くなかった。
また、ニュースにはその概要の下に、朝の自治警察の本部ビル前の中継の映像も載せてあった。ああ、マスコミの対応に追われて大変なのだろう。人が一人死ぬ、それもリーダーが死ぬというのは恐らく大変なことだ。どんな気持ちなのか、どんな状況なのか、こちらは細かく想像することはできないけれど、とにかく忙しい状況で、部外者が土足で踏み込もうとし続けてくる精神的負荷は想像できた。
なんとなく、同情の心地で映像を流していると、やはり、成員が止めるのにも関わらず中へ押し入ろうとする者、しかも明らかに楽しんでいる。このネタは自分が先に報道するのだと、ただその競争への興奮しか感じられない。全く関係ない俺でも不愉快になる雰囲気だった。
と、そんなとき。映像の端に、記者たちとは雰囲気の違う人影が現れる。人影はしばらくあたりを見回してから、ある二人組の記者に近づいていき、思い切り記者の男を殴り飛ばした。……見覚えのある人物だった。伸びたぼさぼさの髪。見覚えのない黒のパーカー。背は高く、体はがっしりとしていて……。
「え」
思わず立ち上がって、ヨウジュを振り向くと、教室の四方から視線を感じて、固まる。まさかと思って前を見れば、ニュースに夢中で気づかなかったが、すでに担任が教卓にたっている。時計も、とっくに昼の最初の授業の開始時刻を過ぎている。
「どうしたキノシタ、そんなに慌てて」
「あ、いや……」
顔が、顔どころか耳の先までが熱をもち、まさに火が出ているようだった。俺は何も言えず、下を向いて、ゆっくり席に戻る。ひそひそと聞こえる女子の笑い声は、俺に対してのものだろう。余計に恥ずかしくなる。この一年、ほとんど目立たないように生きてきたのに、台無しだと思った。
と、そんな時だった。後ろのほうの席から、せんせー、というヨウジュの声がした。今度はクラス中の視線がヨウジュに向かう。ヨウジュは右手をまっすぐ上げて、ひらひら振っている。
「イズミまでどうした」
「せんせー、キノシタ朝から気持ち悪いって言ってたから、きついって言いたかったんじゃないですかね。俺、保健室まで連れていきますよ。授業、続けててください」
え、と思ったが、ヨウジュは何やら瞬きのスピードをあげて、合わせろと合図している。そうなのか、と聞いてくる教師に、ややうつむきながら小さく頷いた。
「それじゃあイズミ、キノシタを頼んだぞ。……じゃあ、続きだが」
はあい、と優等生の返事で俺の腕を掴み、ヨウジュは勢いよく教室を出る。俺もそれに引きずられていく。
「……ありがとう、助けてくれて」
現実味のない心地のまま、とりあえずヨウジュに礼を言う。三年生の教室の連続が終わり、空き教室が続く廊下を過ぎ、階段の踊り場でヨウジュは足を止めて、俺を見た。
「はやくしないと」
会話にならない返し。一瞬、なんの話をしていたかと悩む。
「……ああ、そうだな、はやく教室戻らないと」
「ちがーうよ」
「え?」
「動画見たんでしょ。さっきのニュース。シドウさん」
「……あ、あ」
やっぱりシドウだったんだ、と思いながら俺は頷いた。シドウだった、けど。脳内でさっき見た映像を、同じ場面を何度も繰り返してしまう。……あんな風に、感情をあらわにしているのを見たのは、いつぶりのことだっただろう。
ヨウジュは頷く俺の両肩を掴んで頷いて、それから腕時計で時間を確認して言う。
「帰りのホームルームに間に合うなら、誤魔化しといてあげる」
「へ?」
「さっきのニュースだよ。きっと、まだ近くにいるよ。自治警察ビルなら地図に載ってるよ。歩いていくのはちょっと遠いけど、電車でいけばすぐだよ」
「……いや、なにが」
「え?シドウさんに会いにいきたいの合図じゃなかったの?」
「え?」
ヨウジュの言っている意味がわからずぽかんとしていると、ヨウジュも何故だかぽかんとしている。だが、ようやくヨウジュの言おうとしていることを理解して、俺ははっとする。
そうだ。今から行けば、行方不明の兄に会えるかもしれない。……でも。
「……俺、会ってどうしたらいいんだろ」
昨日の会話を思い出す。俺が追い出したようなものだった。心配で探してはいたけれど、会ったらまず何を話すか、どうしたらいいのか、何も考えていなかった。けれどなぜかまた、俺の言葉に、ヨウジュはぽかんとしている。
「会ってから考えたらいいよ、そんなの」
「え」
「会いたいんでしょ。じゃあ、会うところからだよ。シドウさんなら間も十分でしょ」
「なんだそれ」
すっかり馬鹿にされている兄貴。けれど、その通りだった。あいつなら、俺が悩んでる間もずっと悩んでるだろう。何しろ、きっと俺よりもあいつのほうが、俺に会った時どうしたらいいかわからないはずだし。
「……学校抜け出して、いいのかな」
「サクラ、学校に何のために校則があると思ってるの」
「そりゃ、円滑な学園生活を送るため」
「破るためだよ。昼間に学校抜け出しドキドキわくわく大冒険。行方不明のお兄さんとエンカウント。これほどドキドキする青春のイベントはないでしょ。行っておいでよ。んで、俺に感想聞かせて。これは義務だからね」
「……なにそれ」
じゃあ行ってらっしゃい。サクラはとりあえずトイレにこもってることにしとくから、風評被害受けるかもね。そう言って送り出してくれたヨウジュにうなずいて階段を駆け下りるも、体中から心臓が飛び出しそうなほどにドキドキしている。こんなことしていいのか。バレたら。両親に知れたら。でも。
自治警察のリーダーは命を落としている。いまを逃したら、兄にももう一生会えないかもしれない。
◆
「お疲れさま。よくやったね」
目の前に置かれたのは珈琲。なるほど、労ってくれているのかと感じるとともに、珈琲一杯が抗争の報酬になるものかと不満も渦を巻く。……いや、手当なら山のように出る、はずだが。相手はソファに腰かけ、書類に目を通しながら、やや残念そうに言う。
「でもそっか、あの子死んじゃったの」
「……そうだな」
年を重ねるにつれていろんなことに慣れて行ってしまい、日々に新鮮味もなければ特別な記憶も少なくなっていく。だが、人を殺すことだけは、何度やっても慣れることはない。忘れるのにも時間がかかる。……つい昨晩のことだ。俺の手には、若くやわらかな冷え切った頬の感触が、まだ残っている。何度も手を開いたり閉じたりしてから、珍しく用意してもらった珈琲に口を付けた。……甘い。
「あんなに俺を求めてくれてたのにね」
「首をな」
「なんでもいいよ。面白かったじゃないか」
「面白い……」
自治警察とやらが発足して十年と少し。突然余計な業務が増えたくらいにしか思っていなかったが、確かにリョウガはたびたびアサギリセイラの召喚に応じ、話し合いをしたり、時期にはお歳暮を贈ってみたりと、気に入っていたようではあった。
「どうなるのかなぁ、自治警察」
つまらないね、と言いながら夜通し俺が作った書類を投げるように置いて立ち上がり、窓際に飾ってある花の花びらを一枚ちぎるその姿に、お前が潰したんじゃないかと吐きたくなるのをこらえる。
「……それに、お前にはほかにも、お前を求めてくれる人がいるだろう」
「え?そんなの、いたっけね」
「……ミヅキに会いに行ってあげてくれ」
掴みかかりたいような憤りを感じながらも、すべて飲み込み、それだけ言う。リョウガはそれを聞いて、楽しそうに目を細める。
「会いに行ってあげたらいいじゃないか」
「……彼女が求めてるのはお前だよ、リョウガ」
「そうだね、彼女が求めてるのはリョウガだよ」
リョウガは俺のそばにきて、座ったままの俺の顎を指で持ち上げる。その愉快そうな表情に、吐き捨てたい唾を、また飲み込む。
「怒らないでよ、俺もちゃあんと、あの子が好きだよ」
「……」
「……わかったよ、ちゃんと今日は行ってあげる。あの子もいい子にしているだろうからね」
「……連絡、してやってよ」
「ああ、しょうがないね」
そう言って笑い、さらにリョウガはまじまじと俺の顔を見つめる。
「……なんだ」
「いいや?面白い顔してるなあと思って。……ああ、それとユウキ」
「なんだ」
「自治警察に贈る花を見繕っておいてよ。彼女に似合う、白い花がいいね。花言葉なんかいいから、とにかく美しい花を作ってもらって」
「まさか給料から引かれないだろうな」
「まさかあ、俺のポケットマネーだよ。ああ、なんてすばらしいボスなんだろう」
「承知しました」
特につっこむことはせず、そのまま自治警察、花、と、書類の端にメモをする。
「ああ、ついでに、あの子に似合う花束も作っておいて。しばらく我慢させてたんだ、ご褒美がないとね。彼女は可愛い花のほうが好きだろうけど、きっと綺麗な花束をもらったほうが喜ぶよ」
「……はい」
「じゃあね、頼んだよ、リョウガさん」
「……リョウガはお前だ」
「そうだよ。何当たり前のことを言ってるの。リョウガは俺。いい、ユウキ?」
そう言って笑い、リョウガは部屋を出ていった。とたんにあふれ出した疲れに、そのまま机に突っ伏した。
……瞼の裏に、愛しい少女の笑顔が浮かぶ。リョウガさん、と名前を呼ぶ声がする。……そこで、違う、とため息をつく。
彼女が呼んでいるのは俺じゃない。俺はもう、リョウガじゃない。
引きずり落されるように意識を手放しながら、懐かしい映像を見ながら、ああ、夢か、と力を抜いていく。……そうだったな、と思い出す。
なんでも拾ってきてしまうのは、リョウガだったなと。
◆
「どうぞ」
「ああ、ありがとう……」
俺よりも目の位置の高い、俺よりもずっと肩幅の広い、壁のような大男。マサキ、だっただろうか。そんなマサキの大きな手には、ティーカップはあまりにも小さく見えた。
湯気を立てているのは珈琲。なんだか金のかかってそうな、それでも嫌味な感じのしないような、白地に細い金色のラインのおしゃれなカップ。口をつけると、砂糖やミルクではない珈琲の甘さを感じた。
「さっきは、記者を追い払ってくれて、ありがとう」
「え、あ、いや」
あれは、体が勝手に。珈琲に映る自分の顔とにらみ合いながらぼそぼそと答える。我ながら、情けない頼りない顔をしている。……隣の部屋で寝ているセイラのほうが、しゃんとした顔をしている。恐る恐る目を上げると、マサキはゆっくり首を振った。
「いいんだ……お嬢様もきっと、喜んでる」
「そうかな」
「そうだ」
そうか、と頷いて、しばらく沈黙が続く。初めに会った時は機械的で、感情の見えない不気味な男だと思っていたが、今日のマサキはずっと寂しそうな顔をしているような気がした。
「……セイラは、なんで」
なんで、死んだんだ、とは言えなくて、そこで言葉を止めた。マサキは頷いて、すぐにこたえる。
「抗争で亡くなった。タカハシユウキに撃たれたそうだ」
「え」
聞こえた名前に驚いて顔をあげた。ユウキ、俺が夜、抗争を見に行こうとした時に止めて、家まで送ってくれた男だった。
「なんで」
「戦いを挑んだのは俺たちだから、何も何故もないんだ。……ただ、血を拭いて、綺麗に包帯を巻いて、俺たちにお嬢様の亡骸を渡してくれたのもタカハシユウキだ」
「……そう、なのか」
俺にはよくわからなかった。あの夜、優しかったユウキと、セイラを撃ったユウキと、それから何故か自分でセイラを自治警察に渡しに来たユウキが、同じ奴だと思えなかった。ユウキの行動の意味も、俺にはわからない。
「あの男は、タカハシリョウガとは違う。お嬢様も、彼には一目置いていたようで、最初のうちは高橋組をやめないかと何度も説得していたようです」
でも、いつも断られていて、諦めたようでしたけれど。マサキはそこで一息おいた。俺も、ゆっくりと、慎重に話す。
「……なあ、セイラは……死んだ、のか」
カップを両手で包むように持ちながら、珈琲を覗き込むと、水面に映っているのは、さっきよりも情けない顔をしている男だ。
「はい」
マサキの声は、少し震えている。顔をあげると、マサキは、懐から白い封筒を取り出して、俺に差し出す。皺のほとんどついていない、真っ白な封筒。
「これは、セイラ様から。もし自分に何かあったら、レンゴウカイのシドウ様へ渡すようにと言われて預かっていたものです」
「セイラから」
俺は渡されるままにそれを受け取る。そのまま、ズボンのポケットに押し込むように入れる。
「今日は、お越しいただきありがとうございました」
頭を下げるマサキに、俺は耐えきれず、口を開いた。
「もし、もし俺が、レンゴウカイが、協力してたら、自治警察は……セイラは、生きてたのかな。こんなことに、ならなかったかな。俺が、俺が逃げたから。俺たちが逃げたから、こんなことになっちまったのかな」
声を出しているうちに、ぼろぼろと床に雫が落ちていった。生暖かく頬を伝って落ちていくそれは、俺の涙だった。声もどんどん涙交じりになっていった。手が震えていた。
ふと、キョウを思い出した。逃げるのかと言っていたキョウを。俺は抗争から逃げて、安全な場所で、安全に過ごしていただけだった。
「……落ち着いてください」
大きくがっしりとした手が俺の頭を撫でた。その感覚に、さらに涙が止まらなくなる。ロボットみたいなやつだと思ってたのに、その手は優しく、暖かかった。人間だ、と思った。
「勝負は時の運、と言う言葉もあります。かならずしも人数がいたからといって勝っていたとは限りません。……それに、どのみちお嬢様は自ら戦場に足を運んだことでしょうから」
「……なんで。セイラまで行く必要なかったんじゃないのか」
「そうですね、私もそう思いますが」
マサキは少し間をあけて、言った。
「お嬢様は誰よりもリーダーでしたから」
リーダー。俺が思っていたよりも、その言葉はずっと重たい。
エレベーターから先はマサキはついてこなかった。深く頭を下げたマサキに、俺も背中を丸めて頭を下げた。
女の構成員は喋らなかった。俺も話しかけなかった。一階へついてエレベーターを降りると、ハルが腕を組んで立っていた。その顔は赤く、目も腫れていて、うるんでいる。どうしようかと悩んでいると、ハルは何も言わずに俺とすれ違ってエレベーターに乗ってしまう。閉まるエレベーターの扉に、なんとなく俺はまた、頭を下げた。
なんだかふわふわとした気分だった。ふわふわとしているのに、どこか息がしづらくて、窮屈で、身動きの取れないような感覚。経験したことのない痛み。ふと、ポケットに押し込んだ白の封筒を見て、またポケットに押し込んだ。ここで読みたくなかった。いや、本当は、絶対に開けたくなんてなかった。それを開けてしまえば、きっとこのふわついた感覚も終わる。その代わりに来るものの重さを、想像したくもない。
出口まで送ってくれた男の構成員にまた俺は頭を下げて、自治警察のビルを出た。一度しか来たことがなかったはずなのに、これで二度目なのに、きっともう来ることはないのに。なぜだか、いつも出入りしているような気分になってしまう。昨日も、今日も、明日も……そしてそこには、若く、しっかりしてる、リーダーがいるのだ。
外へ出ると、何故だか振りかえりたくなくて、そのまま前に踏み出す。早く帰らなきゃ、と思った。家でカイトとミヅキがきっと待ってる。……いや、俺の家ではないけれど。
そうだ、抗争が終わったんだもんな、と思考を切り替える。カズシも家に帰ってるかもしれない。俺がいなくて心配してるだろうか。それとも、何故かなんでもしってるカズシなら、俺がカイトの家に泊ってることくらいわかってるだろうか。……それとも俺なんか家に帰らなくても、どうも思わないだろうか。
そんなことを考えていると、目の前に人影が現れた。走ってきたのか、体中で息をしながら、まっすぐ近づいてくる。片手にはスマートフォン。道を調べながら遅れてきた記者でもいたのだろうか。いや、それにしては若いような気も。
というか、見覚えのある気がする、と思ったとき、相手が顔を上げた。しっかりと目が合う。切れた息を整えながら、ゆっくりと相手は近づいてくる。俺は動けないまま、間抜けにその場に突っ立っていた。手を伸ばせば届く距離。お互いに一歩踏み出せばぶつかる距離。
ボロボロのローファ。カイトと同じ制服。短く切った前髪。その鋭い目……。
「……シドウ」
「……サクラ?」
お互いに名前を呼び合って、固まる。目の前には、もうずっと会っていなかった、厳しい俺の弟。これは夢だろうか。ふわついた心地のまま、サクラを見つめていた。サクラは落ち着かなく手を動かし、戻し、顔を上げて、口を開こうとしては閉じ、眉間に皺を寄せたり目を閉じてみたり、俺はそんなサクラをただじっと見ているだけだった。やがて、サクラが一歩前に出た。伸びたサクラの手に、反射的に目をつぶった。
「ごめん、ごめん」
怒らないで、と一歩引こうとすると、肩に手を置かれる。それ以上何もない。恐る恐る目を開けると、なんだか間抜けな顔のサクラと目が合った。悲しそうな、安心したような、そんな顔。そのままサクラは俺を見上げて、大きく息を吐いた。
「無事なんだな、無事だったんだな、馬鹿、よかった」
急に連絡すんのやめんなよな、と言いながらサクラは下を向いた。ぼろぼろとアスファルトに何かが落ちて、黒ずんでいく。サクラが泣いているのに気づいたのは、しばらくしてからのことだった。
◇
「それ、はどうしたの?」
仕事帰りに立ち寄った弟のアパートでは、見覚えのない小さな女の子が眠っていた。相手は答えない。目をそらし、目を合わせ、何か言いかけて、それからまた口を閉じての繰り返し。何か小さくぼそぼそと言ったようだったが、外の激しい雨の音で何も聞き取れなかった。
「まあ、いいけれど。へえ、お前はこういう子が好みだったの。幼いけど、まあ、そうだね、可愛い顔してる。ただ……素直そうには見えないけれど」
「外で濡れてて、かわいそうだなと思っただけだ……一人で売りをやっているようだったし」
「ふうん?そうだね、やるならウチ通してもらわないとね」
「そうじゃないだろ」
「何が?」
難しい顔をしてから、相手は言う。
「こんな幼い子が売りなんかしてるのが心配だろ」
「何をいまさら。そういう街だよ、ここは」
そんなのは当たり前のことだ。俺たちが生まれるもっと前から、この街は悲惨なことになっている。未成年が体を売り買いしていようと、その辺で日常的にレイプが行われていようと、待ちゆく人が突然ケンカを始めようと、路地裏では有害な薬の売り買いが行われていようと、すべて、そんなもの。そんなものでしかない。
それも、俺たちがこの街をまとめるようになってから、だいぶマシになったものだ。
「……でも」
まだ何か言いたげな弟の顔を見、俺はついに笑ってしまった。明らかに不快そうな顔を向けられ、ごめんごめんと手をひらつかせると、弟は何も言わずに口をきつく結ぶ。そうしているうちに思い返す。そういえば、弟は昔からなんでも拾ってくるんだったなと。
例えば道端に捨てられていた子犬。例えば誰かのぬいぐるみの忘れ物。例えばコンビニに置き去りの傘。例えば……雨の中濡れていた若い女の子?
「それなら、お前が守っておやりよ。俺は止めないよ。でも、世話はきちんとしてよ。きっと犬よりも面倒だと思うよ」
「……それは、この子を組に巻き込むことになるじゃないか」
「もうお前が巻き込んだじゃないか」
「もう、この子は家に帰す。それでしまいだ。」
「それで終われない顔してるけど、お前」
そういうと、弟は俺を睨みつける。はいはいと言いながら、じゃあ車を出しなよと声をかければ、家を聞いていないという。まったく、それじゃあ送っていけないじゃないかと笑うと、下を向く。久しぶりに弟のこんな姿を見たなとほほえましい気持ちになると同時に、そこで寝ている少女にも必然的に興味がわいた。この仕事人間をこんなに振り向かせるなんて、一体どんなに面白い子だろうか。
「……ねえ、リョウガ、俺、その子がほしいな」
「え」
目をまん丸にして俺を見つめる弟に、ああ、と笑って謝る。
「ごめん、リョウガは俺だったよね」
「……そう、ですね」
慌てたように、挙動不審なほどに、表情を変え、でも、と弟は言う。
「名前、俺……」
リョウガって、俺。いつも落ち着き払っている弟の慌てる姿を見るのは久しぶりで、ああ、いいな、なんて思った。このほうがずっと人間らしくて、面白い。
「じゃあ何も問題ないじゃない。今日その子を拾ったのも、これから先会っていくのも、俺でいい」
少女の寝かされているソファの端に座り、そっと顔にかかっていた髪をはらってやると、少し身じろぎするその姿は、確かにとても愛らしい。へえ、こんな子が売りをしていたの。どうしてもしたいのなら、ウチの店に入れてあげよう。それも、どうしようもない男の入らないような高い店に。
「……なあ、その子を捨てないで、ユウキ」
「……やだ、女みたいなこと言わないでよ、リョウガ」
大丈夫、捨てはしないよ。リョウガが惚れたんだものね。……俺とうり二つの顔が歪む。それは一体、何の感情だろう?
「……りょうが、さん?」
細く愛らしい声で名前を呼ばれる。咄嗟に俺は弟と顔を見合わせる。パクパクと口を開け閉めしている弟の顔を見、俺はそのまま小さな少女の頭をなでながら、優しく言う。
「なあに、リョウガの愛する子」
みづきですよ、と、彼女は寝ぼけながら笑った。
◇
【れんごうかいのにじゅうさん おわり】
【れんごうかいのにじゅうよん に つづく】
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