れんごうかいのにじゅう


 集中して集中して言葉を集め、つなぎ合わせ、書き留めて、何度も読み直し、ようやくついていけている日々の授業。……なのに、今日は後ろのほうの空いた一席が気になって、教師の言葉を一つもまともに理解できなかった。必死に音は捕まえているのに、その意味を理解するよりも別のことに脳を使ってしまっている。

 幸いにも今日の日付や曜日からは、俺が安易に質問されることはなかった。だいたい、教師の出席番号で人に質問をする癖は、どうなっているのだろうか。わからない問題ばかり聞かれることが多く、俺はあまりあのシステムは好きでない。特に今日に至っては予習もろくにしていないから、必死に隠れて問題を解こうとするが、すべて頭から抜けてしまったようで、まったくわからない。ぼんやりとして、気が付けばまた五分たち、教卓の前の四枚黒板が入れ代わり立ち代わり、書かれては消え、書かれては消え。俺のノートは今日、一ページも進んでいない。白紙のまま、シャーペンの先は何を書けばいいか考えあぐね、意味のわからない形を紡いでいる。

 大丈夫、俺に任せてよ。ね、ケーキ美味しいから、きっと大丈夫だよ。

 見知らぬ男性の生命の安否と、新しく駅に出来たケーキ屋の味はきっと何も関係がないはずなのに、傷だらけの薄緑色の髪と、ヨウジュの言葉がずっと頭をぐるぐるしている。あの男の人は生きているだろうか。ヨウジュは今日、学校を休んで大丈夫だったのだろうか。俺は今日、学校へ来てしまってよかったのだろうか。



「オハヨー」

 オハヨー。オハヨーオハヨー。オニーサン。オハヨー。朝だね。調子はどう。オハヨー。まるで九官鳥だ。覚えた言葉以外喋らない動物のように、また声は、オハヨー、と繰り返した。抑揚はない。感情も籠っていない。ある種不気味だなと思いつつ、ぼやける視界を懸命に整え、一点を見据える。やっと合った焦点の先にいたのは、フレームの太いプラスチックの黒い四角い眼鏡をかけた、やや幼い顔をした男だった。その顔には表情もまた、ない。……どこかで会ったような、そんなに深くかかわっていないような。

「……だれ、だっけ」

「お、さて誰でしょう。問題を出してあげる。一番、戦隊ヒーローの敵の悪の秘密結社の雑魚。二番、魔法少女の敵の雑魚。三番……」

「全部雑魚じゃねーか!」

「オッ、いいツッコミだね、オニーサン。俺、そーゆーの待ってたんだよ。俺とコンビ組もうよ」

「はぁ……?お前マジで何言ってんの」

 抑揚無し、表情無し、そのままでひたすら口を動かす、推定高校生の男のノリになかなかついていけず、そういえばなんで俺は横たわっているんだ?と思って、体を起こそうとする。そういえば、俺はなんでこんな硬いベッドで寝てるんだ。そういえば、ここは一体どこなんだ。今まで男しか見えていなかった視界を広げようと、体を起こしながら、首を。

 と、その時、思わず全身に走った激痛に、たまらず声を上げて硬いベッドに倒れこんだ。痛い、なんてもんじゃねえ。息がしづらくて、それまで何も気にならなかった指先から頭の先までが、動かなくなる。全身から冷や汗があふれ出て、一気に手がべたべたしてしまって、それがまた気になってしまう。

「ああ、気づいちゃったね。人間、気づかなければ切られていても死なないもんだけど、気づいちゃったら仕方ないね。痛いよね。麻酔追加しよっか」

「な、な、なに、お、まえ、は」

 よしよし、と頭を触ったその手を払いのけることもできず、ただそれだけをようやく口にした。男の動きはのんびりとしていて、早く助けろ、もっと早く、という思いが頭をめぐる。この得体のしれない男でいいから、いまこの痛みから救ってくれと、ただそれだけしか考えられなくなっていく。男が何かしゃべり続けているのも、もう、何かの音、という程度しか感じられなくなり、意識が朦朧としていく。

 痛い、と思った。体のどこかに、何かが刺さった。頭の中がぼんやりとして、しかし、いつの間にか荒かった呼吸は落ち着き、体が楽になっていく。

「……落ち着いた?」

 隣に椅子を持ってきて、男は座って俺の顔を覗き込んでいた。……そこでようやく、俺は、あ、と声を出した。ようやく記憶と現実がつながった。俺は確かに、こいつとあったことがある。

「……お前、ヨウじゃん」

「そう、レンゴウカイのヨウです、やーっと気づいてくれたんだね。俺のこと忘れてたら寂しいなって思ってた。おはよう、高橋組のカズシさん」

 体が強張る。ゆっくりと首を動かして、自分の服装を見る。あれ、マスクつけてなかったっけ。顔に手をあてる。ない。でも、つけていた気がするのに。それより、高橋組の、と呼ばれたことにはっとする。服装か。それとも。

「……組の人間ですか」

 探りを入れるが、ヨウはううん、とあどけなく首を振る。じゃあ何なんだ、と思っていると、ヨウは続ける。

「俺の親父、五年前まで高橋組で働いてたの。いまはね、組の人とかが来る病院やってるってわけ。ここ、和泉医院。いま抗争やってるし、黒スーツに黒マスクに大怪我って組の人っぽすぎ。俺はそのオヤジのセガレだけど、腕はいいよ。以後ごひいきに」

「……マジ?」

「マジ」

 ヨウは表情が変わらない。なんといっても俺はまだ一度しかこいつに会っていない。こいつがどんな人間か調べる間もなく呼び出され、抗争に巻き込まれていた。……得体のしれない不気味さを感じて、さらに身が強張る。

「……んで、その、俺はなんでここに?俺は確か、撃たれたと思うんだけど」

 最後に頭に残っている曖昧な記憶を掘り起こしながら、俺は言う。とりあえず、こいつと俺とは上下の繋がりは何もないってことで、気は若干楽になっていた。それでも、いまの俺の命はこいつに握られているんだという緊張感だけは忘れないように。うかつな一言で、殺されてしまうかもしれない……そう思うのは、あの最悪の上司のせいだろうな。

 だが、お相手様にはそんな心配は無用だったようだ。相変わらず無表情で、しかしのんびりと答える。

「水色の髪のゴスロリのオネーサンがお姫様抱っこしてきたんだよ」

 ハッとした。直前の記憶が鮮明になる。そうだ、あの時。自治警察のハルに撃たれたあと。気が付けば俺は、ヨウの両肩を掴んでいた。ほんの少しだけ、ヨウの両目が大きくなった気がした。

「なあ、その人は。どこいったんだよ、なあ」

「え、なに、どうしたの。落ち着いてよ。ね。駅前のケーキ屋で買ったブルーベリーケーキ、カズシさんの為にとっておいたんだから」

「は?ケーキなんかどうでもいいわ!なあ、ワタリは」

「あー!なに名前バラしてんのキミ!」

 記憶の中と同じ声に動きを止める。ヨウの視線は、部屋に現れたそいつへと向けられているんだろう。ゆっくりと振り向くと、目が合った。水色の長い髪。黒のロリータ系統の衣装。両腕は胸の前で組み、カラコンを入れてるのだろう目は青い。

 その表情は、俺が知っている、頼りのない、自信のない、そんな彼とは違い、顔をあげ、前を見、前よりずっと自信を持っているように見える。

「名前、隠してたのに!せっかく!せっかく!」

 まるで女のように喚くその姿に圧倒されていると、相手のほうから俺に近づいてくる。傍に来て、俺の足を見、不安そうに「大丈夫?」と聞く姿で、やはり人違いでなく、こいつは俺の知っている奴なのだとわかる。

「……ワタリ、なんだよな」

 相手は答えない。不安そうな顔をし、ちらりとヨウのほうを見る。そいつはといえば眼鏡の位置をなおすと、うんうん、と頷きながら立ち上がった。

「俺、なーんにも聞いてないし、ちょっと用事思い出しちゃった。終わったら呼んでよ。ケーキ食べるなら、紅茶入れてあげるから」

 じゃあ、あとは若いもんにまかせてごゆっくり、と言って去る後姿に、お前が最年少じゃねえのかよと心中でツッコミをいれ、ようやく目の前の人物と向き合った。相手は若干照れたように笑い、それから目を伏せながら言う。

「……久しぶりだね、カズシちゃん」

「……お前、さあ」

 どういう言い方をすればいいのか、と少し迷った。ワタリ……少し前、高橋組からアクセルバイトとかいう悪質な薬を流しているとして、その高橋組から依頼を受け、俺が傍で調べていた男。そして結局、組に捕まり、その後は消息不明だった。そのワタリが、今目の前にいる。……女の格好して。ドレスのような服を着ていても、綺麗に化粧していても、身長は高く、肩幅もやや広い。細い体つきではあるが、完全に女性というには違和感がある。そんな俺の視線に気づいたのか、ワタリは微笑んで言う。

「いいよ、言いたいように言って」

「え……っと」

 ワタリはさっきまでヨウが座っていた椅子に座り、促されて寝転んだ俺を覗き込み、ほほ笑む。

「いいの、ボクはボク、それでいいの。……それでいいことにしたんだよ。まだ、慣れないけど」

 へへ、と笑うふにゃついた笑顔を見て、そうかよ、と俺も笑った。事情は詳しく聞かない。聞いたってきっと俺にはわかんねえし、俺は何よりも、そんな些細なことは、どうでもよかった。

「……なあ、ワタリ、生きてて……よかった」

「……キミのほうこそ」

 す、とワタリの手が頬を撫でた。温かな体温。少し大きな手。麻酔が頭に回り始めたのだろうか、それとも別のものだろうか。全部合わさって、瞼が重くなっていくのを感じていた。

「いいよ、ゆっくり寝て。目が覚めるまで、ボクはちゃんとここにいるから。キミが目を覚ましたら、たくさん話したいことがあるんだ。だから、ゆっくりおやすみなさい」

「……ああ」

 ずっとつっかえていたものが、溶けて消えていって、柔らかな空気を吸い込む。おやすみ。声にならない声で呟いて、俺も夢の中へと溶けていった。



「セイラさん、出るんですか」

 低く太く、感情の読み取りにくいその声でも、付き合いが長いから、私を心配しているのだろうとわかる。防弾素材の服に着替え、銃を持ち、動きやすい靴に。荷物は最小でいい。連絡をとるものと、銃の替えだ。それから、近づかれた時のために、ナイフも大腿に仕込んでおく。いつの間にか腰まで伸びていた髪は、一つにまとめ、編み込んでコンパクトにして、服の中に入れてしまう。戦場では、邪魔になりかねない。

鏡に映ったそんな自分の姿を見て、ふと頭をよぎったのは、街を楽しそうに歩く同い年頃の女性たちの姿だった。踵の高い靴を履き、下着の見えそうな丈のスカートを履いて、肩や腹を出したフリルだらけの服で歩く。髪の毛は伸ばして先を丸めており、顔は何に必要なのかわからない人口のまつ毛を張り付けてみたり、唇に赤やオレンジや、時に黒を塗ってみたり。流行り廃りですぐに化粧の仕方も変わる。流行を追いかけるばかりで、実用的でない。けれど……私はそんな彼女たちが羨ましいのだろう。

そっと自分の頬に触れた。化粧など、薄い粉の一つや二つで終わり。目元にラインを引いているのは、凛々しく見せるため、自分の顔が強さとは正反対の自覚があるからだ。本当にそれだけだ。……それだけでしかないことに感じた一抹の寂しさを振り払うために、首をゆっくりと左右に振った。私はそんなことを考えている場合ではない。彼女らとは、あまりにも住む世界が違いすぎるのだ。私は今日、やるべきことをやる、ただそれのみ。

「……大丈夫ですか」

「ええ、平気です。準備は完璧。今日こそは、高橋組に打撃の一手を食らわせてあげなければ。……マサキ、一緒に来てくださいますね」

 頷く大男の冷たく見える目の奥には、やはり心配の色が潜んでいて、私は彼が愛しくなり、そっとその頬に触れた。変わらないな、としみじみ思う。マサキ。そして、昨日怪我を負ったものの、帰って来てくれたハル。二人は父が用意した、私の世話係だった。昔からずっと、私の世話をしてきてくれた。そして、父亡き後、高橋組に復讐をすると決めたその時もまた、私の傍にいると誓ってくれたのだ。

「……セイラ様、覚えていますか、一緒に庭に花を植えたときのこと」

 普段マサキはあまり昔の話をしたがらなかったのに、そんな話をするものだから、私はまず首を傾げた。しかし、すぐに、覚えているわ、と答え、笑った。何歳のころだっただろうか。小学校には通っていただろうか。花屋でたくさんの花を買い、父と、私と、母と、それからマサキやハルを交えて、みんなで花を植え替えたのだ。パンジーや、ポピーや、そんな普通の花を植えていた。そんなふうにして花や土に触れるのが初めての私ははしゃいで、花が自分の手で庭に植わっていくのを見て、出来上がっていく庭を見て、ただ喜んだのだった。

「……けれど、そんな昔のことが、どうかしましたか?」

 私と同じように準備を終えたらしいマサキは、私を見て、いえ、と首を振った。

「なんてことはないのですが、ただ、少し、思い出したのです。セイラ様の……。……お嬢様の、笑っていた姿を」

「……そう呼ばないようにとわたくしは言ったはずです」

「……貴方が行く必要はないのではないですか。まだ抗争が始まって日が浅い。それに、貴方は司令塔です。ここで待っていてはくださいませんか」

「どうしたの。なぜ今日はそんなに引き留めるの」

「……いえ、なんだか胸騒ぎがしたのですが」

「……大丈夫よ。心配ないわ。わたくしはそうやすやすと殺されたりなんかしません。強くなったのは、貴方もわかっているでしょう。……それよりも、わたくしを信じてはくださらないかしら、ねえ、マサキ」

 マサキの瞳がじっと私を捉え、しばらく見つめ合い……やがて、はい、と頷いた。ほんの少し、付き合いが長ければわからないだろうが、一瞬だけ、優しく微笑むマサキ。私もまた、それに微笑み返し、そして……顔を勢いよく両手で叩き、切り替える。

「感傷に浸っている暇などありません。行きますよ、マサキ」

 もう、用意のできている成員は待っているはずだ。私たちは扉を開け、一歩、また一歩と歩いていく。すべては街を守るため。……そして、私たちの悲願をかなえるために。

 空を勢いよく流れていく雲。雨が降るのなら、どうか私たちに味方を。



「雨の日でした」

 うん、と相槌をうつと、またしばらくして、ミヅキが言う。

「雨の日でしたね」

 そうか、と頷くと、しばらく黙り、それからまた、ミヅキは繰り返した。

「雨が降ってました。車のライトとか、街頭とか、看板の光とか、とにかくいろんな光が反射して、道路がまぶしかったの」

 傘を持ってなかったんです、とミヅキは言った。その日、雨が降るのも知らなくて、傘なんか持ってなかった。だから、びしょぬれだったんです。

「あたし、これでもけっこーケンカ強くて。……強いのは嘘ですね。急所蹴ったり、なんか、ほら、そういうの。絡まれたら容赦なく噛みついてたっていうか。ボコボコにされることのほうが多かったけど、傷だらけになっても全然平気だった。平気だったっていうか、どうでもよかったんですよ、何もかもが」

「……なにもかもが」

「そう、何もかもがね」

 俺が繰り返すと、ミヅキがまた繰り返した。少しだけ目を開けて、横で俺と同じようにベッドに寝転がるミヅキをみる。ミヅキは目を閉じたままだった。俺もまた、そっと目を閉じた。ミヅキの言葉を聞きながら、ミヅキが見ていたものを、見ようとする。

 夜。雨、街。光。反射、アスファルト、硬さ、冷たさ。張り付く布。奪われる体温。

「その日も不良に絡まれて、ボコボコにされて、でも、抵抗して抵抗して、思いっきり急所蹴ってやって。そのまま不良がいなくなってから、なんか動く気になれなくて、大通りから一本入ったところに座り込んでました。ぼんやりと街のあかりを眺めて、寒いなあ、っておもってた」

「……家に帰らなかったのか」

「その時は……そうですね、そうだった。だって、家、一人でつまんないから。パパとママが死んでから、きたにぃは……おにいちゃんは仕事でいないし。ひとりぼっちになった部屋にいたって、面白くもなんともないし。凍えて死ぬならそれでもいいって思ってたかもしんない」

「そうか」

「そうです」

 なんてことない風に言い放つミヅキの言葉を考えた。……次第に胸が痛くなってくる。寂しい、と俺は思った。ひとりぼっちで座り込む部屋にいるより、人が行きかう街に座り込んでいたほうが、寂しくない、かもしれないなと、俺も、居心地の悪い家を思い出す。

「でもその日は、いつもと違う日になったんです。目を閉じて壁に寄りかかって座り込んでたら、冷たかった雨が、突然止んだ。目を閉じててもまぶしかった光も、感じられなくなって。あれ、って思って目を開けたら、目の前に人がいたの。背が高くて、逆光だったから顔もわかんなくて、その人があたしを傘に入れてたの」

 傘は。その人が最初に言ったのはそれだった。ない、って答えたら、保護者は、って聞かれて、それも首を横に振った。なんだろう、この人って思ってた。ウリ目的で声かけてくるようなオジサンとは、またオーラが違ったから。そんなミヅキの言葉を聞きながら、俺もその日の映像を想像していく。

「おいで、って言われて、意味がわかんなかったけど、すぐ、ああ、って思った。初めてじゃなかったんですよ。あたし、けっこー人気だったの!……初めてはね、たぶん三十歳くらいの男の人。なんかね、結構、イケメンだったし……言うこと聞いたらあんなにお金もらえるんだ、って興味本位で。ホテル入るときはちょっと怖かったし、脱がされるのも触られるのも意味わかんなかったけど、でも、終わってみれば、こんなもんなんだ、って感じだった。だからね、あたし別に、ああ、けっこう顔よさそうだしいいかもなあ、暇だし、いくらくれるのかな、くらいしか思ってなかった。うまいといいなあ、とか。別に、お金が欲しかったわけじゃなかったけど、やっぱりたくさんお金くれるほうが……あたしの価値が高いみたいで、数字のほうがわかりやすいじゃん。あたしなんかもう、数字くらいしか、気に出来なくなっちゃったから、その」

 うまく言葉が繋げなくなったらしいミヅキに、うん、と相槌を打った。それからそっと目を開けて、隣のミヅキを見ると、今度は目が合う。ミヅキは俺を見て、へへ、と笑って、そっと俺の首に腕を回し、距離を縮めた。ちょっとあたしとしたくなってきましたか、どう、と言うミヅキを隣に押し戻し、つまらなさそうな顔をするミヅキに、それで、ときいてみる。明らかに不機嫌になりつつも、ミヅキは続きを話していった。

「のせられたのは黒い四角い車で、意外と中は広くて。車の中でするのかなって思ってたら、普通にその人は運転席に乗って、あたしは真ん中の席に乗って。びしょぬれのまま、シート濡れちゃうなあって思いながら、気が付いたら全然しらない場所で、でも、ホテルじゃなかった。マンション。けっこう広かったけど。連れられて、入って、お風呂に入れられて、出てきたら着替えが用意してあって、あたしの着てた制服は干してあって。服が乾いたら家まで送るけれど、家はどこ、って聞かれて」

 あそこはあまり良くない通りだよ、女の子が一人でいる場所じゃない。そう言われました。でも、なんか、あ、そうなんですか、くらいで。で、するんですか?いくらくれるんですか?って聞いたら、お金がいるの?って聞かれて。なんか、曖昧に頷いちゃって。そしたら、しばらく悩まれてから、これくらいでどう、って、出てきたのが札束だったんですよね、と言って、ミヅキはけらけらと笑う。何がおかしかったのか、俺にはよくわからないが。

「そんなこと初めてで、意味わかんなかったけど、いいよって言ったら、じゃあしようか、って言われて。あ、はい、みたいな。なんか、仕事って感じだった。相手もめちゃめちゃやりたいってわけじゃなさそうだったけど、たぶん、あたしがお金欲しいんだろうなって思ったんでしょうね。優しい人だから。でも、それまで出会ったどんな男よりも優しくて、温かくて、めちゃめちゃうまかったんですよ。途中でやっと、名前は、って聞かれて、いつもはテキトーにこたえるのに、その日はミヅキって言っちゃった。あなたは、って聞いたら、リョウガって、答えたの」

 リョウガ。当然聞き覚えのある名前だった。銀髪の狐目の、不気味な男が頭に浮かぶ。だが、その日のミヅキの目にうつっていたリョウガは、まるで別人のようだなと思った。

「その夜はとても幸せで。知らない人に抱かれてるのに、愛されてる気がして。あたし、ぼろぼろ泣いちゃった。なんだか愛されてる気がしちゃったって笑ったら、あちこちにキスして抱きしめてくれたの……ねえ、シドウさん、そんなあたしを想像して、ちょっと興奮してきましたか」

「しない」

「は?なんでですか。想像力が足りないんじゃないですか」

 そんな想像力はいらない、とため息をつく。ミヅキもなぜかため息をついた。

「ま、とにかく、それがリョウガさんとあたしの出会いだったんですよ。あの時は銀髪じゃなかったし、もうちょっと優しかったんですよ?……どんなに冷たくしていても、本当は優しくて、温かくて……だからあたしは、やっぱりお傍にいたいの。当てもなくふらふらしていたあの日とはもう違う、いまのあたしは、タカハシリョウガの一番の女目指してるんです。……家にいるよりも、街ふらふらっとして、男のとこでも渡り歩いて、たまに気まぐれに呼び出してくれるリョウガさんに会いにいく、そんな生活のほうが充実してるんです、あたしは」

 ほら、いまはあたしに会いに行きやすいからってお店も紹介してもらったし、ねえ、いいでしょう。そうやってほほ笑むミヅキは、恋する女の顔をしていたし、ミヅキの話を聞いて、すべてを否定する気にはなれなかった。居心地の悪い家を捨て、ふらふらと街で生きているのは、俺も同じことだった。怒られない程度にグレてるよりは、家を捨てて、家族の手の届かないところでうろついている今のほうが、充実している気もする。

「……カイトは、何もわかってないだけなんだから」

 あの石頭は、と吐き捨てるミヅキに、俺は口を開きかけて、閉じた。気の利いた言葉が見つからなかったのだ。カイトだって、お前を心配しているのだと、言うのは簡単だが、俺が言いたい言葉はそれではなかった。もっと、違う言い方で、カイトの想いを伝えたかったのに、俺が考え付かないうちに、ミヅキはカイトのことはもうどうでもよくなったようだった。

「……ねえ、まだカイト帰ってきませんよ」

「そうだな」

 ごろごろと転がり、ミヅキが俺の上に乗ってくる。ミヅキの小さな右手が胸に乗り、反対の手は俺の頬を撫でた。少し、顔が近づく。

「俺は金、持ってないよ」

「知ってますし、いらないですよ。シドウさんからのお金なんか」

「……なあ、どうしてそんなに、その、したがるんだよ」

「シドウさんこそ、なんでこんなかわいい子の誘い、いっつも断っちゃうわけ」

「……ごめん」

 申し訳なくなって謝るが、ミヅキは両手で俺の頬を包む。その目は少しだけ悲しそうだ。

「あたしのこと、そんなに嫌い?」

「え、いや、まさか」

「シドウさんはあたしのこと、好きになってくれたんだと思いました。……嫌いじゃないなら、なんで抱いてくれないの、こんなにチャンスなのに」

 どうして?と悲しそうに言うミヅキに、どうして、と俺もぽかんとして返す。

「俺たちは恋人でもなんでもないだろ」

「恋人でもなんでもないかもしんないけど、好きだったら、体、重ねたいって、思うじゃないですか。シドウさん、あたしのこと、嫌い、ですか」

 呆気に取られて黙っていると、ミヅキはそのまま顔を近づける。あ、と思う間もなく、唇が重なった。ほどなくして離れると、ミヅキはより一層悲しそうな顔をしている。胸の奥がぎりぎりと痛む。

「……あたしは、貴方に抱いてほしい」

 頬を、首を、胸を滑るミヅキの小さな手に、背中がぞわりとする。ねえ、と耳元でささやくミヅキの声は甘い。あたし、うまいですよ、キャベツくんも言ってませんでした?と言われて、そうだったかもな、とどもりながら返す。

 そんなとき、玄関のほうで、扉が開いて閉まる音がする。次に、ビニール袋の音。何かが机の上に置かれる音。それから、シドウさん、ミヅキ、いないんですか?という声。そして……頭上で響く、あからさまな舌打ち。

「あーあ、つまんない。ほんっとカイトって、つまんない男。マジでつまんない。つまんない!……何ですか、シドウさん、女の子と二人になったのに手出さないなんて、飾りぶら下げてる男に興味ないんですけど」

「ご、ごめん……」

 出て行ってよ、と今度は追い立てられるまま、部屋を出る。頭が追い付かないまま、居間でカイトと目が合う。

「……何かあったんですか?ドタバタと」

「……ああいろいろ……いや、何もなかったな」

 何もなかったな、ともう一度繰り返すと、カイトはピンとこない顔で首を傾げつつ、買ってきたものを冷蔵庫に入れ始めていた。


【れんごうかいのにじゅう おわり】

【れんごうかいのにじゅういち に つづく】

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