れんごうかいのじゅうきゅう
◆
ヨウジュの部屋の机の上に時計があったことには、初めて来た時には気づかなかったが、時計の針が動く音が不気味に聞こえ、ようやくその存在に気づいた。俺がぼんやりと時計を見ていると、隣に立っていた水色の髪の女の人が「オヤジだ」と呟く。時計の隣に立てかけてある写真のことだろうか。女の人は、靴を脱いでも背が高かった。俺とあまり変わらないなと、目の高さを確認してしまう。
写真に映っているのは今よりも幼いがヨウジュと、それから笑顔の男性。短く切った髪に、剃っていない髭、ヨレヨレの色あせた背広を着ていて、見た目はだらしがないが、ヨウジュの頭を撫でているその姿は、誰が見ても父親だった。ヨウジュの着ている学ランと背景を見て、中学校の入学式の写真だろうか、と思った。
「一体、誰の子なんだろ」
「……お母さんの顔、知らないって言ってました」
恐る恐る言うと、そうなんだ、と女の人は軽く返す。
「キミと同い年なら高校生くらいだもんね。彼の方がちょっと大人びて見えるけど……そんな大きい子がいたんだ、あの人」
「……ヨウジュのお父さんのこと、知ってるんですね」
「……そうだね、オヤジにはよく仕事を教えてもら…………あ、な、なんでもないよ」
はっとした顔で、何も聞かなかったよね、と俺に念を押す女の人に、俺はただ頷いた。そこでまた会話は途切れ、なんとなく言葉が見つからず、何度か視線がぶつかり、何度かそれを繰り返してようやく「座りませんか」と言葉が出る。女の人の方もすぐに頷いて、俺たちはそのままヨウジュの部屋のカーペットの上に座った。さっきまでヨウジュと寝転んでいたな、と思い、時計を見て、まだそんなに時間が経っていないのかと驚く。もう、半日くらい経ったような気分だった。まだこの女の人が傷ついた男の人を連れてきてから、一時間も経っていないのだ。
「……あ、あの」
「……うん」
なにか話そうと口を開いたものの、女の人の返事を聞くと、言葉が全く出てこなくなった。どうしたものか、と、思っていると、女の人は首を傾げる。
「……すいません、なんか話そうとしたんですけど、思いつかなかった」
正直に言うと、女の人は、ふふ、と笑う。
「キミってば、正直だね」
「す、すいません」
「ううん、ありがと。空気、なんとかしようとしてくれたんだね」
「いえ、あの」
なんだか恥ずかしくなって俯く。カーペットをじっと見ていると、いいんだよ、と笑い声が聞こえて、また恥ずかしくなった。耳まで真っ赤かもしれない。
「……キミは、優しい人なんだね」
「いや、その……」
「ううん、いいの。最近のボクはついてるなあって、思っただけ。優しい人にばっかり会うから」
「……そうなんですか?」
「うん、そうなの。……キミの前に会った人も、優しい人だったんだ」
「そうなんですね」
少し懐かしそうに笑うその笑顔にほっとする。女の人はそれからしばらく俺をじっと見て、キミ、彼に似てるなあ、と呟いた。
俺に似てる、優しいと言われた人は、一体どんな人だろう。
どれほど待ったのか、体感ではかなりの時間が過ぎていたが、時計はさほど進んでいなかった。扉が突然、勢いよく開き、黙って隣に座っていた俺と女の人は二人で飛び跳ねるほど驚いた。顔を出したヨウジュはそんな俺たちの様子に首を傾げる。
「もう大丈夫だよ」
そう言うヨウジュの表情はまた変わらないけれど、さっきよりもすこし雰囲気がゆるくなっているような気がして、俺もほっとする。もう、あの緑髪の人の男の人は大丈夫なのだと確信する。ずっと不安そうにしていた水色の髪の女の人も、ほっとしているのがわかった。
ヨウジュについて様子を見に行くと、気を失っている男の人の表情も、こころなしか穏やかになったように見えた。足の周りはしっかりとガーゼのようなものが巻いてあり、体にはいくつか点滴のような管や、輸血のような管が繋がれている。病院だ、と当たり前のことを思った。
「いやあ、俺ってほんとすごい。ね。言ったでしょ。大丈夫だって」
素直に、ああ、と頷いた俺に、ヨウジュがまた、優しく微笑んだ気がした。
「このオニーサンが目覚ますまで、俺たちはお茶でもしてようよ。ちょうどケーキを買っておいたんだ。今日も明日もサクラと食べるつもりだったから、四つあるよ。選んでいいよ」
でも、チーズケーキは俺のだから、と言いながら、ヨウジュはもう病室をあとにしている。俺と女の人は目を見合わせ、慌ててそんなヨウジュの後ろについていった。先の方から、早い者勝ちだけどどれがいい?と、気の早いヨウジュの声がする。ふと隣を見ると、女の人は楽しそうに笑っていた。
◆
自治警察との中規模抗争。戦況はこちらが有利。有利でないはずはない、という自信がある。人数の違い。経験の違い。作戦の違い。だから時間外に、そんなことを心配する必要は無い。そんなことよりも。
繋がらない。情報屋にかけた通話の呼び出し音はもう何回目だろう。女の声の自動音声に切り替わったところで、ため息混じりに通話を終了する。
「……まさかね」
頭に浮かんだ考えを追い払うように、ワイシャツの胸ポケットに詰めていた小さな箱から、愛用の煙草を一本取り出し、火をつける。体を通り抜けていく煙が心地よく、頭が冴えていく。
まったく考えられないことではなかった。まだ昨日の行方不明者や死亡者の確認が全員取れたわけではないし、彼はあまり戦闘が得意ではなかったな、と、毎度派手に染めている彼の髪色を思い出した。今は淡い青緑だったような。目立つ格好をして戦場に臨む姿は、なにか考えあってのことだったのだろうか。いやそもそも、戦場など関係なく、彼の中にはなにかポリシーがあるのだろう。
何でもいいが、彼の安否は確認しておかねばならない。彼の存在は、表立っていない、つまりは非公式のものであるものの、高橋組にとっては大きな存在だと俺は考えている。……いま、俺がやろうとしていることにも、彼は必要だった。
席を立ち、壁にかけていた背広を羽織る。必要最低限のものしかない無機質なこの部屋は、俺に与えられた仕事部屋。七畳ほどの空間。そこにあるのは机と椅子、冷蔵庫、簡単な棚には資料が山のように詰まっており、固定電話に、何世代か前のパソコン。エアコンもついている。窓は開く。ブラインドもある。隣の部屋との壁や窓は厚く、物音は一切気にならない。部屋を出て鍵をかける。何年も付き合っているそんな部屋に、俺はもはや自分の家の自室のような心地良ささえ感じている。
高橋組本社のビルは、海の見える場所にある。背が高い訳ではなく、目立つ訳でもない。けれど別に、陰にひっそりとしているわけでもない。辺りのスカウト会社や風俗会社、果ては一般流通の企業のビルなどと何ら変わりなく、そこにうまく紛れ込んでいる。窓を開けると潮の香りがする。
ちょうど昼時だ。夏の日差しが眩しい。晴れているものの、質量を持っているような重たい空気が、肌に、衣服にまとわりつく。廊下を歩いていると、黒いマスクをつけた黒いスーツの男女に挨拶をされる。それを軽い会釈で返しながら、目的の部屋へと向かい、エレベーターを降りる。
本社ビルの地下室へ入るにはカードキーが必要であり、それを渡されているのは一定の階級以上の者か、ヒメカという女の派閥に属している者だけだった。俺は高橋組の中では上から二番目。当然カードキーは手元にある。
だが、一階で一度エレベーターを降り、別の地下行きのエレベーターを前にして、行きたくないな、と一度足を止める。大きく息を吸って、はく。それだけで、地下の生臭い匂いが体中にこびりつきそうな気がする。こみ上げる嫌悪感を振り落とし、エレベーターの操作ボタンの隣に取り付けられた装置にカードを通す。ぴ、と音がして、点灯していた赤いランプが青に変わる。
カードキーを背広の胸ポケットにしまうと、そのまま下の矢印を押し、エレベーターに足を踏み入れる。狭苦しい箱の中には、案の定、形容しがたい、何かの腐ったような、生臭いような匂いが残っている。無意識にまた溜息をついてしまい、吸う空気の気持ち悪さに身を震わせた。
「仕事中でもないのに、こんなことをしなければならないなんて」
貴重な昼の休憩時間に行く場所が、レストランや食堂ではなく、血みどろの地下室だなんて、どんなサラリーマンでも御免だろう。俺だって例外ではない。仕事で標的を殺し、その死体を処理するのは、あくまでも仕事である。仕事ならば俺は厭わない、けれど。
「休憩中なのに」
デジタル文字で表記された、黄色く光っている数字を見ながら、目的の階へと近づきながら、何度も腕時計を確認する。残念ながらまだ休憩時間なので戻らなくていいし、目的のためにはこのまま進まなくてはならないので、俺はまた、何度目かになるため息をついた。
エレベーターを降りた先は、チカチカと切れ掛けの電灯が申し訳程度についている、薄暗い廊下。その壁や床やあちこちに、黒や焦げ茶に変色したものがこびりついている。足元になにか違和感を感じて見てみると、俺が革靴で踏んでいるのは、白く、すこしかたい、たくさんの小さななにか。問わずともわかる。誰かの血液、それから誰かの爪だ。ゴミはゴミ箱に捨ててくれないものか、と俺は足元の爪を革靴で散らした。
地下だからといって、階の作りは同じだ。廊下があって、部屋がある。ただ地下だから窓はないし、日差しは入らないし、潮の匂いもしなければ、空気の重さを感じることもないだろう。それ故に、ある種のノイローゼになり退職を願い出る者も多いと聞く。
また、仕事内容としても、あまり長居はしたくない部署だろうな、と思いながら、奥へと進んでいく。途中の部屋からは、時折なんだかよく分からない音が聞こえてくるが、それは誰かの……恐らくこの時期であれば捕まえた自治警察の構成員の悲鳴だろう。珍しくもない、と思う自分の感性が、人間の心として正しいのかは、もうわからない。
一番奥の部屋の扉だけは、赤紫色に塗り直され、可愛らしい草花のついた札に「ヒメカの部屋」と書いてある。ノックは二回。反応はない。もう一度。反応はない。……もう一度ノックしかけたところで、勢いよく扉が開く。
そこに居たのは、不機嫌な顔の、片目だけつけまつげをつけた状態の女。スカートタイプのスーツは気崩しているどころか、所々に誰かの血で汚れたあとがある。服のシミよりも化粧が途中であることの方が気になっているらしく、片目を手で隠しながら俺をじっと見る。
「どうしたのよ、ユウキオニイサマ」
「……話があって」
「珍しいね、電話してくればいいのに」
電話しても絶対に出ないからわざわざ足を運んだのに、平然とそんなことを言う。入るなら入って、と言われた先の光景がちらりと見えて、心中でため息をついた。リョウガは可愛がっているが、俺にはとても、どこを見ても愛らしさのひとつも理解できない。
部屋は写真だらけだ。そのどれも、死体や拷問の最中の相手の表情や、体の切断面、アザの部分、まさに肌が焼けている瞬間など。ヒメカのところは高橋組の拷問班と呼ばれており、その名の通りの仕事をしている訳だが、彼女は仕事よりも趣味のひとつのように楽しんでおり、たびたび行き過ぎた行為も行っている。総括をしている俺としては、勘弁して欲しいと思っている。
「まあ、座ってよ。新しいクッション買ったの。可愛いでしょ?」
「刺繍が丁寧で良いな」
渡された臙脂に金の刺繍の施されたクッションを使い、指されたソファに座る。ヒメカはといえば、化粧の続きをさっさと終わらせてから、丁寧に紅茶の用意をしているようだった。そんな時間はないのにな、と思いながら腕時計を見るが、残念ながら時間はある。俺が早くこいつの目の前を去りたいだけだった。
「ちょっと待ってね、紅茶いれるからぁ」
「自分の分しか入れないのなら、入れながら話だけ聞いてくれないか」
「あらやだユウキ、私がユウキの分は入れないと思ってるの?」
「今までもそうだったし、今もティーカップをひとつしか用意してない」
「はぁ、そんなこと言われたらもうユウキには入れる気がなくなった。これは私が飲むわ。いいわね」
元からそのつもりだろう、と言いたくなるのをこらえる。あまり色々言いすぎるとこの女はすぐリョウガに報告するし、そのリョウガはヒメカが可愛くて仕方ないのだ。今からクビが飛んでしまっては、この年で、元高橋組ナンバーツーなんて肩書きをもって就職活動をしなくてはならなくなる。誰か雇ってくれるだろうか?事務仕事はできるほうだとは思うが。
ひとまず大人しくヒメカが向かい側に座るのを待った。壁を埋め尽くすような数々の拷問の写真が気色悪い。俺にはそんな趣味はない。この部署でなくてよかったと心から思う。こんな女の下で働かされていたら、気も狂ってしまうだろうな、と部下達に同情する。戻ったらまずは服に匂いがついていないかを確かめたい。
「で?何かしら」
自分の分の紅茶をテーブルに置き、ようやくヒメカは席につく。一切歓迎されていない雰囲気のなか、歓迎されないであろう話題を切り出した。
「キミの抱えてるアリマカズシはいまどうしてる」
誰だっけ、それ、とケラケラ笑い、ヒメカは紅茶を一口飲んだ。それから、ああ、カズシくんね、と言って、またケラケラ笑った。
「そういえばまだ帰ってきてないわぁ。どっかで死んじまったかもね」
◆
「おはようございますシドウさん」
「もう昼だぞ。こんにちはシドウさん」
「ああ……」
目を覚まし居間へ行くと、ミヅキとカイトが仲良くソファに座ってテレビをつけていた。何かのドラマだ。俺はあまりテレビを見ないから、映っている俳優も女優も、それが何のドラマなのかも、さっぱりわからない。ミヅキは身を乗り出して見ていたようだが、カイトは付き合って見ているという感じだった。立ち上がり俺に席を譲るカイトを断り、俺は椅子に腰掛けた。
電気はついていない。窓から入る夏の日差しが眩しくて、離れたところからではテレビが見にくかった。何か食べますか?と聞くカイトに頷き、そのまま台所へ向かうカイトについていく。
「何か手伝うか」
「いいですよ、座っていてください。嫌いなものありますか?」
「いや、ないけど……」
使おうとして伸ばしかけていた両手を、俺はしばらく見つめ、静かに下ろす。カイトは笑顔で俺に元いた椅子を指す。カイトの後ろ姿が、皿もってこい!と言うカズシの後ろ姿と重なって、頭を振る。
「……カズシ、どうしてるかな」
無事だろうか、家に帰って俺がいないことには何か思うのだろうか。それとも、別に俺がいなくてもいいのだろうか。レンゴウカイが避難していることは知っているのだろうか。弱虫だと笑うだろうか。いい決定だなと笑うだろうか。そんなことを考えていると、ミヅキがソファから俺の向かいの椅子に座り直して、横髪を耳にかけてから言う。
「あのキャベツの人、大丈夫でしょ。千切りにしても死ななさそうな髪してますよ」
「おいミヅキ、不謹慎なこと言うのはやめろ。でもほら、カズシさんはなんだか世の中をうまく渡るようなタイプに見えますし、銃で撃たれてなければ生きてますよ」
「カイトのほーが不謹慎だと思うけど……」
そんなやりとりをしている二人に頷く。カズシだから、きっと生きているはずだ。……何故か頭に、以前アクセルバイトのことを教えてくれた時の、ボロボロになって帰ってきたカズシが浮かんだが、すぐに考えを振り払う。きっと、大丈夫なはずだ。
「それにしても、やっぱ東は静かよね」
ドラマのエンディングの途中でテレビのチャンネルを弄りながら、ミヅキが言う。
「暴れる奴もいないわけじゃないけど、西ほどじゃないからな。住むにはやっぱ、こっちのがいい」
はい、シドウさん、お待たせしました、とカイトが俺の前に白飯と味噌汁、それから目玉焼きにウインナーを二つに、麦茶。それぞれ並べていき、最後に黒い箸を置いた。どうぞ、と言われて、手を合わせていただきますと唱える。そのままカイトは俺の隣に座った。
ふと、きちんと食事の前には挨拶をしろよ、と言う弟の声を久しぶりに思い出したが、思い出した声が本当に弟のものなのか、俺にはわからない。……弟は元気にしているだろうか。きっと元気にしているだろうな、と思い直す。なにしろ、俺の住んでいる家は、抗争なんかとは無縁の場所だからな。
「……このままお前、家に帰ったら」
味噌汁を飲んでいると、カイトが言った。どきりとしたが、それは俺に向けた言葉ではないようだった。カイトがじっと見ているのはミヅキであり、ミヅキはといえば、俺の目玉焼きのあたりを見たまま、人差し指でくるくると髪の毛を弄んでいる。
「キタさんも心配してたし、俺だって心配なんだ。一体お前が西地区でどうやって過ごしてるか知らないけど、もう帰ったらどうなんだ」
かえる、と俺がぼんやり繰り返すと、隣のカイトが頷く。
「最初にシドウさんに会った時、言いましたよね。俺、ミヅキを探してたんです。行方不明だったんですよ。今でもどこで寝泊まりしてるか知らないけど、高校生として家に帰らず学校にも行かないなんて、俺は」
「うるさいな。いいじゃん、あたし、レンゴウカイの活動してるじゃん。シドウさんにはあたしがいないとダメなの!……ね、そうでしょ」
「でも」
向かいからじっと真剣な顔で俺を見つめるミヅキと、隣でなにか言いたそうに、でも俺が何か言うのを待っているカイト。頭におもりを載せられたような空気の圧力で、味噌汁が胃に行く前につっかえる。
「……家族に心配かけてまで、不良でいる必要、あるのかよ」
思わずカイトの横顔をじっと見た。カイトのミヅキを見る目は厳しいようで、弟と似ているようで。でも、昨日見たような、ミヅキを見る目はいつだって優しくて。
「……お説教するなら、どっかいっちゃうからね、あたし」
ご飯まで部屋にいるから、と小さな声で付け加えて、ミヅキはさっさといなくなってしまう。位置をなおされなかった椅子が、少しさみしそうに見える。ミヅキの様子を目で追っていたカイトは、ミヅキが見えなくなってからひとつ、大きなため息をついて、俺に少し微笑んだ。
「すいません、こんな空気に。あいつ、家出してて」
「……なんで」
聞き返しながら、心臓の音が大きくなるのを感じていた。なにしろ、俺はミヅキのことをあまり知らない。本人からは喋らないし、俺から聞こうと思ったこともなかったからだ。けどいま、カイトの口から少しでも情報を聞き、俺と話す時とは違うミヅキを見て、うまくいえないけれど、何か悪いことをしているような、そんな気持ちになっていた。
「……なんでかは俺も、わからないです。ただある日を境にフラフラするようになって、家族も、この前までは俺も行方を知らなかった。で、心配かけといて、謝りのひとつもなしです。あいつの家も、自転車で行けばすぐなんですけど、行こうとしないし。……あいつのお兄さんが、すごい心配してて。俺の家に泊まってるって嘘ついてるんですけど、その、きっと違うって気づいてます」
カイトが嘘をついたのか、とぼんやり思った。きっとそれほどミヅキの家族はミヅキを心配しているし、カイトはミヅキのことを大事に思っているんだな、と思った。
「高校も、なんで行かなくなったのか、俺にも頼ってくれればいいのに……話、聞くのに。いつからか、ミヅキ、俺と距離あけるようになったんですよね。俺は変わってないつもり、なんですけど」
なんでかな、とぼやくカイトはなんだか寂しそうだった。そうか、と言うと、そうです、と返ってくる。
「……あの、シドウさん。お願いがあるんですけど」
しばらくあいだを置いて、カイトは体ごと俺を向いた。思わず俺も、カイトの方に体を向けて、手を膝の上に揃えた。慌てて机の上に置いた箸が、からんと音を立てる。
「この騒ぎが収まったら、シドウさんから言ってくれませんか。ミヅキに、家に帰れって。もしくは、理由を聞いてみてほしいんです」
「……俺が?」
「俺には話してくれません。でも、シドウさんにならきっと話してくれます。あいつ、信用してる人には何でも話すから……それで、もし、よければ、俺に教えて欲しいんです」
どうでしょうか、と不安げに言うカイトに、俺は頷きも断ることも出来ないまま、ただしばらく黙っていた。
きっとそれにはタカハシリョウガが関係していて、アルバイトも関係していて、タカハシユウキも関係していて、俺にはわからない複雑で難しい問題が重なっていて。……きっとカイトにはひとつも言ってないのだろう。
「……カイトとミヅキは、友達なんだろ」
「そうですね。もうだいぶ長い仲になりました」
「だったら……」
ぼんやりと、高橋組のビルからカズシと帰っていった日のことを思い出していた。味方かどうか、聞かないのか、と言われたあの日のこと。
「友達なら、いつか話したいと思った時に話してくれるだろ。それじゃダメなのか」
ゆっくりと、自分の気持ちをなぞるように、言った。カイトは一瞬ぽかんとした顔で俺を見つめ、それからしばらくして、明らかにガッカリした顔で俺から目をそらした。
「何かあってからでは遅いんですよ。早くなんとかしないといけないと俺は思います。そんなことしてたら、絶対あいつはなにかに巻き込まれる」
重たかった空気にヒビが入ったようだった。冷めないうちに食べてくださいね、とカイトは言い残し、なにかの支度をして家を出ていってしまう。俺はしばらく箸を持てないまま、カイトの後ろ姿の残像を見つめていた。
「……ダメなのか」
なんでダメなのか、少し悩んでみてもわからなかった。頭の悪い俺は、なんとなく失敗してしまったのだという感覚だけを引きずりながら、行儀よく今日最初の食事を続けた。
ふとまた、サクラは俺を心配しているだろうかと一瞬考えたが、いなくなってスッキリしたと思われていそうだな、と思った。
食べ終わった皿を洗ったものの、片付ける場所がよくわからず、拭いて台所に置いておいた。カイトのいないカイトの家ではどう過ごしたらいいものかと思っていると、部屋からミヅキが顔を出した。ミヅキはきょろきょろと部屋を見回すと、俺を見て、手招きする。俺もなんだか同じように部屋を見回してみるが、何も無く、うなずいてミヅキのいる、カイトの部屋に入った。
カイトの部屋は広くないが、狭くもない。不必要なものは一切置いてないといった感じで、本や参考書は棚に綺麗に収まっていて、机も余計なものはなく、通学カバンと制服が壁にかけられている。ベッドの上にミヅキはさっさと座ると、手で隣を叩き、座るように促してくる。大人しく隣に座ると、ミヅキは満足そうに頷いてから、不機嫌そうな顔に戻る。
「あいつ、やっと買い物行きましたね。なんか言われました?まったく、お説教ばっかなんだから」
「……なにも言われてない」
「嘘ばっか。シドウさん、嘘つく時一秒ちょっと反応遅れますよね」
「そ、そうなのか」
「そうですよ」
ミヅキは一度得意げに笑い、それから、で、とまた不機嫌顔。
「なーに言われてたのよ」
「……いや、なんか、抗争が終わったらの話で」
「ふうん。あたしのことですよね」
「……うん」
今度は素直に頷く。それから間を置いて、言う。
「なんで家出したんだ」
俺の言葉を聞き終え、隣で一度大きくため息をついてから、ミヅキはそっと俺の腕に腕を絡め、いつもより少し甘い声で、シドウさん、と俺の名前を呼んだ。膝立ちで俺の耳元に口を寄せてから、囁くように言う。
「ね、あたしのこと、教えてあげましょうか」
うん、と頷くと、ミヅキはそのまま俺の膝の上にのぼり、俺の両頬を手で包み、俺の目をじっとのぞき込む。ハムスターみたい。俺も、ミヅキの顔をしっかり見上げる。いつもみたいなキツい化粧はしていない、そのままのミヅキ。幼く、可愛らしいその顔の方が、目や唇にラクガキをした顔よりいいような気がした。
「……カイトには、内緒ですからね」
目を閉じ、俺の額に自分の額をくっつけて、ミヅキはか細い声で言った。頷くと、俺はミヅキに押されるがままに、ベッドに仰向けに横になる。天井にミヅキ。そのままミヅキは一度、俺の前髪をはらい、額に触れるだけのキスをして、離れる。
まだカイト、帰ってきませんから、このまましちゃってもいいですよ、なんて言って笑うミヅキの腕を軽く引いて隣に寝かせ、目を閉じて、聞かせてくれないか、とだけ言った。隣でミヅキが小さく頷き、息を吸った音がした。
【れんごうかいのじゅうきゅう おわり】
【れんごうかいのにじゅう に つづく】
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