れんごうかいのじゅうろく
◆
会話なんてもはやなかった。お互いに噛み合わない愚痴を投げつけ、相手の言葉を突っぱねる。それだけでなく、時折俺にそのはけ口を求めてくる。受け流すのにも限界がある。最近、夕食を残してしまうことが増えた。どうしても、あの空間にいたくなくて。
部屋に戻ってベッドに倒れ込む。大きく息をつくと、壁の時計が目に入る。もうこんな時間。日付を超えそうな時計の針を見て、慌てて体を起こす。寝ている暇などない。明日提出しなければならない課題は山だ。重たいカバンの中からまとめて取り出した教科書は、本当にこんなに必要なのだろうかという量で、見た目よりも重たい気がした。
机の上に文房具を広げ、ふと思い立って、廊下に出る。隣の部屋の扉は閉まったままだ。居間のほうに耳をすましたが、誰かがこちらへ来るようには思えなかった。恐る恐るノックを二回。もちろん、反応はない。襲いかかる罪悪感を唾と共に飲み込んで、俺はその扉を開けた。
お世辞にも綺麗とは呼べない部屋だ。教科書やノートなんて、絨毯の代わりにでもなっているのかという散乱具合。踏まないように歩こうとしたが、既に足の跡が付いているのをみて、諦める。
電気をつける。机の上や、本棚の中にあるのはスケッチブックに紙、紙、紙。何事も不得手な兄が才能に恵まれていたのは、美術だった。小学、中学と兄は絵でたくさん賞をとった。そんな勉強の苦手だった兄にも、美術の道を行くことを許さなかったのは両親だった。それが、心配ゆえに、ではなかったのを俺は知っている。
ぐちゃぐちゃのベッドの上に置いてあったのは、兄のスマホだった。不用心にもロックなどかかっていない。画面は初期画像のままだ。着信履歴は俺から山のように残っている。こんなとこに置いていたら、連絡も取れないはずだ。ため息をついて、元の場所に戻す。
……ここにスマホがあるのなら、あいつは一体どうやって連絡を取ってきているのだろう。浮かんだ疑問は深く考えず、机の上に広がったままの描きかけの絵を見つめた。
美しい夕暮れの空。あいつは一体何を考えながら、こんな景色を描いているのだろう。絵のかけない俺には、想像することもできない。
「無回答だった」
「へ?」
突然横からした声に驚いて仰け反る。少し屈んだヨウジュは俺の耳元でそれだけ言うと、俺の前の、休み時間でいない誰かの席の椅子にまたがって、俺と向かい合う。
「シドウさん」
「……やっぱり兄貴と会ってるの」
「それは無回答」
「さっきからその、なにそれ」
「世論調査の最後のやつ。電話出たことない?」
「……ある、けど」
「ね。それ」
「……そ、そう」
全く何を言いたいか理解できないまま、これ以上面倒なことを言われたくなくて、会話を切った。やりかけの課題の続きをやろうとすると、ペンの先をヨウジュに指で止められる。そのままペン先を何行か前に戻されて、計算ミス、と言われる。慌てて消そうと消しゴムを手に持つと、それも止められる。
「消す前に、どこが間違ってるのか見ないと。繰り返しちゃうよ」
「あ、うん、気をつける」
「勉強だけじゃなくて」
「え?」
「ね」
少し息を漏らしたヨウジュは、もしかすると笑ったのかもしれないが、その表情は俺にはまだ読めない。何を言いたかったのかも、俺にはよくわからない。そのままチャイムが鳴るまで、俺は一言も喋らなかったが、そのあいだヨウジュは世論調査の話をひたすらし続けていた。
◆
「いつもとなんだか匂いが違いますね」
愛しい人の首に腕を絡めながら、囁く。いつもはほんのり甘いにおいが、今日はなんだか苦味を帯びているようで、いつもとのギャップを感じて、いっそうドキドキする。
「……そうかな」
耳を優しい声が撫で、幸せな心地に包まれる。いつもこうならばいいのに。不安で不安で仕方がなくて、誰かが必要としてくれないと立つこともできないような、そんないつもの自分が、まるで別の人のように思えるほど。景色だって、ちゃんと色づいている。
いま見えているものはきっと、彼と同じものだ。髪を優しく梳く大きな手が、滑り落ちて背を撫で、引き寄せられる。鍛えられた胸の厚さに頬を寄せて離れ、彼の顔を見上げる。
優しくて、どこか寂しそうで。けれど、いつもとは全く違う、これはあたしだけが知っている顔だ、と優越に浸る。耐えきれずに少し笑うと、一瞬不思議そうな顔をして、それから額にキスをされ、そのまま唇を重ねていく。そのあいだから入り込む舌に舌を絡めて、苦しくなる息と対象に、幸せな気持ちばかりが溢れていく。溢れ、零れ、それでもまた溢れ、心を満たしていく。
「……抗争が大きくなる」
キスを終えて微睡むあたしの頬に触れながら、彼がどこか遠くを見ながらいう。彼はふとしたときに、虚空を見つめる癖があった。考え事をしているのだろう。立つ場所の違う彼がどこを見ているのかあたしにはわからないし、きっと知ることも出来ないのだろうと思う。それでも、少しでも彼の中に残りたくて、彼の見つめている場所に、体をずらす。
「ねえリョウガさん、あたしもお役に立てないでしょうか」
「……君はどこか遠くへ行って」
「でも」
「言うことが聞けないのなら、離れに連れていくよ」
何度か閉じ込められた、無機質な冷たい部屋を思い出した。部屋というよりは、牢のようだった。なにかの生臭い匂いがほのかにするものの、綺麗にしてある場所で、目隠しをされて連れていかれ、そこに両腕を拘束されて、何日か過ごして、また目隠しをされて見覚えのある街に返された。どこだったのかはわからない。彼と彼に従う人達はそれを、離れと呼んでいた。
「……それでもいいですよ、だって、離れにいたら会いに来てくださるでしょう」
そう言って笑うと、呆れられたのだろうか、顔を背けて少しだけ彼が息を吐いた。いい子にしていようと思うのに、いざ目の前にすると、優しくされてしまうと、またその次を求めてしまうのだ。
やがて酷い眠気が襲ってくるけれど、この時間を終わりにしたくなくて、精一杯瞼を開けようとする。けれど、彼の大きな手が目を覆い、それを許してはくれない。
「……おやすみ」
視界が暗いまま、優しく頭を撫でられる感触がした。優しい声。幸せな心地のまま、夢の中へ真っ逆さまに落ちていく。
いや、もしかすると、この幸せな時間が夢だったのかもしれない、なんて。
◆
レンゴウカイの集会に顔を出したのは二度目だった。大通りを何本か裏に入った通りの、今はもう使われていないビル。壊れた窓からうっすらと入る明かりで、夜でも中でお互いの顔が見える。廃墟の中には、お利口さんな不良の連中。前に俺が来た時よりも人数が増えている気がする。俺は相手を知らないのに、相手は俺を知っている。頭を下げられたら手を振るし、声をかけられたら返事をする。
「ここ、なんか穴が空いちゃってるんですよね。何かあったんでしょうか。安全性に問題があるなら、場所を変えないといけませんが……」
難しい顔をしてカイトが見ている壁のヒビに罪悪感を感じながら、何も言わずに隣に並んだ。いったいレンゴウカイは何人になったのだろう。集まった奴らは何を思ってレンゴウカイなんてチームに入ったのだろうか。なんの実績もない、ただ人数の多いチームに。
カイトがはきはきと挨拶をして、不良たちが緩く応える。騒がしくなるのを舌打ちひとつで黙らせるのはキョウだ。目が合うと、俺を見て呆れたように笑う。何を言いたいのか、なんとなくわかる気はした。……前に出ていても、誰も俺を気にしていないということだ。
「みなさんもご存知だと思いますが、高橋組と自治警察の抗争が悪化しています。今後、かなり激しくなると思われます」
少しの間ではあったが、自治警察と関わっていたからだろうか、少しだけ空気が冷たくなった気がした。カイトは手元の自分のノートを見ながら続けて言う。
「そこで俺からは、レンゴウカイのメンバーの避難を提案します」
避難、と誰かが呟いた。
「俺たちはいま自治警察と協力関係にあるわけではなく、抗争とは無関係です。ですが、今回は少しことが大きくなりそうです。みなさんもご存知だと思います。ニュースでもやっていますし、各地で注意勧告は行われているはずです。不要な外出を避けるように、でも家が抗争の中心地にならないとも限りません。そこで俺は、レンゴウカイのみなさんで東地区のほうへしばらく避難したら良いのではないかと思います。あちらのほうは、この西地区よりもずっと穏やかですし、うっかり巻き込まれて死ぬことも少ないと思いますから」
なるほどな、とまた誰かが呟いた。抗争の話ですこし張り詰めた空気が、すぐに和らぐ。意外と誰も反対するつもりのやつはいないようだった。
「それではすぐに避難の手はずを組みますので、また明日同じ時間に集まってください」
カイトの声で集会が終わる。一言も話さないまま、俺はただそれをずっと見ていた。人がはけていく中、目が合ったキョウは俺に近づいてきて、だるそうに体を傾ける。
「シドウサン、逃げんの?」
その声は不満そのものだった。
「いや俺は、何も」
「何も?なんだよ。俺はシドウサンに負けたから下についてるんで、別のヤツに従うためにここにいるわけじゃねーんですよね」
俺はパス、とカイトの肩を叩き、キョウも不良達と同じように集会所から出ていく。カイトはその後ろ姿を見ながら、少し首をかしげていた。
「キョウさん、どうしたんですか?」
「……いや、なんか、あんまり」
「……そうですか。あの、シドウさん、最近ミヅキに会ってないですか?避難するならあいつを連れていかないと、自分から危険に突っ込んでいくような奴ですから、心配で」
「……いや」
そういえば、何日もミヅキに会っていなかった。一体どこへ行ってしまったのだろうか。うっとりしているような目を思い出した。……リョウガさん、と、ミヅキの声が蘇った気がした。
「そうですか。それなら仕方ないです……ほんと、いい加減なやつ。人の気持ちなんか考えてないんだろうな。家族に心配かけて、シドウさんに協力もしないで……」
「……でも、カイト」
「大丈夫ですよ、誰も犠牲にならないようにサポートします。シドウさんのご負担を減らせるように頑張りますね」
時計を見て一度体を震わせると、また明日、と急ぎ足でカイトも出ていく。一人きりになった集会所は、元から暗かったはずなのに、いっそう暗くなった気がした。
カイトの提案は間違ってない。なのに、どうしてこんなに微妙な気分になるんだろう。やっぱり俺が馬鹿だからなのか。
何も考えずになんとなく歩いていくと、気がつけば、最初にミヅキと出会ったあの場所へ来ていた。街頭の切れ掛けの明かりには虫が群がり、地面にはアイスの袋だらけ。とてもここでは寝られないだろうな、と思った。
俺はどうしてレンゴウカイを始めたのだっけ、と思えば、それもミヅキのためだったような気がする。街を変えてほしい、と言ったミヅキを放っておけなくて、そのままここまで来てしまった、けれど。
ふと、大きなゴミ箱の蓋を開けてみた。開けた途端に溢れ出る嫌な匂いと、もうとても美味しそうとは言えない料理の残りだったようなものや、もっとしょうもないもの。まとめてゴミと呼ばれるものが、溢れているだけだった。ため息をついて、そっと蓋を戻す。ここには、俺の探しているものはない。
「まさかゴミ漁りが趣味なんですか」
呆れたような声にはっとして振り向く。視線をさげていくと、癖の強い金髪が目に入った。眉間に皺を寄せながら、俺を見上げて首を傾げる。相変わらず、着崩した制服を着ている。
「ミヅキ」
思わず肩を掴むと、痛いと振り払われて、ごめん、と謝る。しばらく黙ったままでいると、奇遇ですね、とミヅキが口を開く。
「シドウさん、ここで何してたんですか」
「いや、なにも……気づいたら、来てた」
「なんですか、それ」
少し笑いながら、ミヅキは俺に手を差し出した。なんとなく、その手を取る。
「……ミヅキに会いたかったのかも」
「もっとロマンチックに口説いてくださいよ」
でも、シドウさんならそれで上出来にしてあげてもいいですよ、と言いながら、踏み出すミヅキの歩幅に合わせて歩く。忙しなく動くミヅキの足と、躓きそうになる幅で動く俺の足。
「カイトが心配してたぞ」
「……またですか?」
嫌な顔をするミヅキ。大きなため息をひとつ。
「いい加減、ウザいんですけどね」
「……で、でも」
「たまたまちっちゃい頃から一緒に遊んできたってだけじゃないですか。別に、言うこと聞く筋合いないです」
「……」
「それに……ただでさえ自分のことで手一杯なのに、あたしの心配なんかしてる場合じゃないんですよ、あいつ」
ほんと馬鹿なんです、レンゴウカイなんかやってる場合でもないのに、と続けたミヅキの言葉にドキリとする。カイトも手一杯の中、レンゴウカイの安全を考えてくれている。さっき慌てていたのは門限かもしれないし、他にやることがあったのかもしれない。それなのに、何もしていない、何も考えていない自分が何か言えるのだろうか。
「……どうしました?」
足を止めた俺の顔をのぞき込むミヅキに、いや、と首を振る。ミヅキの指が、俺の指に絡む。首を傾げるミヅキの目は、夜と同じ色だ。
「……そういえば、まさかレンゴウカイは今回の抗争に関わったりしませんよね」
俺の手を両手で包みながら、ミヅキが言った。
「カイトが……避難するって」
「ふうん、そうなんですか」
「……お前は?」
なんとなく返すと、ミヅキは何度か口をぱくぱくさせて、閉じて、また口を開いた。
「あたしは……あたしも、いい子にしなきゃ……シドウさんと一緒に避難でもしようかな、あたしがいてあげないと心配ですし」
ね、そうだ、それがいいかもしれない、とミヅキは手を叩いて笑う。
「で?避難はいつするの」
「いや、それはなんか、明日、カイトが、たぶん」
「ふうん、仕方ないから明日はあたしも顔出してあげます。……いや、もう今日から、シドウさんと一緒にいてあげてもいいですよ」
「え」
くるりと一回転して、俺の腕にミヅキが腕を絡ませる。俺の顔を見上げて、悪戯っぽく笑うその表情が、幼いのになぜだか少し、ドキドキしてしまうようで。
「泊めてくださいよ、タダじゃなくていいですから」
「いや、タダでいいよ、どうせカズシの家だから……」
「あのキャベツの人いるんですか?」
「いや、しばらくいないって……」
「じゃあいいじゃないですか」
それともあたし、魅力的じゃないですか?とさらに腕を絡めるミヅキの言葉は考えないことにして、俺はいつもの帰り道を歩き出す。
もうすっかりこれが、いつもの道になったんだな、と、一瞬だけ思った。もう、もとの家から学校までの道のりが、簡単には思い出せなくなっている。
あんなに歩いた道なのにな。
玄関の戸を開けても、中には誰もいない。真夏なのに、なぜだかひんやりとした空気が流れている気がした。電気のつく音まで、冷たいようで。
ミヅキは靴を勢いよく脱ぎ捨てると、暑いですよ、と言いながら、真っ先にエアコンのスイッチを入れる。それから、迷わずに台所へ向かい、冷蔵庫を開ける。
「なんかいろいろあるじゃないですか、食べましょうよ、あたしお腹すきました」
シドウさん何食べたいですか?と言って、ミヅキは中にあるものを次々と知らせてくる。一緒になって冷蔵庫の中を見に行くと、冷凍室の方に、タッパーに入ったカレーや炒めたものや色んなものが置いてあった。カズシが置いていってくれたのだろうか。ミヅキは色々と物色して解凍し始めていたが、俺はなんだか別に腹も減っていなくて、任せるよと声をかけて、居間のソファに座った。
出すのくらい手伝ってくださいよ、あたしがお客さんなんですよ、と言われて慌てて皿を用意しながら、この家からすれば俺も客なのではないかとふと考えた。帰らない主はいまどこで何をしているのだろう。
「……こんなかわいい女の子が隣にいるのに、何考えてるんですか」
頬を膨らませて言うミヅキに悪いと一言。夕飯を食べてみたが、ちゃんと腹に入ったのかよくわからない感覚が続いていた。
風呂から上がると、ソファの上で、俺の前に風呂に入ったミヅキが寝息を立てていた。着ているのはゆったりとしたカズシの黒い服。勝手に引っ張り出したのだろうか、ミヅキにはぶかぶかだ。寝相が悪いようで、はだけた服をなおしてやり、その上にそっとタオルケットをかけて、俺は床に座り込む。時計を見ると、既に日付は変わっている。
戸締りをして、ミヅキを起こさないようにそっと家を出た。どこへ行こうと思った訳では無い。ただ少し、歩きたかっただけだ。そのあたりを一周して帰るつもりだった。
だが、大通りの方へ行こうとして足を止める。大きな音がした。誰かの怒鳴り声、悲鳴、それから空気の破裂するような……。
抗争。その二文字が当たり前のように頭に浮かんだ。引き返した方がいいのだろうな、と思いながら、なぜだかぼんやりと足はそっちへ向かっていく。
何度耳にしても、結局のところ俺は抗争を知らなかった。色んな奴らが動き出し、みんなが危ないと釘をさしてくれても、ぼんやりとした頭では、そうなのか、と相槌を打つことしか出来なかった。激しいケンカのようなものなのだろうか、と、想像出来るのはその程度で。
少し覗くだけならば、すぐ帰れるだろうか。音は大きくなり、音としか取れなかった声が耳に入るようになる。生ぬるいはずの空気に、なぜかピリピリと肌が痛むような気がした。
建物をあとひとつ超えたら、何をやっているのかが見える。そんなとき、音もなく目の前に人が現れた。街頭のない路地裏では、人ではなく黒い影が道を遮っているように見えた。
「何をしに来たの」
聞き覚えのある、淡々とした声はいったいどこで聞いたのだろうか。うまく思い出すことはできなかったし、その質問にさっと答えることも出来なかった。
影が一歩一歩俺に近づいてくると、目が少し慣れてきたのだろう、ようやく相手の顔が見える。だが、顔が見えてもいまいちピンとはこなかった。短い髪にあるのかないのかわからない眉。顔は整っているほうだろう。きつく吊った目には、冷たい印象はない。年上だろう。暑いのに長袖の黒いシャツ、それから黒いズボン、靴も黒い。少し離れていても、濃い煙の匂いを感じた。
「自治警察とレンゴウカイは手を組むのやめたって聞いてたけど」
「え、あ、ああ」
そうだな、ととりあえず答えてから、相手が何者なのか余計に混乱する。相手は頷いてから、首を傾げる。
「ならなぜ今キミはここに?」
「……いや、なんと、なく」
「なんとなくでこの時期に出歩かない方がいい。なんとなくで命を落とすことになる」
少なくとも向こう二週間は家にこもってて欲しいところだが、と言う相手には、怒ったような感じもそのほかの感情も感じない。淡々と話している、ただそれだけのようだった。
「……道にでも迷ったのか」
いや、と答える前に、相手は自分の腕時計を見る。銀色に光るそれは、明らかに高いものに見えた。俺と変わらないようなラフな格好には似合わない。
「時間外労働は嫌だな……ウチの派はホワイトで有名なんだ。仕方ない、ただのユウキとして家まで送ってあげるよ。これはプライベート」
「ユウキ」
どこかで聞いたことがあった。どこでだろうか、と考えて、すぐに思い出す。ミヅキが口にしていた名前だと思った。
ユウキは俺の隣まで歩いてくると、俺を抜かして歩いていく。ぽかんとしていると、立ち止まって振り向き、行くよ、と声をかけられた。また大きな声が聞こえたのを振り返りかけ、俺はユウキの後ろについて歩き始めた。
「お前も俺を知っているんだな」
並んでゆっくり歩きながら、相手の様子を伺った。相手も俺を見ながら、歩幅を合わせてくれる。少しだけ俺より背が高い。久しぶりに顔をあげて話をしている気がした。
「知っているのかって、あんなに会ったのに」
「え」
首を傾げるユウキに、俺も首を傾げる。しばらくして、ユウキはほら、と人差し指を立てた。
「運転席にいたでしょう」
「あ」
何度か乗った、黒いボックス車のことを思い出した。いつも運転席にいたのは、黒い大きなマスクをつけた短髪の男だったなと。
「……ああ、その、前はありがとう」
助けてくれて、と言うと、ユウキは一呼吸おいて頷いた。
「あの子の頼みだったから」
それからしばらく黙って歩いた。ユウキの言う、あの子、というのが誰のことなのか、なんとなくだけどわかった気がしていた。俺が何も言わないうちに、ユウキのほうからその話が始まる。
「キミ、ミヅキを連れてどこか遠くへ行かないか」
少し驚いたが、相手は相変わらずの様子だった。ミヅキ、と呼ぶ声は優しかった。
「……抗争だからか?」
「あの子はリョウガにひっつきたがるから危ない」
キミのことを気に入ったようだし、と付け加えられた言葉で、俺とミヅキよりも、ユウキとミヅキの関係が大きなものだと感じる。なぜだかほんの少しだけ、頭が痛くなるような感じがした。
「……なんで抗争するんだ」
時折立ち止まり、俺の歩く方向を確認するユウキに聞いた。別に否定したかった訳では無い、単純に気になっていた。セイラがあれだけの想いをかけて挑む戦いに、高橋組は何を考えて向かうのだろうと思ったのだった。相手の反応がきになって思わず足を止めた俺に、合わせてユウキも足を止める。
「仕事だからかな」
え、と間抜けな声が出た。俺のその声にユウキは頷く。
「俺は高橋組で働いてるから、高橋組の決定に従うだけ。勤務時間はね」
「……でも、抗争は」
人が死ぬんじゃ、と言った俺の声は、自分で思っていたよりも弱々しく俺の耳に返ってくる。そんな声の端を掴んで、ユウキは、そうだね、と言う。
「怪我するし、時には死ぬよ。抗争だから」
「……でも、じゃあ、なんで。殴り合いしたら痛いだろ。きっと、死んだらもっと痛い」
「死ぬのは痛くない、痛いのは死ぬまで」
俺はまだ死んでないからわからないけれど、と言ったユウキの言葉の意味はわからない。冗談だったのかもしれない。
「……いつ終わるんだ」
帰る場所が見えてきた。このあたりは静かで、ちょっと歩いて行ける場所で誰かが戦っているなんて実感はない。目にすることのなかった景色では、一体どんな戦いが起こっていたのだろう。頭の悪い喧嘩しか知らない俺には、なかなかうまく想像はできない。
「二週間もあれば終わらすよ」
「終わらす」
だからそれまで、あの子をよろしくね。そう言ったユウキは、ほんの少しだけ微笑んだ気がした。おとな。なぜかその三文字が頭に浮かんだ。
家がここだと言うと、ユウキは片手をあげて去っていこうとする。そんなユウキの肩を、俺は慌てて掴む。振り向いて首を傾げるユウキに、俺は少し悩んでから言う。
「また会えるかな」
「俺も君も死ななければ、立場上会うことはあるだろうね」
淡々とした答えに、なるほど、と頷くと、ユウキもまた頷く。再び去ろうとしたユウキは、また足を止めて、俺を振り返った。一瞬間があってから、ユウキは言う。
「ねえ、ワタリを見なかった。知り合いでしょう」
頭がぐらついた。その名前には聞き覚えがある。優しい声と体温を思い出して、なんだか体がじめっとしてくるような感覚になる。
「……いまはプライベートの時間だから、少し気になっただけだ。安心して。そもそも俺の部下ではないから、彼」
「その、いま、あいつは」
どうなったんだ。なんだか恐ろしいことを聞いているような気分になって、声がどんどん萎んでいく。ユウキの表情は変わらない。
「高橋組は薬なんかに手を出さない。彼はどうなったと思う?」
「……それは」
大変なことになると思うけど、と呟いてから、違う、と首を振った。
「悪いのはワタリじゃないぞ」
ぴく、と、ユウキの短い眉が動いた気がした。
「何を知ってる」
「何って、ワタリは……」
空気がしつこくまとわりついて、肌がいっそうベタベタしているような気がしていた。口を開こうとして、何をいえばいいのかと思った。ワタリに最後に会った夜を思い出した。夏の春風。俺は、ワタリが話したことのどれを話せばいいのだろうかと思った。頭がこんがらがっていくのを感じた。一度大きく息を吐くと、いいよ、と声がした。
「わかった、言わなくていい。……少し調べなければならないことができたね」
それじゃあ、とユウキは言って、早歩きで去っていく。堂々とした後ろ姿には、なにか憧れる安心感。
あいつには、俺にないものがたくさんあるんだろうな、という思いと、ワタリはいまどうしているんだろう、という思いが頭の中で混ざる。うまく混ざらないようで、ピリピリとした痛みを感じた気がした。
【れんごうかいのじゅうろく おわり】
【れんごうかいのじゅうなな に つづく】
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