れんごうかいのじゅうご


「シェイクスピア?」

 拍手の音に振り返ると、少しふらつきながら歩いてきたのはクラスメイトだった。

「よう、じゅ」

「あ、正解」

 クラスメイト、ヨウジュは片手で丸を作った。ノートの端に書かれた名前は、なるほど、あまり人の名前では聞かない名前だったけれど、そのままだった。あれも読めないと思われていたのだろうか。それとも冗談のつもりだったのだろうか。

「今日来てないから、休みかと思った」

 手に持っていた台本を閉じながら言うと、ヨウジュは大げさに頭を押さえながら答える。

「今来たよ。二日酔いで、起きれなくて」

「二日酔い?」

「そ、未成年の飲酒」

「ダメじゃ」

「俺はいいけどサクラは飲んじゃダメだよ」

 なんだそれ、と思いつつ、部屋の電気をつけた。今まで暗かった部室が一気に明るくなって、俺のいるステージの段差や、小道具が見えやすくなった。

「部員は?」

「帰ったよ。部活は終わった」

「サクラは?」

「最後の確認してた。もうすぐ帰るよ、塾あるから」

「塾」

 気がつけば、持っていたはずの台本が手元にない。ヨウジュはぱらぱらと台本を捲りながら、言う。

「塾、楽しい?」

「……いや」

「勉強、楽しい?」

「えっと……」

「演劇は?」

「……楽しいよ」

 そっか、と言って、ヨウジュはめくり終えた台本を俺に戻す。俺はそれをカバンになおして、散らばったままの道具を片付け始める。と、ヨウジュも手伝い始めた。あわててそれを止める。

「いいよ、俺が散らかしてたんだ」

「手伝った方がはやいよ」

「でも」

「二人でやったらすぐ終わるよ」

 俺こっちやるから、サクラあっちやってよ、これ、どこにいれる?ここでいい?と、作業を始めてしまうヨウジュに追いつくように、急いで俺も片付ける。いつもの半分以下の時間で綺麗になった部室を出て、夕日の差し込む廊下をならんで帰る。そういえば入学してから一度も、誰かと下校することはなかったかもしれない。

「ねえ、なんでシドウさん、家出したの?」

「……なんで俺の兄貴のこと知ってるの」

 質問に質問を返すな、と自分で兄に言った昔のことを思い出しながら、言う。ヨウジュは答えなかった。諦めて、俺のほうから答える。

「キツく当たっちゃって、そしたら出ていっちゃった」

 細かいことを話せば自分が悪かったことばかりになりそうで、恥ずかしくて、それだけ言った。なるほど、と、隣で言うヨウジュの表情はうまく読めない。

「帰ってきて欲しい?」

「え」

 それは、頷けば兄が帰ってくるようにしてくれるのか、それなら兄とヨウジュはどんな関係なのか、色んなことを考えた。

「……シドウはウチにいないほうが幸せなのかもしんない」

 あの親のそばにいない方が。俺のそばにいない方が。もっと気楽にできる場所があるのなら、そのほうが。

 時折かかってくる電話越しの声を思い出しながら、大きくため息をついた。と、遮るようにヨウジュは言う。

「サクラは帰ってきて欲しいの?」

 真っ直ぐに見つめてくるメガネ越しの瞳に捕まる。答えられないまま、校門を抜けた。同時に俺達が踏み出したのは逆方向。

「それじゃあ、また」

 逃げるように向きを変えた俺の背中に、のんびりとしたまたねという声が届いた。



 ゆっくりと体を起こし、息を吸う。差し込んでいるオレンジ色の光に、とんでもない時間まで寝ていた事を知った。かけられていたのは覚えのないタオルケット。ソファの上に綺麗に畳んで置く。じゅうじゅうという音に振り返れば、カズシが料理をする後ろ姿があった。

「起きたか」

 振り返らずにカズシは言う。返事をせずに隣に立った。野菜炒めを作りながら、カズシは俺をまじまじと見て、ため息をつく。

「なーんだ、健康そうじゃん」

「ああ」

「俺は二日酔いひでーんだよ。代わりにメシ作れ」

「ああ……」

 渡されたフライパンと箸を受け取るが、この先をどうしたらいいのかわからず、とりあえずカズシがやっているようにフライパンを振り回そうと

「もういい、もういいからお前は皿出して」

 慌てて止めたカズシにフライパンを返し、俺は二人分の皿を用意した。飯炊けてるから、と言われて、二人分の米をつぐ。箸とコップを用意して、カズシが来るのを待った。いいにおいのする野菜炒めをカズシが持ってきてから、手を合わせる。

「俺もさっき起きたんだけどさ、もうあいついなくなってた」

「あいつって」

「ヨウ」

 昨日出会った、眼鏡の男を思い出した。カズシに渡されたのは書き置き。小さな丸い、女がよく書くような文字。学校行きます、昨夜はありがとうございました、ヨウ。カズシは首を傾げながら野菜炒めを口に入れる。

「あいつ、何者か知ってる?シドウ」

「いや、レンゴウカイに入りたいって言ってただけで」

「……そーかぁ」

 頷くと、カズシは何か悩んだような顔。それからしばらくして、なあ、と口を開く。

「あのさ、しばらくこの街、危なくなると思うんだわ」

「……抗争の激化?」

「お前ほんとにシドウか?よくんな難しい言葉知ってたな」

 褒められて少し嬉しくなるが、カズシはそんな俺に構わず続ける。

「言う通り。自治警察と高橋組は……というか今までも、自治警察が高橋組に喧嘩を売ってるって構図だったけどな、高橋組の上の方は相手にしてなかったんだ。それが、今回の……アクセルバイト、の件」

 カズシはなんだか言いにくそうだった。俺もなんだか、微妙な気持になりながら頷く。……結局ワタリはどうなったんだろう。

「混ぜ物アクセルバイトを街に流してたのが、元をたどっていけば高橋組のとある幹部の直近だったってことを自治警察が掴んで、突っ込んでったんた。結果、高橋組の幹部の数名にも被害が及んだ。そうなると、高橋組も黙ってない」

「……つまり?」

 いまいち話の掴めない俺に、カズシは茶碗を空にしてから言う。

「高橋組が自治警察とマジでやり合う気になったってこと。それでもたぶん、一番上は出てこねーだろうけどなあ。そうなると、今まで死者の出なかった戦いで、死者が出る」

「……また人が死ぬのか」

 セイラのことを思い出した。街の人が、自治警察の構成員が、死んだ時に見せた悲しい顔。

「この街はそーゆーマチ」

「そーゆーまち」

 言われた言葉を繰り返しても、なんの実感もない。

「……なんで戦うんだ?高橋組と、自治警察は」

 悩んでいると、カズシはすべて食べ終わって皿を重ねた。慌てて俺も皿のものをかき込む。

「……あーゆー奴らの理由とか理屈なんて、俺らに理解できるもんじゃねーよ」

 特にお前みたいな奴にはな、と微笑んで、カズシは空になった俺の皿を回収していく。並んで台所に立ち、片付けるのを手伝う。カズシは壁掛け時計をちらちら見ながら、水道の水を止める。

「わりーんだけどさ、俺、もう行かないといけなくて」

「どこに」

「……まあ、仕事。またこれがいつ帰ってこれるかわかんなくてさ。金、置いてくから、好きに使って」

「……あ、ああ」

 カズシは分厚い封筒を用意して机の上に置いて、これな、と俺に確認させた。それから、さっさと出ていってしまう。いつ帰ってくるかわからない。また一人になった家で、洗った食器を拭いて、片付けていく。

 外はまだ明るい。目的も何もないまま、俺はとりあえず外へ出てみることにした。


 日が落ちても蒸し暑いのは変わらなかった。アイスを食べながら歩いているやつも多い。ふと何かを踏んだような気がして足元を見ると、それも誰かの落としていたアイスだった。近くに水道はない。急に止まった俺にぶつかった会社員には睨まれた。どうしようもないなと思いながら、気にしないで歩く。

 ポケットには、カズシがくれた万札を一枚だけ入れていた。何かあった時に心配だ、と色んな人に言われたのを思い出したからだ。俺って、どうしてそんなに心配されるんだろう。

 学校帰りの制服の中には、見覚えのあるものもあった。ミヅキやカイトと同じ制服。……弟と同じ制服。制服を見るだけで、すごい、と近くの人々が噂するのを聞く。そうか、弟はやっぱりすごいのか。尊敬すると同時に、寂しくなる。次に会ったら、なんて怒られるだろう。カズシが連絡をとっていると言っていたが、よく怒らないなと不思議に思った。

 と、その制服の数人の塊の中から、一人抜けて、こちらに歩いてくるのが見えた。邪魔にならないように建物の脇に立って待ってみると、黒い眼鏡の男子生徒。しばらく経ってから、それがヨウだということに気づいて、手を振り返す。

「おはようございます、シドウさん」

「ああ、おはよう」

 夕暮れの挨拶。おはようが正しいのかどうかは、俺にはよくわからない。

「いいのか、仲間は」

「委員会の後輩です。構わないですよ、シドウさんいるかなって思ってたとこだから」

「そうなのか」

 頷くヨウ。

「シドウさんこそ、何してるんですか?レンゴウカイとしてパトロールですか?」

「いや、さっき起きて、暇だから……うろうろ」

「あ、なるほど。俺もついていってみていいですか?」

「いいけど」

 頷くと、ヨウは俺の隣に立って待っている。どこに行くかいまいち決まらないまま歩き出すと、ヨウが隣を歩く。

「そういえばシドウさん、家帰らないんですか?」

 どきりとしてヨウを見るけど、相変わらず表情は変わらない。家出をしたことを話したかどうかは覚えていなかったが、話したのかもしれない。なんて答えたらいいんだろう。俺はもう、家に帰りたいのか、帰りたくないのかもわからなくなっていた。

 けれど、仲間がたくさんいたはずなのに寂しかった毎日より、ミヅキがいて、カズシがいて、カイトがいて、レンゴウカイがあって。俺はやっぱりここにいたいんだろうなと思った。……それに。

「帰ったら、その、たぶん、怒られる」

「怒られる?」

 弟に。それは口に出さなかったけれど。ヨウはしばらくしてから、じゃあ、と続ける。

「シドウさんは帰りたいんですね」

「え」

「帰りたくないんですか?」

「えっと」

「帰りたいか、帰りたくないか、どちらかといえば帰りたいか、どちらかといえば帰りたくないか、無回答か選んでください」

「……えっと」

 答えない俺に、無回答ですね、とヨウは言う。改めて聞かれると、わからなかった。俺は帰りたいのだろうか。そもそも帰るべきなのだろうか。

 両親は俺にはもう期待していない。俺を相手にもしない。俺はかなりの頻度で弟をイライラさせてしまうし、俺がいない方が、家は平和なのかもしれないなと思った。ヨウはそんな俺をしばらくじっと見てから、口を開く。

「シドウさん」

「……なに」

 はっきりしろよ、と、弟なら怒るだろうなと思った。ヨウはまた間を置いてから、言う。

「サーティワン行きません?」

「え?」

「ディッパーでもいいですけど、アイスとか甘いの食べたいなって」

「……いいけど」

「やった。いまトリプル安いんですよね」

 どれにしようかなあとのんびり言うヨウの顔は変わらない。俺はまた落ちてるアイスを踏まないか心配になって、アスファルトの地面を見つめた。アイスどころか、色んなものの散らばる汚い地面。お前はゴミをその辺に捨てる様な奴になるなよ、と、弟の声を思い出したが、こんな声だっただろうか。


 ヨウと別れた後、すっかり暗くなった街で、俺はまたうろついていた。誰もいないとわかっている家に帰るのが寂しかったのかもしれない。何人もレンゴウカイの奴らとすれ違うが、仲間と楽しそうに笑う奴らの中に入ることはできなくて、ぼんやりとしたまま、人混みの中を歩いていく。

 突然聞こえたのは荒い声だった。何か言い争いをしているようだ。嫌がる女に群がる三人の男。通行人は誰も気にしない。見てしまったあとで無視することもできず、女の腕を掴む男の腹を思い切り蹴り飛ばした。飛んでいく男と入れ替わりに、掴みかかってきた男達を殴り、地面に転がす。向こうの方から逃げていってくれたのを確認して、女を振り向いた。くるくるの明るい茶髪の女。スカートタイプのスーツ姿に、夏なのに黒いマスク。暑そうだな、と思った。そういえば、男の方もスーツだったような気もする。

「えっと、大丈夫か」

 とりあえず聞くと、女は涙目で頷く。目元はそれなりに幼く見える。

「ありがとうございました……あの、あなたは」

「あ、俺は」

 シドウと言うのか、ショウと言うのか、別の偽名を使うべきか、悩んでいると、女は時間がなかったのか、慌てて頭を下げて走っていく。女は踵の高い靴で、よく器用に走れるよな。

 俺はそのまま路地の壁に寄りかかって、人の流れをぼんやり見ていた。色んなやつがいる。時々レンゴウカイの奴がいる。この街には一体何人が住んでいるのだろうかと考える。会社員の男に女、学生は制服も様々で、手を繋ぐカップル、団子になって歩く女子集団、大きなジェスチャーをしながら笑い合う男子集団。ホームレスみたいなやつもいるし、禿げた男も、太った女も、外人っぽいやつもいる。

 俺はこの中の一人で、ミヅキも、カイトも、カズシも、この中の一人だ。人間なんてたくさんいる。それでも俺は、ミヅキが、カイトが、カズシが、その誰かに会えないだけで寂しいし、その誰かが死んだらきっと悲しい。死んで欲しくないと思う。一人死んでもきっと街は変わらないのに、悲しいのだ。

「……何を黄昏ていますの?」

 広いつばの着いた大きな帽子をかぶり、肌の露出の少ない綺麗な白いワンピースを着て、かかとの高いサンダルを履いて、俺を見上げる小さな女。髪の毛はひとつに束ねている。

「セイラ」

「二人ならいませんわ」

 思わず周りを見回した俺に、セイラは言う。この前会ったときのことを思い出した。気まずくて、なかなか目が合わせられない。セイラはいま、どんな顔で俺を見ているだろう。と、突然両手を握られて、驚いてセイラを見る。

「わたくしの顔、そんなに見苦しいものだったかしら」

「い、や、ごめん」

 謝ると、セイラは、ふふ、と笑う。なぜだか緊張してしまう。握られた手がくすぐったい気がして、手を離す。

「どうしたんだ、こんなとこで、一人だし」

 そういえば、初めて会った時もセイラは一人だったなと思った。

「……夏休みを頂いたの、一日だけ」

 そう言って微笑むセイラの笑顔は、少し子供っぽい。どうしたものか悩んでいると、セイラが言う。

「シドウ様、よろしければご一緒しませんか、夏休み」

 手を差し出すセイラ。なつやすみ、と口で繰り返すと、相手は頷く。少し照れたように笑いながら、言う。

「シドウ様の他に、同年代のおともだちなんかはいないもので……無理なら結構ですが」

「あ、いや」

 ともだち、と言われて、セイラの手を取った。微笑むセイラの歩幅に合わせて、一歩を踏み出す。小さな手。俺達も人混みの中に紛れていく。

「……今日は、自治警察のセイラではなく、アサギリセイラとして街に遊びに来ましたの」

「……そうなのか」

「自治警察のセイラが、レンゴウカイのシドウ様のことをお誘いすることは、もうありません」

「……ごめん」

「謝らないで。信念があってしたことを簡単に曲げるのは、部下に失礼です」

「……そうか」

「そうですよ」

 しばらく黙っていると、セイラは手を握り直した。絡まる指。また少し緊張するのを感じた。セイラの細い指の感触。……普通の女だな、なんて当たり前のことを考えた。

「あら、あれは何かしら」

 歩く速度を緩めるセイラの目の先にあるのは、学生の食べているアイスクリームだった。夕方にヨウと一緒に食べに行った店のもの。

「サーティワン」

「さんじゅういち?」

「?アイスの店だけど」

「そこには三つ重ねのアイスがあるのですか?」

「ああ、なんか、味選んだり」

「へえ……」

「……行く、か?」

「えっ」

 セイラは足を止めて、俺を見上げる。その目はいつもの凛としたリーダーの目じゃない。アイスを見てキラキラする、ガキの目だ。

「いいのでしょうか?」

「……悪いのか?」

 少し悩むような素振りをするセイラの手を引いて、俺は夕方行ったばかりの店に向かった。道はまだ覚えている。人が増えてきた道で、はぐれないようにセイラを引き寄せて歩く。ふと見たセイラの頬は、暑いのか、少し赤くなっていた。


 味を三つ決めるのにも楽しそうにしていたセイラは、食べる時もどこから食べればいいのかと目を輝かせている。紫にピンクに緑の鮮やかな三段重ね。俺の方は、白に茶色に黒。一番上の白を舐めながら、ベンチの隣に座るセイラを見守っていた。

「幼い頃、こういったものは禁止されておりましたから、なんだかドキドキします」

 小さなスプーンで、小さな口にアイスを入れて、幸せそうな顔をする。シドウ様、不思議な味がしますよ、と言って、セイラは俺にもスプーンを差し出す。そのまま口に入れると、ぱちぱちと弾ける甘いアイスが広がっていく。

「あ、す、すみませんわたくし、わたくしのスプーンで、その」

「いや、別にいいよ」

「あ、えっと、はい……」

 また少し顔の赤いセイラに暑いのかと聞くと、違いますと首を振る。俺は自分のアイスをまた頬張る。

 アイス屋から三分もしないだろう少し広い公園で、俺たちは並んでベンチに座り、アイスを食べていた。もうすっかり夜だ。遊具で遊ぶ子供は見当たらない。学生や会社員みたいなやつらが数名、ベンチにいたり、ブランコに腰掛けて喋っていたりする。

「……なんだか本当に、新鮮ですわね、こういうの」

「そうなのか」

「こういった場所で遊んだ経験はほとんどなくて」

 それを聞いてセイラを見ると、恥ずかしそうに下を向く。

「わたくし、十を過ぎた頃に両親を亡くし、自治警察というものを始めましたので……子供らしいことなどできませんでしたから」

「……そうなのか」

「ええ」

 一段アイスを食い終わった俺は、二段目のチョコレートを食べ始める。

「だからちょっと、こういうところに来てみるの、夢だったんです。シドウ様のおかげで、夢が叶いました」

 微笑むセイラ。一段目のアイスが少し溶け始めてきている。

「あれが、ブランコ、ですよね。あれはなんですか?」

「あれはジャングルジム」

「どういった遊びをするのですか?」

「登ったり……くぐったり?」

「……楽しいのですか?」

 俺は二段目を食ってから、頷いた。セイラは首をかしげている。それから、あれは、あれは、と、遊具を指さして、遊び方を俺に聞く。滑り台も、砂場も、俺にとっては当たり前のものだったのに、セイラにとっては理解できないもののようだった。やがて俺がアイスを食い終わり、セイラもアイスを食い終わった。そばのゴミ箱にカラを入れ、歩きだそうとするセイラ。俺たち以外、誰もいなくなった公園。

「さあ、行きましょうか。少し歩いていれば、帰らなければならない時間になりそうですし」

「……セイラ」

「はい?」

 振り向くと揺れるまっしろなワンピースの裾と、ふわふわとした黒髪。恐る恐る、俺はジャングルジムを指さして言う。

「ちょっと、遊んでからじゃ、遅いかな」

「……え?」

「ブランコもジャングルジムも滑り台も、いまなら独り占めできるし。夏休みなんだろ、アイス食っただけじゃ、ほら」

 そこまで言って、この年齢になって、夏休みの過ごし方が遊具で遊ぶのもどうなのだろうかと考えて黙った。笑われるだろうかと思うと、とたんに恥ずかしくなった。

 けれど、セイラは頷いた。

「それでは、その、ブランコから教えていただきたいです」

「……ああ」

 セイラを一番端のブランコに乗せて、俺はその背中を優しく押した。

「あ、う、浮きました!」

「……漕いだらはやくなるし、高くなる、足をこう、そう、それ」

「わ、た、た、たかい、ですわね、これ、わ、あの、」

 とめて、とめて、と言われてとめてやると、セイラは見たことのないような顔で俺を見上げる。

「す、すごいですわね、これがブランコ」

「どう」

「……空を飛んでいるようでした」

「ああ、俺もブランコは好き」

 次、と言って、足のふらつくセイラの手を引いて、俺は砂場に座った。

「城作ったりするんだ」

「お城?」

「そう、水があるといいけど。まあ、でも、ほら、こうやって、トンネルとか」

「……なんだか、その、変な感触の砂ですね」

「あんまり綺麗じゃないからかも」

 恐る恐る膝をついたセイラは、俺のほったトンネルに指を入れて、それから手を入れ、さわり、崩して驚く。それから俺の簡単に作った小さな城に、目を輝かせる。

 それから滑り台も滑った。子供にはちょっとでかい滑り台は、大人の体格二人には小さな滑り台だった。一緒にすべると、セイラはまたびっくりしたような顔をしていた。

 最後にジャングルジムに登ろうとして、俺はセイラの足元を見て悩んだ。

「靴が危ないかも」

「……では、脱いでしまいましょう」

「え」

 セイラは靴を脱いで、その場に揃える。子供のような顔で、裸足でスタンバイするセイラの姿は、もしかしたら誰も見たことがないかもしれない。少し広い入口から入って、あいだを抜けていく。そのうちに、いつのまにか競走してるような気分になって、夢中で上に登っていった。俺が登ってしばらくすると、セイラもなんとか登ってくる。息を切らすセイラの手をひっぱりあげて、隣に座らせた。セイラはなんだか不安なようで、俺の体をしっかり掴んでいる。

「……公園とは、すごいものだったんですね」

「俺、ジャングルジムの上好きなんだ、ちょっと空が近いし、高いし」

「煙となんとやらは高いところが好き

というやつかしら」

「?なんだそれ」

「なんでもないわ、わたくしもそのなんとやら、みたいですから」

 よくわからないが、クスクスと楽しそうに笑うセイラに、俺も笑い返す。今の俺たちはハタチ近い男女なんかじゃなかった。小学生の、あるいは小学生になる前の、ただ走り回るだけで楽しいようなガキだった。ジャングルジムの上を取れたことが楽しくて仕方が無いのだ。近くの店の明かりで、空に星はうまく見えないけれど。誰もいないブランコや、砂場や、滑り台、それらの上に、俺たちはいた。

「本当はずっと憧れていたの、普通の子供たちに」

「……セイラは昔から、リーダーだったんだな」

「……役職はね。本当のところは、わかりませんわ」

 首を傾げると、セイラは少し悲しそうな顔をする。しばらくしてから、ねえ、と、空を見ながら言う。

「シドウ様、自治警察に協力する気は、やはりないのかしら」

 まだガキになっていた俺は、急いで頭を切り替えようとする。セイラはもう、とっくに元のセイラに戻っていた。

「アクセルバイトの件で、高橋組を追い詰めることがようやくできました。わたくしたちは高橋組と戦います。けれど……高橋組の規模に比べて自治警察は小さい、勝てる見込みは薄い。しかしレンゴウカイの人数があれば、可能性が見えます。……ねえ、一緒に戦ってはくださいませんか」

 戦う。その言葉の響きは冷たい。カズシはたくさん死人が出るだろう、と言っていた。それは、殺されるかもしれないし、殺すかもしれないということだ。俺が悩んでいると、セイラのほうが首を振った。

「……しつこい女は嫌われますわね。いいです。忘れてください」

「……なあ、抗争はどうしてもしなきゃいけないのか。話し合いとかじゃダメなのか。無理なら、殴り合いで決めるとか。殺さないで、こう、その」

 セイラは一瞬ぽかんとして、それから笑う。何を笑われたのかよくわからず、俺は頭を掻いた。

「わたくしたちには、戦わなければならない理由があります」

 その声は、リーダーの声。

「……わたくしの両親は、高橋組に殺されました」

 ドキリとした。殺された、という言葉は痛い。セイラの顔を見れない。

「十年ほど前のことです。この街で、突然、とある薬物が流行り、その成分でたくさんの人が死んだ。世の中はジャンキーが用法を失敗したのだと嘲笑いました。その中に、わたくしの両親もいた。アサギリは、少し名の知れた企業で、わたくしは何不自由無く育っておりました。ですがそのようなことでしたので、最後には財産も何もかもなくなり、両親の雇っていた若い使用人が二人、付いてきただけ、わたくしは一人になりました」

 物語を読むような、柔らかい声だった。俺はそっと、胸を抑えた。

「後に、使用人の調べでわかりました。あの薬の成分はもはやただの毒だった。元々の目的は知りません。けれど両親は、その毒を故意に飲まされたのです。交渉が決裂して、商談の相手……高橋組と呼ばれる組織の人間に」

 俺は、たかはしぐみ、と、声を出さずに繰り返す。

「……アクセルバイトの件も、同じではないですか。あれは人を殺すためのものだった」

 ワタリのことを思い出した。アクセルバイトを毒薬にされた、と。

「目的は知りません。ですが、ここで引いては同じことが起きる。自分の目的のために手段を選ばないあの組織を止めなければならない。……ここでひいては、わたくしは何のために生きてきたか、わかりません」

 そう言って笑うセイラに、もう、やめろ、なんて言うことはできなかった。

「……シドウ様、本日はとても楽しかったです。ありがとうございました。……また、プライベートではお会いしたいですわ」

 一足先にジャングルジムを降りていき、靴をはいたセイラは、俺に柔らかく手を振ってから帰っていく。俺はその背中を見送る。

 俺のほうも、ジャングルジムから降りなければならない時間が近づいていた。


【れんごうかいのじゅうご おわり】

【れんごうかいのじゅうろく に つづく】

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