れんごうかいのご

 鳴った。初期設定のままの着信音が、静かな部屋に響く。ちらと隣を見ると、いつも無表情な付き人のその顔が、一瞬揺らいだ。

「行ってきなよ」

 声をかけるも、こちらを見ず、答えない。でも瞳には不安の色が浮かんでいる。口元が少し焦っている。それを出さないように、ややきつく拳を握っている。

 単純に、面白いね、と思う。長い付き合いだけど、こんな顔はあまり見たことがない。面白い。あの子はやはり面白い、と、一人の少女のことを考えた。

「行っておいで」

 言い方を変えると、 付き人はしばらくしてからようやく頷いた。顔隠しの黒いマスクを外し、背広を脱いで、ソファに投げる。そばにかけてあったラフな上着を羽織ると、そのまま出ていく。乱暴な動作。

 扉の衝撃で、そばにつんであった積み木の城が崩れた。あ、とソファから声が聞こえた。声を上げた男はソファから起き上がり、呆然と崩れた城の残骸を見つめている。

 あーあ、と、思った時には、問題児は外へ出ていってしまっていた。

 どうしたらいいのか、こんなとき弟がいたら……ああそうか、よくわからないことに首を突っ込んでしまったからか。大人しくしてればよかったのに!と、怒る弟を想像した。悪かった、悪かったから、と脳内の弟を宥める。

「……何がご不満かしら?」

 黙ってしまった俺にしびれを切らしたのか、黒髪を手で弄びながら、セイラが言う。

「貴方様は知らない人でも身を呈して守るような、正義に溢れた人ですし、我々自治警察の理想と貴方の理想はきっと同じだと思いますのよ」

 正義、と口でなぞる。実感がない。

「わたくしが高橋組に追われている時、助けてくださったではないですか」

 ねぇ、と続けるセイラに、俺は困って頭をかいた。

「そりゃ、目の前で誰かが傷つきそうになっていたら助けようとするだろ。その、特別な事じゃないと思うけど」

 答えると、セイラはアハハハと声を上げて笑った。

「……ですから貴方様は、不良なんかには……まして高橋組なんかには勿体ないと思うのですよ。自分を顧みず人を助けるなんてこと、当たり前だと思っているような……”素晴らしい”人は、なかなか会えませんからね」

 素晴らしい、の言い方には、どこかひっかかりが残る気がした。嫌な感じだ。セイラは「それに」と続ける。

「貴方様を高橋組に取られると、勢力図が大きく動いてしまいますから」

 笑顔のセイラに、勢力図、と繰り返す。セイラは頷いて、いつ手に持っていたのか、何かのリモコンを操作した。機械音がして、液晶が現れ、そこに映像が映る。

 あ、と思わず声が出た。汚い路地裏を、薄緑の頭の男に手を引かれて歩いていく、頼りなさそうな男の姿。

「この方はさきほどのお客様の一人でしょう?」

「そうだな」

 慣れた足取りで路地を歩いていくカズシが画面から消え、後ろをよろよろと歩く俺も画面から消えた。

「ご存知かも知れませんがこの場所は高橋組の領域の入口でしてね、カメラを仕掛けさせていただいてるの。何しろ高橋組の幹部の顔は、トップのタカハシリョウガ以外誰一人割れていないの。こうやって情報が引っかかることがあるかもしれないと思ってましたが、正解でしたわね」

 はぁ、と相槌にならない相槌をうつ。セイラの含みのある笑顔が何を言っているのか、しばらくしてようやく理解した。慌てて訂正する。

「カズシは高橋組なんかじゃないぞ……?」

 直後、喉元に冷たい感触が当たる。恐る恐る見ると、セイラは微笑んだまま、俺の喉に銃口を突きつけている。あまりにも現実味がなくて、怖さも感じない。いや、恐ろしくて、頭が追いついていないのかもしれない。

 ……いまセイラが引き金を引けば、俺は死ぬのだろうか?

「シドウ様、高橋組ではなくこちらへ来ませんか」

「……だから、」

 言い直そうとすると、更に銃口を押し付けられる。体は俺の方が大きいはずだったのに、いまはセイラがとても大きく見える。

「貴方様は強い、そして高橋組の情報も……もっているわよね?そして微力ながらも第三勢力のリーダー……シドウ様を自治警察へ迎え入れるメリットは山のようですわ」

「……じゃあ、俺にはなんのメリットがあるんだ」

 セイラは少し間を置いてから、そう言えば、と切り出す。

「帰る場所がない、なんて仰っていたかしら。お金も寝床も、何もかもをこちらで保障致しますわ。欲しいものも差し上げます。なんでも言ってみてくださいな、わたくしに用意出来ないものはなかなか無いと思いますわ」

 勝ち誇ったような笑顔。たくさんのメリットを並べ、銃口を突きつけ、言う事を聞かなければ連れがどうなるのかわからない、そんな状態なのだから断ることはないだろうと思っている……そんな感じだな、と思った。きっと頭のいいやつなら、ここで頷くんだろうな、とも。

 俺は少し考えてから、返す。

「悪いけど、金も寝床ももうあるし、俺が欲しいものは、お前には用意出来ないものだ」

 肯定以外の返事をされたことに動揺したのだろう。俺はその隙に素早く腕をはじき飛ばす。銃はセイラの手を離れ、壁に当たって床に落ちる。俺はそのまま、セイラの両腕を掴んだ。もう武器は持っていないのか、途端にセイラは大人しくなる。

 しばらく見つめあっていたが、やがて不満そうな顔で「何ですの」と聞く。

「わたくしに用意出来ないものとは、何ですの」

 上等な洋服に身を包み、手入れの行き届いた肌と髪、そして綺麗な顔をしている。その上自治警察なんて組織のリーダーをやってるんだから、きっと頭いいんだろうな、とも思った。俺から見れば、何でも持っているのかもしれないな。

 でも俺にはこんな綺麗でなんでも持ってる女より、脱色を繰り返して傷んだくせっ毛を手で弄ぶ、キツイメイクしてるくせにいつもしかめっ面の、突然笑ったり泣き出したりするような……そんなわけわかんない女のほうが、たぶん合ってる。

「ミヅキと、ついでにカズシ。俺がいま欲しいのはあいつらだ」

 答えると、セイラは口を開いたまま、ぽかんとしていた。やがて、何か言いかけた。

 その時だった。

 地面が揺れた。ガラスの割れる音に、空気が割れるような……銃声だ、と思った。揺れに俺がバランスを崩した隙に、セイラは俺の手を逃れ、落とした銃を拾い、「何事ですの!」と、勢いよく部屋を出ていく。部屋に残された俺はセイラの出ていった扉を見ながら、へなへなと座り込んだ。

 気がつけば体中汗だくになっていて、手も足も震えていた。俺はやっぱり怖かったのだと思った。

 また銃声。誰かの怒鳴り声。人を殴る音。なにか割れる音。なんとか壁を使って立ち上がるが、扉の外へ出ていいものか悩んだ。ミヅキやカズシは……根拠はないが、きっと無事だと思った。それよりも俺はいま、何をするべきなんだ。どうすればいいか悩んでいると、また銃声。近いな、と思った。耳が痛くなる。

 と、頬に痛みを感じて触ってみる。……べたべた。見ると、触った手が真っ赤になっている。床にも赤がたくさん散らばっている。

 撃たれたのか、と思った途端、体が動かなくなった。恐る恐る前を見ると、黒いスーツに大きな黒いマスクという、見覚えのある姿の男が立っている。……前髪が長くて表情は見えない、金髪の男は、構えていた銃を下ろして、ゆっくり俺に近づいてくる。動けないまま、俺は息をすることだけに集中していた。

 男は俺の目の前で立ち止まると、再び銃を構えて言う。

「キミ、ジチケーサツの人?そーじゃない人?」

 不機嫌そうな早口だったが、聞き取れた。そーじゃない人だ、と恐る恐る答えた。ふうん、と男はあまり興味がなさそうに言う。

「じゃ、バイバイ」

「え」

 男は俺の腹を思い切り蹴飛ばした。しっかり入り、意識が飛びそうになる。よくわからないまま、背中に硬い感触、次いでガラスの割れる音が俺の四方で響く。体のあちこちにかゆみを感じて見ると、どこからも血が出ている。男の姿が遠くなる。建物が遠くなる。そうか、窓から落とされたのか、と思った後、死ぬのかとぼんやり思う。

 やり残したことを考えようとした。……弟は心配してくれているだろうか。もしそうなら、謝っておきたかった。

 

 柔らかいものに包まれ、温かい。死んだらこうなるのかと思った。目を閉じ、体を楽にする。死んだ後のことを勉強していればよかった。なにしろ、今からなにをすればいいのかわからない。待っていれば迎えが来るのだろうか?

「おーい、何寝てんだ!起きろー!」

 顔を叩かれて目を開けると、カズシによく似た奴がいる。天使だろうか。……少し期待はずれだ。

「奇遇だな、生きてる時に俺、お前によく似た友達がいて」

「よっぽど強く頭打ったらしーな!まあいいから来い!立てるか?」

 動けずにいると、相手は俺に肩を貸して立ち上がる。俺がいた場所には、大きなマットレスが敷かれていた。俺の血だろうか、真っ赤になっている。

 案内された先には、何度か見たような黒いボックス車。乗るぞ、と言われて、有無を言わさず連れ込まれる。そのまま座席に座らないうちに、車は乱暴に発進する。

「こっち座ってください」

 腕を引っ張られて座席に座ると、隣にいたのはミヅキによく似た奴だった。反対側には、カズシっぽいやつが座る。一番後ろの座席。

「天使って、生きてる時の知り合いの顔してるのか?」

 恐る恐る聞くと、

「ハァ!?馬鹿にも程があるんじゃないですか?」

 天使の暴言に落ち込んでから、俺はもしかすると、まだ生きてるのかもしれないなと思った。

「……もしかして、天使じゃなくて、ミヅキとカズシなのか?」

「マジで何言ってるんですか」

 不機嫌に返すミヅキと、何故か大笑いしているカズシを見て、俺は息を吐いて……それから二人に抱きついた。

「ちょっと、シートベルトキツイんですけど…」

「おいおい、ミヅキちゃんまで血だらけになっちまうぞ…」

 温かい、安心する。生きていてくれてよかったし、生きていてよかったと思った。

 そのまま少しずつ、心が落ち着いていくのを感じた。耳元でため息が聞こえ、優しく頭を撫でられる。そのまま目を閉じる。隣で笑い声が聞こえ、そっと抱きしめ返される。

「なんだか、弟ができたみたいよ、まったく」

「そーだなぁ」

 こんなにでかいのになぁ、なんて声を聞きながら、少しずつ落ちていくのを感じていた。

 

 目を開けると、見たことない天井と目が合った。体の上のやわらかさに気づいて触ると、タオルケットが掛けられていた。ゆっくり起き上がると、ソファに寝かされていたことがわかる。

 ……ボックス車に乗り込んだところまでは覚えてるんだが、そのあとどうやら寝てしまってからは、全く何も覚えていない。カズシもミヅキも見当たらない。とりあえず頭をかいた。

 ……と、誰かがこちらをずっと見ていたことに気がついた。見れば、綺麗な金髪に黒い大きなマスク、黒いスーツ……あ、と思った。俺を窓に蹴り飛ばした男だった。男は床に座り、何故か大量の積み木で、大きな城を作っていた。

 ……長い前髪の隙間から、綺麗な緑色の瞳と目が合った。まるで人形のような瞳。目が合ったまま、何も話さないし、目をそらして積み木の続きもしない。少し困ってしまう。

「……なあ、俺の連れは」

 言いかけると、

「いま、お城を作ってるの。でもキミは住まわせてあげないよ」

 早口でそう答える。まったく噛み合わない。聞き違えたのかと思ったが、それから相手はせっせと積み木を積み始める。俺が何も聞かないうちに、また続きを話し始めた。

「あのさ、一生懸命作ったのに、ユウキが壊したんだ。なのに、勝手に出ていったオレが悪いんだって、ねえ、ユウキが壊したんだよ?ユウキが悪いよねえ、でもユウキ作れないんだって、だからまた作ってるの、同じ城なんか二度と作れないのにねえ」

 早口。ぼんやりしていると「ねえ?」と同意を求められて、思わず頷く。相手はそれからしばらく俺には興味をなくしたようで、せっせと城の工事を行っている。俺はどうしたものかと思っていると、ふと体にピリピリと痛みを感じた。

 見れば、なるほど、あれからそんなに時間が経っているわけでもないようだった。血は止まったようだが、体中傷だらけだった。顔の傷をなぞってみた。痛い。

 部屋を出ればミヅキなりカズシなりに会えるんじゃないかと思った時、突然ガシャンと大きな音がした。見れば金髪の男が、さっきまであんなに真剣に積んでいた積木の城を、完成した途端に思い切り蹴飛ばしていた。……散らばった城壁が悲しく見える。

「そーいえば、手当してあげてって言われてたんだった。手当してあげるよ、そこ座っててよ」

 男は部屋の隅から救急箱のようなものを取り出し、開けて、それから俺の腕を掴んだ。力は強くないはずなのに、ふり解けない。勢いよく袖をまくられて、痛みに呻いた。

「はーい、痛いよこれ、たぶん痛いと思うよ、痛いよー」

「……そんなに痛いって言わないでくれ」

「なんで?痛いでしょ?いいじゃん」

 男は俺の腕に消毒液をそのまま流した。正気じゃない。痛い!どんどん傷口に染み込んでいく。終わるまでのわずかな時間が地獄のようだった。

「はーいおわり、あとこれか、ガーゼ貼ってあげるよ」

「いや、もういい、もういいから……」

「ダメだよ、兄さんがダメだって言ってた」

 ベタベタと乱暴にガーゼをテープで留められていく。最後に顔にも乱暴にガーゼを貼られ、ようやく終わった。そこで男は自分の手当のあとを見て、満足そうに笑った。

「よかったね、オレに手当してもらえてさ」

 手当も何も、傷はお前のせいだぞとも思う。まあ、窓から突き落とされたおかげで助かったといえば助かったわけだが。俺は男をじっと見た。美しい金髪と、その間から覗くガラスのような黄緑の瞳。肌は白く、長いまつげが、笑う度に揺れる。

「……お前、綺麗だな」

 乱暴なくせにな、と思いながらそう言った途端、男は急に顔色を変え、散らばる積み木を蹴飛ばし、走って扉を出ていってしまった。

 開けっ放しの救急箱と散らばった積み木のように、俺もひとりで悲しくソファに座っていた。

 ……いまのは一体なんだったんだ。

 

 迎えに来たのはカズシだった。けっこう経っただろうか、帰るぞーといつもの調子で声をかけられた。見ると、カズシも大きな黒いマスクを顔につけている。俺は立ち上がろうとしたが、思いのほか体がいたんでバランスを崩す。カズシが笑いながら、肩を貸してくれた。それから、俺にも黒いマスクを渡した。大人しくつける。

 扉の外は、またどこかのオフィスの廊下のようだった。でも窓はない。蛍光灯の明かりの下、カズシに体重をかけ、案内されるまま歩いていく。

「なぁ、嬉しかったよ」

 途中でカズシが言った。何のことかと返すと、なんでもねーけど、と答える。しばらくして、今度は俺が聞いた。

「カズシ、お前、高橋組なのか」

 ゆっくり歩きながら、答えを待った。しばらくして、カズシは「違う」と答えた。そうか、と頷くと、しばらくしてまた「いいのか?」とカズシは言った。

「俺のこと、そんな簡単に信じていいのかよ」

 けっこー怪しいだろ、俺、と言って、カズシは笑った。笑いがやんでから返事をする。

「直接聞けって、言ってくれただろ」

「でも、嘘ついてるかもしんねーよ」

「……別にいい」

 カズシが一旦足を止めた。俺も体のバランスを整えてから、言う。

「友達なら、嘘ついたって、いつかほんとのことも、話してくれるだろ、たぶん」

 カズシはしばらく俺を見ていた。俺もしばらくカズシを見ていた。……やがて、カズシは何も言わずに歩き始めた。合わせて、俺も歩き出す。

「……俺はどこにも属してないよ」

 優しい声で、カズシが言った。俺は、そうかと頷いた。そーだ、とカズシがもう一度言った。

「……そろそろお前また、下向いとけよ。あ、でも幹部ですーって顔しとけ、話しかけられても何も返すなよ」

 どんな顔が「幹部ですーって顔」なのかさっぱりわからなかったが、言う通り、俺は下を向いて歩いた。何人かとすれ違い、挨拶をされ、何か話しかけられたが、決して答えなかった。代わりにカズシが全て返してくれている。

 ……カズシの声のはずなのに、また聞いたことのないような、大人しめの少年のような声だった。カズシは一体いくつの声を出せるんだろう。

 やがてカズシがいつもの調子で「もーいいぞ」と言った。顔をあげると、建物の外だった。目の前にはバイクが一台。

「ほい、乗れんだろ。あ、もうマスク外していいぜ」

 マスクを外して、ヘルメットを渡されて、大人しく被る。先にカズシが乗り込む。俺も後ろに乗って、しっかりとカズシに捕まった。発進する直前、「ミヅキはどうしたんだ」と聞くと、カズシは「別行動、無事だから心配すんな」と返して、すぐエンジンを掛けた。

 知らない場所だった。工場地帯のような見た目。建物の間をくぐっていくと、やがて拓けた場所に出た。一軒家の並ぶ田舎の町並みと、いつもより近くに見える山に、普段行動している街よりだいぶ山の方へ来たのだと思った。

「なあ、さっきの場所は」

「なんも考えるな。場所も忘れろ。二度と近づくなよ」

「わかった」

 カズシの走りに身を任せながら、俺は少しずつ見覚えのある景色に帰ってきているのを感じていた。そのまま町中を走り、やがて日が暮れる頃にはカズシの家に帰りついていた。

 俺たちは降り、ヘルメットを外し、それから大きく伸びをした。カズシは俺を見て「ほんと傷だらけになったな」と笑う。それから家へ帰った。

「怪我人は先に風呂でも入れよ」

 沸かすからな、と言って、カズシはスイッチを入れる。俺はそれまで休もうと、居間に座った。帰ってきたことへの安心感か、一気に眠気と疲れが押し寄せてくるのを感じる。体中が急に痛み出して、静かに呻いた。気がつくと、カズシが背中をさすってくれている。

「乱暴なやつに会っちまったんだな」

 城を建てて破壊した、人形のような綺麗な男を思い出す。

「カズシはあいつのこと知ってるのか」

 聞くと、わからない、のジェスチャーをするカズシ。

「普段表に出てこない仕事してるやつだと思うけどな。つか話しかけても返してくれなかったし」

「……えらく早口だったな。会話、噛み合わないし」

「お、話したのか。名前とか聞いた?」

 興味津々といったふうに聞いてくるカズシに、俺は記憶をたどって首をひねった。

「なんか、ユウキってやつに積み木の城壊されたとか言ってたな」

「積み木?」

「一生懸命積んでた」

「へえ」

「でもすぐ壊して俺の手当してくれた」

「よくわかんねーヤツだな」

「そうだな」

 そーいや喉乾いたろ、と言って、カズシは冷蔵庫から麦茶を取り出して、俺にも一杯注いでくれた。一杯飲むと、途端に喉が乾き始めて、もう一杯注いで、飲み干した。

「……なぁシドウ」

 空のグラスを指で弄りながら、カズシが言う。風呂の湧き上がった知らせの電子音が響いて、間が空いてから、カズシが言った。

「あした、家まで送っていくよ」

 一瞬、言われている意味がわからなかった。ここがいまの俺の家のようなもので、俺は当たり前のように生活していて、これから街でどうするかを考えている。

「バイト休むからさ、バイクで送ってくから。お前はちゃんと家に帰って、学校行けよ。んでちゃんと卒業しろ、出席してりゃバカでも何とかなるだろ」

 そこまで言われて、カズシが何を言っているのかようやく理解した。家っていうのは、つまり”俺の家”ってことなのか。途端、なぜだか急に、胸の辺りが冷えていくのを感じた。

 よく考えれば当たり前だ。家出をしただけで、いつかはきっと帰らなきゃいけない。……もしかしたら、弟も、両親も、兄も、みんな心配してくれているかもしれない。

 それはわかってる、けど。口を開きかけた時。カズシは真面目な顔で言う。

「この街で信用出来るのは金と権力だけだ。んでもってみんなそれを狙って生きてる。……ここじゃ、お前は生きづらいだろ」

 カズシはそれだけ言うと、別の部屋の方へ行ってしまう。俺は一生懸命、言われたことを頭で繰り返していた。

 風呂入れよ、と後ろから声が聞こえた。俺はなんとか立ち上がり、風呂に向かう。

 

 傷が痛くて、シャワーは地獄だった。石鹸で洗わず、砂埃をお湯で落としていくようなイメージに切り替える。湯船にはとてもじゃないけどつかれなかった。腰掛に座ったまま、湯船を見つめるだけだ。

 ふと、この傷を弟が見たらどう思うだろうかと思った。腕に、足に、背中に尻に。鏡を見ると、顔の傷は紫になっている。体中傷だらけだ。

 この街にいろ、と弟はいつも言っていた。お前は外では生きていけないと。ここにいれば俺たちが守ってやれるから、と。確かにずっと、守られていたはずだ。ここに来てから、よりそう思う。

 家から出てそんなに日は経っていない。まだ帰れる。だけど。

 それで本当にいいか?

 胸のあたりに手を当てると、心臓が動いているのを感じた。

 俺は今、生きているんだよな。

「ありがとうございました」

 傷を手当されながら言う。無事でよかったと呟く相手は、あたしの腕に包帯を巻き終えると、あたしの隣に腰掛けた。

「あの、シドウさんたちは」

 大きな黒いマスクを外して、ユウキさんは頷いた。

「手当して家に返したはずだよ」

「……そーですか。……ありがとうございます」

 頭を下げると、そのまま撫でられる。大きな手だ。なんだかやっぱり、リョウガさんに似ているな、なんて思って、切なくなる。

「……あの、リョウガさんは」

 数日会っていない、愛しい人の名前を出す。ユウキさんはしばらくしてから首を横に振る。そうですか、と頷いた。

 わかっている。忙しい人なのだ。でもこうやって、助けを呼べばユウキさんを寄越してくれる。何かあったら助けてくれる。……きっとあたしのことを、愛してくれている。

「……あと、これ」

 ユウキさんから小さな袋を受け取る。頭を下げて、早速中から一つ取り出して、噛んだ。化学的な甘さが一気に広がる。目の前がパチパチと弾けるような感覚と同時に、心が穏やかになっていくのを感じて、呼吸が楽になる。……目の前の邪魔な”数字”が少しずつ消えていく。

 そうしてユウキさんの表情も、鮮明になっていく。

「……あれ、ユウキさん、どうしてそんな、悲しそうな顔」

 言う途中でユウキさんの顔が近づいて、言葉は遮られる。息を止めるようなキスをして、離れると、ユウキさんは「行かないと」と。おでこにもう一度キスをしてくれる。

 やっぱり似てるなあ、なんて思う。仕草も、やることも、声も……兄弟だからだろうか。ユウキさんはあたしの頭をもう一度優しく撫でると、そのまま部屋を出ていく。あたしはソファに横になって、目を瞑った。

 今日は少し、疲れてしまったなと思った。リョウガさんのことを想う傍ら、シドウさんのことを考えていた。

 明日……明後日でもいいや。会ってきちんと話をしよう。この街を……リョウガさんを助けるための話をしよう。

 きっとあの人なら、と期待する心と、あの優しい人をもう巻き込まないで、と叫ぶ心が、混ざりあっていく。

 カズシが寝たのを見計らって、俺はそっと家を抜け出した。真夜中、コンビニみたいな二十四時間営業以外は閉まってる時間だ。街にはあかりが少なく、街頭の下には素行の悪い連中が屯していたりするが、みんな俺を見ると縮こまって挨拶をする。とりあえず俺も右手をあげて応えていく。

 俺が知らなくても相手はだいたい俺を知ってる。俺はこの街ではもう、ただの高校三年生ではなかった。すっかり有名人だ。……良くも悪くも。

 真っ暗な路地に入り、記憶と感覚を頼りに歩いていく。相変わらずゴミだらけの道を歩いていくと、今までよりも少し広い路地に出る。俺はその路地においてある、大きな蓋付きのゴミ箱の前で立ち止まり、その横の地面に座って、空を見上げた。

 夜の空は雲が出ていてすこし濁っている。星はあまり見えないな。目を閉じて、大きく息を吐いた。

『あたしとこの街のために、戦って』

 あの日、キョウを倒しに行った日に聞いた言葉が蘇る。すべての始まりはあの日……そして、ミヅキだったな、と改めて思った。

「……はは、なんでいるんですか、また」

 聞き慣れた声。目を開けると、赤チェックのスカートの端が見えた。見上げると……ぐしゃぐしゃの泣き顔のミヅキがいた。泣いたまま、俺に笑いかける。俺が手招きすると、隣に座った。

「……制服、汚れるぞ」

「いいです別に」

 そう言ってミヅキは俺のほうに体重を寄越す。俺は肩に腕を回して……そのまま抱き寄せる。ミヅキもしばらくして、俺の背中に腕を回した。

 小さいな、と改めて思った。この小さくて頼りない体で……どれだけ無理をして、色んなものを受け止めてきているのだろう。

「……聞かないんですか」

 涙混じりの声でミヅキが言う。俺は、そうだな、と返す。ミヅキは何も言わずに、抱きつく腕の力を強めた。

「……なぁ」

 ミヅキのすすり泣く声が響く中、切り出すと、涙混じりに「なんですか」と返ってくる。俺は少し体を離した。目を見ると、同じく不安そうに俺を見る目がある。その瞳の中に俺を捉えたまま、言う。

「ナンバーツーにならないか」

 ミヅキはしばらくぽかんとしてから、新手のナンパですかと少し笑った。


れんごうかいのご おわり

れんごうかいのろく に つづく

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