れんごうかいのいち


 焦点の合わない視界で、左右上下に少しだけ首を動かした。見覚えのある場所だと思った。少し煙たい中に、鉄のような匂いが混じっている。柔らかな「地面」を確かめる。いつものソファだ。……少しだけ、あの人の体温が残っているような気がした。きっとそれは、錯覚だろう。

「おはよう」

 聞きなれた、少し低めの優しい声。あの人の声によく似ている。何度か瞬きをすると、声の主に焦点が合った。短い黒髪の、スーツの男性。あたしの寝ていたソファの傍らに椅子を置き、そっとあたしを覗き込んでいた。

「……やっぱり、来てくださったんですね、リョウガさん……」

 もう仕事へ出かけたのだろう。いない人の名前を呟くように呼んだ。体がだるくて、うまく動かせなかった。目を閉じる。……感情があふれ出そうで、うまく制御ができそうにない。気が付けば、また涙が止まらなくなっている。懸命に目を閉じて、口を閉じて、声を出さないようにする。混濁した記憶の中、雨でずぶ濡れになった自分を思い出した。見れば服は、別のものになっている。制服はハンガーで、部屋の壁際に干してあった。

「……飲んで」

 目を閉じたまま、手にグラスを握らされる。そのまま、少しだけ体を起こして飲む。……何度も同じことを繰り返しているのに、まだ慣れない。いつだって、後はこうやって、介抱してもらわなければどうしようもなくなる。

「あ………」

 力が入らなくなり、グラスが手を離れていく。ぱりん、と響いた高く冷たい音で、耐えられなくなり、泣いた。頭を押さえ、小さく丸まって泣いた。

「………ユウキ、さん、ごめ、なさ」

「………いいよ、大丈夫」

 傍にいたその人が、そっとあたしを抱きしめた。すっぽりと包まれ、少しだけ不安が、恐怖が和らぐ。頭を撫でられながら、背中を優しく叩かれながら、あたしは声をあげて泣いた。

 そうして少し経ち、泣きつかれ、ぼんやりとしたまま、思い出してケータイの画面を開いた。そして、しばらくぽかんとしたまま画面を見つめていた。

≪不在着信:99+≫

「…ずっと鳴ってた。途中で音消したけど……」

 友達?と聞かれたとき、心当たりを思い出した。どうしてか、素直にこの番号を教えてしまった人物が一人いた。

「……シドウさん」

 小さく声に出た。シドウ、とユウキさんが繰り返した。



「だいじょうぶですか、だいじょうぶですか」

 体を優しく揺さぶられ、目を開けた。日差しがまぶしい。ここはどこだったか、どうしてここにいるのか、いまいち思い出せないまま、目の前に焦点を合わせる。……知らない男が、俺を覗き込んでいる。大丈夫ですか。口が動いてるのを見て、ようやく言葉を言葉通り受け止めた。ちらりと見ると、制服を着て、通学カバンと、エナメルの大きなバッグを持った……高校生か。どこかで見たような制服だった。……どこで見たんだっただろうか。

「大丈夫ですか。なにかあったんですか」

 高校生は俺の隣に膝をついて、俺の体を起こすのを手伝った。けがはありませんか、と俺の体を触る。俺は大きなあくびを一つして、空気を吸い込んだ。ああ、思い出した、と思い、高校生に一言。

「眠くなって、寝てたんだ」

 高校生は「だ」の形で口を止めたまま、眉をしかめた。


「地面で寝ないでくださいよ。邪魔ですし………」

 よく晴れた雲の少ない空の下、大きな滑り台とブランコが一つずつ、あとは砂場と芝生しかない小さな公園のベンチに座らされ、俺は手やら足やらを、知らない男子高校生にぺたぺたと触られていた。濡れたハンカチで顔を拭かれ、手足も拭かれ、擦り傷には消毒液を。少しだけ染みた。どこで出来た傷なのか、さっぱり覚えていない。

「心配も、したんですよ」

 付け加えるように言いながら、相手は俺の制服の砂やら草やらを掃っていた。絆創膏は貼らないほうが治りがはやいんです、とまた、付け加えた。邪魔なのか、時折くせの強い黒い髪を耳にかける。耳にはピアス穴の一つも空いていない。きっちりとしめたネクタイが苦しそうだなと思った。

「これでよし、です。まったく、駄目ですよ、こんなところで寝ていては。このへんは危ないんですから」

「……ああ、悪い」

 なんだか弟に似ているな、と少し思った。なんとなく、目をそらして、頭を掻いた。

「家、どこですか。俺、送っていきますよ」

「あ、いや、いい、大丈夫」

 首を横に振るも、相手は引く気配がない。……困ったな、と思ったとき、相手が「あ」と、何か思い出したように通学カバンを漁り始めた。ちらりと見えたが、重そうな教科書がぎっしりと詰まっている。俺が学校に行くときなんて、スケッチブックと色鉛筆くらいしか入れていっていなかったのに。

 高校生が取り出したのは、一枚の写真だった。

「いま、幼馴染を、探してるんです。……よく、いなくなるんですけど、あいつ………危ないことに首を突っ込みやすくて、ちょっと、心配で。貴方、知りませんか」

「……いや…」

 見覚えがない、と続けようとしたところで、相手に写真を押し付けられる。少し近くで見た。目の前の男子高校生と同じ制服を着た、黒髪の少女。くせっ毛をいじりながら、カメラ目線で笑っている写真だ。

「何年か前の写真なんですけど、まあ、あいつ、あんまり変わってないんで…」

 見覚えがない、と言いたかったのに、何かが引っかかって、二、三度首を傾げ、どこだったかなぁと考えた。そして男子高校生の制服を見て、写真を見て。

 突然、昨日のことを思い出した。

「……なにか、ご存じではありませんか」

 俺の顔を覗き込んで、少し何かを期待したような顔で、俺に聞く男子高校生に、俺は写真を返しながら言った。

「悪いな。俺は何も知らない」

 手当してくれてありがとう、役に立てなくて悪い、と一言お礼を言って、俺はその場を後にした。

 人の手伝いよりも先にやるべきことを思い出した。


 昨夜何度も何度も繰り返された、不機嫌な声で録音されていた留守電のメッセージを思い出した。思い出すと、何回もまた頭の中で再生される。

『はい。ミヅキです。いま出れません。残念でした』

 本当に残念だ、と、歩きながらため息をついた。アレから何回電話を掛けたかわからなかったが、カズシのケータイの充電が切れて諦め、それから街に飛び出し、あちこち探し回ったのだった。それでも見つからず、耐えがたい眠りに襲われ、とりあえずその辺の公園の芝生を借りたわけで。……寝心地はけっこうよかったが、あの高校生に起こされなければ、まだ寝ていたかもしれない。

 日はかなり高くなっている。もう昼すぎだろう。喉も乾いた、腹も減ったが、いまやらなくてはならないのは、ミヅキを探すことだった。ふと気を抜くと、昨日の映像が浮かんでしまう。黒いボックス車、近づくなと言った銀髪の狐男に、連れ去られたミヅキ。

 ……探さないと。

 探してどうするかは、わからないけれど。

 休日が終わり、平日の昼間、人通りはそんなに多くはない。とりあえずまた、今まで行ったことのある場所に足を運んだ。出会った場所、思い出深いゲーセンに、一緒に食べたファーストフード店。あの連れ去られた場所にも。

 だが、どれだけ歩いても、手掛かり一つない。なすすべなく、とりあえず俺はまた、寝床にしていた公園に戻ってきた。カズシに会いに一度帰るべきか。やっぱり喉も乾いたし腹も減った。腹の音が鳴って、少し惨めな気分になった。その時、かさ、と音を立てて、目の前にビニール袋が差し出される。何も考えずに受け取ると、中身は冷たいお茶と、サンドイッチが一つ。顔を上げるとそこには、相変わらず制服のまま、通学カバンとバッグを二つもった、さっきの男子高校生が立っていた。

「……これ」

 思わず受け取ったビニール袋を持ったまま、とりあえずそれだけ言うと、男子高校生は俺を見下ろしたまま言った。

「いいですよ、それ、あげます。その代わり、条件があります」

 腕を組んで俺を見下ろす姿は、まったく弟そっくりだ。怒られている気分になって、俺は少し目をそらした。あ、でも、目をそらすと怒られるんだった。恐る恐るもう一度目を合わせると、相手は言った。

「人探し、手伝ってください」

 反射的に、わかった、と言っていた。どうしてこんなに弟に見えるんだ、と思い、相手の足元を見てわかった。

 そうだ、これは弟と同じ制服だ。

 高校生は俺の隣に座ると、足元にバッグを置いた。

「ミナヅキ学園高等部二年のクロバカイトです。よろしくお願いします、キノシタシドウさん」

 なんでこの街はどいつもこいつも俺のことを知ってるんだ。俺は頷いて、とりあえず袋の中のペットボトルを開けて、一口飲んだ。そのまま一本飲み干した。


 俺たちの通っている北地区の落ちこぼれ高校、冷抄高校、通称レイコーは、とりあえず高校の行き場のない奴が行く、そんなレベルの学校。俺は中学でもずっと落ちこぼれで、成績の良かったものといえば体育と美術だけ。他は不可……にしたかったけど、可にはしましたよ、とよく三者面談で言われていた。そのたびに親に睨まれたのを覚えている。

俺は昔から馬鹿で、難しいことはよくわからなくて、とりあえず好きだから、毎日空を描いていた。空を描くのが好きだった。色鉛筆で、クレヨンで、画用紙にその日の空を描いた。ずっと何時間も地面に寝転んで、見て、それからその空をざっと描く。兄はよく「シドウは絵を描くのが好きなんだな、美術系に進んでみたらどうだ」と言ってくれていたが、両親や弟は、そんな俺を見ていつもため息をつくだけだった。なんといっても、その俺の兄こそが、有名高校を出、有名大学に進学し、一流企業に就職したトップエリートだったのだ。うちは普通の一般の家で、たいして金持ちでもなかったが、兄は奨学金ですべてを賄い、自分の道を切り開いていった。優秀だったがいつも笑顔で、にこやかで、優しく、本当に理想の人だった。……その人と同じ教育をしていたはずの俺がこのありさまなので、両親は早々と俺を見捨て、弟の教育に時間と金を割いていった。そうして弟は、北地区内の高校では有り余る学力を持ち、区外の優秀な高校へ進学した、と言っていた。詳しいことは、俺は何も聞いていなかった。

この前出会ったミヅキの着ていた制服は、県内でも国内でも最高峰と言われる学力を持った、有名な私立の制服だった。特に制服が赤いチェックのスカートに同じ模様のネクタイ、ブレザータイプなのは県内では珍しく、女生徒の憧れの的なのだと、前に付き合った女に聞いていたし、画像も何度も見せられたので、ミヅキの制服を見たときに、金持ちで頭のいいやつなのだと思ったのだった。

そしていま、俺の隣に座るこの、カイトが着ているのは、俺の弟と同じ制服で、さっき見せられた写真の女生徒の制服はミヅキと同じもの。つまり、カイトは弟と同じ高校に通っている。……えっと、つまり、どういうことだ。頭の中がこんがらがってきているが、弟から逃れたはずの俺は、また弟と繋がってしまったような、そんな感じであって…。

「俺のこと、なんで知ってたんだ」

 サンドイッチを食いながら尋ねると、カイトはしばらく間をおいてから答えた。

「少し、つけさせてもらいました。そしたら、俺もつけられてたんです。何してるのかと聞かれたので、貴方のことを知っていますかと聞いたら、いまの不良のリーダーのキノシタシドウさんだと伺いました」

 真面目な顔で淡々と喋る。俺はサンドイッチをまた一口かじる。一体、その、俺のことを話した奴は何者なんだ。

「不良に頼るのは癪ですが、幼馴染を見つけるためには手を借りるべきだと判断しました」

 そのわずかに嫌悪感の混じった言い方に、俺はちらりと横目でカイトを見た。やや下をうつむきながら、俺とは目を合わせようとしなかった。

「すみません、手を貸してほしいと言ったのに、失礼なことを言いましたね」

 まったく悪いと思っていないんだろうな、と思った。俺はそのままサンドイッチを食べた。食べ終えて、ペットボトルを開けて傾けて、一滴も雫が落ちてこないのを確認して、また蓋を閉じた。しまった、と思ったら、隣からカイトが、スポーツドリンクのペットボトルを差し出す。

「これでよければどうぞ。今日、部活行かないんで」

 開けていないペットボトル。俺はそれを受け取り、飲んだ。

 飲んで、食べて、飲んだ。ということは、俺は付き合わなければならない。その、幼馴染探しに。

 俺はミヅキを探さなければならないのに……と、わずかに焦りを抱きつつ、カイトに向き直った。

「とりあえず、まあ、なんていうか、行くか」

「…当てがあるんですか」

 聞かれて、俺は首を傾げた。リーダーと呼ばれたって、俺を見たらたいがいのやつは逃げていくし、なんというか、俺はただそういわれているだけで、ろくに仲間もいない。が。

「……ないこともないな」

 一つだけあった心当たりを目指して、俺は歩き出す。

 後ろからカイトもついてくる。振り返ると、重そうなバッグを二つ。

「一つ持つ」

 差し出した手を見て、カイトは首を振った。

「不良の方には手伝っていただかなくて結構です」

 俺は少し迷って、その手をポケットに収めた。振り返らないまま、歩き出す。後ろから、なんとなく誰かがついてくるような感覚を確かめながら歩いた。微妙な空気だ。


「え、あの、ちょっと、あの」

 突然声をかけられて、一度足を止めて振り向いた。さっきも来たけど、俺はまた例のゲーセンに来ていた。カイトは俺とゲーセンの看板を見比べて、もう一度「え、あの」と言った。

「ここ、ゲームセンターじゃないですか」

 俺ももう一度ゲーセンの看板を見た。ゲームなんちゃら…と、英語か何かで書いてある看板だが、もうすっかり色は落ち、みすぼらしいものになっている。入り口を見た。相変わらず薄暗い。

「…ゲーセン、だけど、どうした」

 聞くと、カイトは真面目な顔で答える。

「学生がゲームセンターへ足を踏み入れるなんて」

「…は?」

 思わず間抜けな声が出た。カイトは首を振って、続ける。

「そんなの、不真面目ですよ。駄目です。学生が来るべきじゃない」

 その後、しばらくカイトはごちゃごちゃと不真面目だとか不道徳だとかなんだとかを説明してくれていたが、俺は聞くのを放棄していた。少しして面倒になって、俺は先にゲーセンに入っていく。

 ああ、待ってください、と声がしてからしばらくして、カイトが後ろから走ってきて、俺に合流した。

「一人で行かないでくださいよ、こんなところで一人なんて、怖いじゃないですか」

 こんなところ、と繰り返すカイトは、しっかり俺の服の裾を掴んでいる。

 もしかしてこいつは、ゲーセンで殺されるとでも思っているんじゃないだろうか、と心配になった。手を差し出すと、カイトはぱっと離れて「大丈夫です」と言うが、なんとも落ち着かない様子だ。きょろきょろと周りを見回し、大きな音がするたびに、びくりと体を震わせる。

「……お前、ゲーセン来たことないのか」

 ぽつりとつぶやくと、カイトはとたん、顔をシャキッとさせて答える。

「真面目な学生は、こんなところには来ませんよ」

 こんなところ、と吐き捨てるように繰り返す。ふうん、と相槌を打って、俺は二階へ向かう。待ってくださいよ!と、またカイトが服の後ろ裾を掴んできたが、今度は一瞬で離した。なんとなく、弟の小さいころを思い出していた。


「ちっすシドウさん!!!!!!……そちらは?」

 二階に着くなり、昨日の夜も顔を合わせたキョウとその仲間たちに元気に挨拶される。俺を見ても逃げないのはもうこいつらとカズシくらいだな、と思うと、少なからず喋れる相手がいてよかったなと思った。一斉に不良たちから視線を向けられたカイトはというと、今度はしっかりと俺の服のすそを握ったまま、少しも動かない。ちらりと見ると、やや足が震えている。

「ミナヅキの生徒ですね」

 品定めするようなキョウの声に、カイトはさらにうつむいた。…俺はカイトの手を取って、しっかりと握る。あ、とカイトが弱弱しく声を出すのと、キョウが声をあげるのが一緒だった。キョウと、その周辺を見回してから、カイトを見ると、なんとも不安そうな顔をしている。俺は繋いだ手を強調しながら、一言。

「これ、俺の弟。カイト。よろしく」

 カイトが何か言おうと口を開けかけた瞬間、キョウとその仲間たちは勢いよく頭を下げる。

「シ、シドウさんの、弟さんだったんすか!!これは!!失礼をしました!!キョウっす!!駒のように使ってください!!」

 カイトはぽかんとしたまま、俺とキョウたちを見比べていた。俺はカイトを見て、どうだ、と笑ってみる。カイトはとりあえず、開いたままの口を閉じた。


 二階、人が六人は座れそうな喫煙用のソファを二人で広々と占領する。カイトは何度も自分の制服のにおいを確かめている。タバコの匂いを気にしているのだろう。気にしてもつくぞ、と耳元で言うと、そうですか…と、弱弱しく答えた。まあ、カズシに言えば何とかしてくれるから大丈夫だ、と言うと、首を傾げる。

 フロアにはキョウたちと合わせて不良がいち、に、さん、し、五人。俺たちも合わせて七人。俺たち以外の五人は、何故か目の前にみんな正座していた。俺はカイトに写真を借りて、キョウに渡す。

「こいつ、探してる…らしいんだけど」

「……そういえば、シドウさんも探してましたよね、人。あの金髪の…」

 キョウが言うと、カイトが俺をちらりと見る。

「いや、いいんだ。先にこっち。飯もらった恩があって」

「弟さんに恩ですか」

「そう、ああ、弟だから」

 慌てて言い直すと、隣でカイトが少しだけ笑った。…一応笑えるんだな、と思って、何故か少し安心した。

「……で、どう、なんか、心当たり、とか」

 俺はそれとなく写真に話題を戻す。キョウは首を傾げ、周りの不良も首を傾げ、俺を見て、言う。

「何言ってるんですか。シドウさん、昨日から何回か、こいつのこと、聞いてきたじゃないですか、俺らに」

「は」

「え?」

 キョウと俺は、それぞれ反対の方向に首を傾げた。俺はそっと写真を受け取り、よく見る。黒髪の、ミヅキと同じ学校の制服の………よくよく、顔を見る。うーん。………満面の笑顔。よく見て、右に回し、左に回して……。

「……カイト、なあ、お前が探してる……幼馴染、っていうのは」

「…は、はい」

 突然呼ばれ、カイトは慌てて姿勢を正した。いや、姿勢はいいんだ、と訂正すると、更に背筋を伸ばした。それよりも、そんなことよりも、もしかするともしかするのか、と思って、俺は続けた。

「名前は」

 カイトはしばらく黙ったままでいた。俺と、キョウと、その他大勢を見比べて、それからまた俺を見た。少し間をおいて、そうですよね、と切り出す。

「手伝ってほしいと言った割には、情報不足でした。不良に情報を教えるのはあまり気がすすまないんですが」

 その「不良」がやや苛立った空気を感じたが、カイトは気にもしていない様子だ。

「それは俺の幼馴染で、よくいなくなるんですけど、またいなくなってしまって。名前は、ミヅキといいます。ヤハラミヅキです。……もしかすると、髪の毛はまた、いじってるかもしれません。その写真は、中等部の時の写真です」

「……ミヅキ」

「はい、ミヅキ」

 名前を繰り返し、写真を見、俺は昨日の光景を思い出していた。写真には、笑顔の…そうだな、よく見れば、ミヅキかもしれないな、と思った。でも、あいつは…。

 …お前は、いつから、あんな。

 ずぶぬれで、虚ろな瞳で、ぐしゃぐしゃに泣いていたお前は、一体どうして。

「……知ってるんですね、やっぱり、あいつのこと」

 カイトはひょい、と、俺の手から写真を取って、自分のカバンに入れた。

「でも、どうやら手掛かりはないみたいですね。なら、もうこんなところにはいられません」

 カバンを二つ持って、立ち上がる。手を掴もうとすると、その手をはねられる。キョウたちの雰囲気が変わるのがわかったが、俺は目で制した。

「不良はやっぱり不良でした。嘘吐きだし、役に立たない。失礼します」

 俺はソファに座ったまま、その後姿を見送った。

「……あれ、ほんとに、シドウさんの弟なんですか」

 キョウが不満そうに言う。俺は迷ったが、とりあえず頷いた。違うなんて言えば、これからあいつがどんな目に遭うかなんて、想像に難くなかったのだ。とりあえずは、まあ、ゴミ箱に入るか、目に痣を作るかだろうな。

 でも、あいつと…ミヅキと、繋がった。

「…悪い、ありがとな」

 一言礼を言ってから、俺は慌ててカイトを追いかけた。もうゲーセンにはいなかった。足が速い奴だ。でもミヅキを探すよりは、すぐに見つかりそうだと思った。


 路地を二、三本はさんだところで、すぐにカイトの姿を見つけた。……予想通り、何人かに囲まれている。なんとも見た目からカモだもんなぁ、と思った。真面目そうなやつは標的にされやすいのだ。

制服を着崩した、タオルを巻いた、パーカーのフードを目深にかぶった、そんな三人組。カイトは壁際に追い込まれ、カバンのひもを握りしめている。

「ミナヅキの生徒がこんなとこで何してんだよ。金、あるんだろ」

「…不良にやるようなお金はありません。警察を呼びますよ」

「警察がイマドキなんのやくに立つと思ってんだ?あいつら面倒ごとには関わってこねえよ」

「…そ、それでも」

 カイトが言いかけたところに、頭にタオルを巻いた男が、思い切り腹に蹴りを入れたのが見えた。そのままその場に、カイトがうずくまる。

「ミナヅキ生なら万単位は持ってるよな」

 俺は普通に歩いて近づいていく。誰もこちらを見てはいなかった。カイトのカバンを無理やり奪い取るパーカーの男の腕を掴んだ。相手は一瞬驚いたような顔をしたが、俺の格好を見て「お前もやるか、見ろよ、ミナヅキのやつだ」と笑った。そうか、俺は仲間認識をされたのか。カイトは腹を抑えたまま、おびえた顔で俺を見ていた。俺はそのまま、掴んだ腕を思い切り握りしめた。

 バリボリと音がすると同時に、パーカーの男が悲鳴を上げた。そっと手を放すと、そのまま地面を転がりまわる。恐らく骨が折れた音。何するんだ、と殴りかかってきた制服を着崩した男の拳は、キョウよりも遅い。軽々と避けて、その腹に上向きに一発拳を叩きこむ。後ろに吹っ飛んでいく。タオルを頭に巻いた男が後ろから飛びかかってくるのが目の端に映って、そのまま膝を立てて振り向くと、見事に腹に入って、そのままタオル頭も地面に倒れた。

「な、なんだ、なんだよお前」

 腕を抑えながら、半泣きで俺を睨みつけてくるパーカーの男。俺はちらりとカイトを見た。カイトは間抜けに口を開けたまま、俺をじっと見つめていた。またパーカーの男に目を戻してから、言った。

「俺はシドウ。そいつはカイトで、今日から俺の弟ってことだから、よろしく」

 な、と言うと、カイトは小さく頷いた。

 シドウ、と繰り返して、思い当たったらしい。悲鳴をあげながら男たちは逃げていく。誰もいなくなった路地裏、俺はカイトにそっと手を差し出した。

「立てるか」

 カイトはしばらく悩んでから、そっと俺の手を取った。手が震えている。カバンをもって、よろよろと立ち上がるカイトは、うつむきながら、弱弱しく「ありがとうございます…」と言った。俺は頭を掻いて、うん、と相槌を打った。

「カバン、一個、持つ」

 手を差し出すと、カイトはそっと、大きなエナメルのバッグを寄越した。……思ったよりも重かった。

「何が入ってるんだ、これ」

「参考書と部活の道具です」

 あれだけ教科書を持っておきながら、まだ勉強するのか。優秀な学生は大変だ。


「どうしてですか」

 俺たちは元の公園の元のベンチに戻ってきていた。カイトにもらったスポーツドリンクを一口飲み、首を傾げると、カイトもまた首を傾げて、言った。

「俺、けっこう失礼なこと言ったと思うんですけど、助けてくださいましたよね……その……」

 ああ、とうなずくと、カイトはばつが悪そうに目をそらした。この目は知ってる、と思った。弟に怒られるのを怖がっている俺の目にそっくりだ。

「いいよ、別に」

「よくありませんよ」

 うつむいたまま、強い口調で返すカイトに、俺は思わずため息が出た。

「なんていうか、お前、真面目…なやつなんだな」

 うちの高校にもいたな、とぼんやり思った。いつも校門に立って、一生懸命、出来の良くない生徒たちの頭髪を注意して、授業ごとの提出物をきちんと出して、先生には褒められて、生徒には疎まれる。まじめちゃん、ってやつだな、と思った。カイトはそこでようやく俺を見た。俺はぎょっとした。今にも泣きそうな顔をしていたからだ。何か言ってしまっただろうかと考えていたら、カイトは言った。

「真面目なの、悪いですか。俺、よく言われるんですよ。真面目だって。真面目なの、悪いことなんですか。真面目に生きるの、駄目ですか。人の言うこと聞いていれば、この街でも安全に過ごせますよ。ミヅキも、危ないことに首を突っ込まないで、言うこと聞いて、毎日真面目に学校に行っていれば安全なのに。ねえ……駄目、ですか。駄目なんですか」

 途中からぼろぼろと泣き始めたカイトに、俺はもうどうすればいいのかわからなくなった。なんで昨日からこんなんばっかりなんだ。駄目なんですか、駄目なんですか、と言いながらぼろぼろ涙をこぼすカイトに、俺は少し悩んでから、答えた。

「俺は真面目じゃないから、いいか悪いかはわからない」

「そんなの、そんなの、よくわかんないです」

「…そうだな、わからない。わからないから、真面目でいいよ、お前は。俺が真面目じゃないから、お前が真面目なほうが、ほら、なんかたぶん、つり合いとれるだろ」

 何を言ってるんだ、と自分でも思ったが、カイトもぽかんとした顔をしていた。なんとなくおかしくなって笑うと、何がおかしいんですか、とカイトが言う。また真面目な顔をしている。それがまたおかしくて、俺は笑った。

 涙交じりに、ようやくカイトも笑った。

 もう時刻は夕方。空も少しオレンジかかっている。

 この時間なら、もしかするとミヅキは、前に会った場所にいるのでは…と思った。

「俺、そろそろ門限なので、帰らないと」

 カイトは腕時計を確認して、言った。時計を見せてもらうと、時刻は六時半……一日が終わるのが早いなと思ったが、俺が起きたのが遅かったせいかもしれない。明日はもっと早く起きられたらいいな、と思った。

「飯と飲み物、ありがとう。あ、金、あったんだった」

 ポケットに突っ込んでいたカズシからもらった金を思い出して取り出そうとしたのを、カイトは制した。いいです、と笑顔で言う。

「兄からお金取ったりしませんよ……明日、また会えますか」

 ニコ、と笑ったカイトに俺は頷いた。

「そしたら、また昼頃に、ここで待ち合わせできませんか。ミヅキの話、知ってることだけでいいので、聞かせてください。……シドウさんも、ミヅキのこと、探してるみたいですし」

 最後に少し付け加えて、カイトは首を傾げたが、それ以上を聞こうとはしてこなかった。ありがとうございました、と言って、照れたように笑って、去っていく後姿を見送る。

 カイトの姿が見えなくなってから、俺は立ち上がった。

 前、ちょっと前に、あの銀髪の男たちに車に乗せられて、降りたらミヅキに会えた日、あの日と同じ場所へ行こう。……きっと会える、そう思っていた。

 会って、話をしなければならない。

 何の話を?

 それは…会ってから決めればいい、たぶん。


「鬼電ありがとーございました」

 ミヅキはあまりにもいつも通りだった。仕事帰りの人でこみ合う通りに、一人でぽつんと立っていた。昨日と変わらぬ制服姿だ。俺を見つけると、駆け寄ってきて、呆れた顔でそう言った。だが、昨日の感じは一切ない。思わずおでこに手をやったが、熱はなかった。

 あっさり会えてしまい、俺はとりあえず何を言えばいいのかわからず、悩んで、結局「今日はいい天気だったな」と言った。ミヅキはため息をついてから、そうですね、と答える。その表情は、別に嫌な感じはしなかった。

「今日はお腹空かせてないんですか。おごってあげようかと思ったんですけど」

「腹減ってるし、今日は俺も奢れる」

 ポケットを触りながら答えた。違う、そんなんじゃなくて、もっと話さなきゃいけないことがあるだろ。

「いいですよ、そのお金は大事にしといてください。今日は何が食べたいですか」

「肉」

 またですか、と笑うミヅキの顔は、あの写真とは全く違うし、昨夜ともまったく違う。

「ほら、手、どうぞ。行きましょう」

 差し出された手を、掴む。ミヅキの後ろについて歩く。人混みを、ミヅキはそこに人がいないかのようにすいすいと歩いていく。俺はそれにただついていく。

「……なあ、ミヅキ」

 店の前に止まって、入りましょうと促すミヅキを呼び止めた。

 はい、なんでしょう。笑顔で答える。

「…昨日」

 言いかけた俺に、ミヅキはにっこりとほほ笑んで、言った。

「忘れてください。ぜーんぶ」

 お肉奢ってあげますから、と笑顔で言うミヅキ。

 笑顔だった。不自然なほどに。

「おいしいですよ、さあ」

 昨日。

 昨日、お前は。

 あのあと。

 あのとき。

 お前は。

 言葉がまとまらないまま、手を引かれるまま、俺は店内に足を踏み入れていた。

 やや混みあっている夕飯時の焼肉屋。うまそうな匂いで、思考が侵されていく。まとまらない言葉が、散り散りになっていく。

「さあ、何でもいいですよ。お金ならあるんです。たっぷりと」

 ミヅキは俺の向かいに座って、笑顔でメニューを差し出した。

 昨日。

 言おうとした言葉がなんだかどうでもよくなって、俺はそのままメニューを見ていた。

 ミヅキはずっと笑顔だった。

 ずっと笑顔だった。

 笑顔だった。


 笑っていない。

 笑っていないのに、笑顔だった。

 昨日。

 昨日、お前は、あれから、どうして、どうなって。

 昨日。

「………大丈夫、なのか」

 長い長い時間が経って、カズシの家の近くまで来、ここでお別れですね、と呟いたミヅキに、ようやく言った。

 ミヅキはしばらく固まっていたが、すぐに表情を取り戻した。

 そして。

「ちょっと、シドウさん、背高いんですよね。ほら、もうちょっと、かがんでくださいよ」

「は?」

 いいから、と、腕を引っ張られるまま、すこし姿勢を低くしたところで、首に腕を回される。

 唇に触れた柔らかな感触が、離れるまで、俺は動けないままでいた。顔を離して、ミヅキはあはは、と笑った。笑って、言う。

「忘れてください、全部。あたしのことも、全部」

 それじゃ、と、さっさとミヅキは歩いて行ってしまう。俺は呆然としたままその後姿を見送り、その姿が見えなくなってようやく、自分の唇を指でなぞった。

 いてくれますか、ほんとに。

 忘れてください、全部。

 それなら一体、どうすりゃいいんだ。

「……勉強、しときゃよかったな」

 頭のいいやつなら、どうすればいいのか、わかるんだろうか。


【れんごうかいのいち おわり】

【れんごうかいのに に つづく】

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