れんごうかいのぜろのに
「あんたのせいで昨日のバイトいけなかったじゃん」
どうしてくれんのよ、と言われても、まだ覚醒していない頭では何も考えられず、とりあえず反射的にごめんとつぶやいた。目をこすってよくよく見ると、例の少女。……なぜか下着姿だった。上はその上からキャミソールを着ている。体つきに対し、黒を基調とした、細かなフリルのついた下着。デザインが少し背伸びをしているな、といたって冷静に分析した。……目をそらす。
またあの「男の部屋」なのかと思い天井を見上げたが、女優のポスターは貼っていない。部屋は綺麗に片付いていた。俺はその部屋のソファに、毛布をかぶって横になっていた。……なぜか俺も半裸だった。
「……悪い」
「別にあんたとは一切何もしてないから」
とりあえず謝ったが、事は何もなかったようで安心した。まあ何しろこの少女みたいな胸のない……まあ、その、なんだ、あまり俺の好みではないし、意識が混濁していても襲ったりはしない自信はある。少女はそばにあった箪笥から雑に服を取り出すと、そのまま俺に投げた。黒いTシャツと、穴の空きまくったデザインのジーパン。
「それ、着ていいよ」
「……これは」
「この部屋の男の服だけど、あたしのみたいなとこあるから遠慮しなくていいよ」
さっそく頭が痛くなってきたが、制服が近くに見当たらなかったのでとりあえず、着た。
「キノシタシドウ、あんたレイコーの番長だったんだ」
ジンジャーエールが逆流しそうになって、慌てて呼吸を落ち着ける。ようやく口に含んだ液体を飲み干してから、少女を見ると、俺の向かいでスマホをいじりながら、次々と俺の情報を口にする。今日は制服ではなく、少女ははやりの、生地のよさそうなフリフリの服にショートパンツ、かかとの高いサンダルを履いていた。
「19歳、高校三年生……留年?」
「……俺、話したか?」
「気になったから、調べてもらったの」
「誰に」
「あー、男、かな」
また男か、とため息をついた。頭が痛くなってくる。
昼間だというのに比較的人の少ないファーストフード店だった。基本はハンバーガー。俺たちももちろんハンバーガーとポテト、ジュースのセットを頼んだ。二階の窓際の二人用の席に向かい合わせで座って食べている。窓の外を見たが、仕事と思われる人たちが忙しなく通っていた。
「…じゃあ、その情報くれた男ってのが、今日、泊めてくれた」
「違う、その男はまた別」
「……そうか。その、なんだ、男……っていうのは」
「宿代わりにしたのは肉体関係」
「あー……だよな」
俺は少し気まずくなったが、少女は何とも思っていないようだった。気を取り直して、続ける。
「……その、まあ、なんだ、何はともあれ?昨日も運んでもらったんだろ」
「そう」
「お前の男に?」
「あたしのってわけじゃないけど、まあ、そうよ」
「……ありがとな」
「伝えとくわ」
答える間も、少女はスマホから目をそらさなかった。一体そこに、どれだけの俺の情報が書いてあるんだろう。だが、何かを知られているのに対して怒ったり恥ずかしくなったりという感情は湧いてこなかった。なんともいえず、どうでもいい感じがした。実際に見たわけでもなく、現実味がないというほうが正しいかもしれない。
少女が占い師で、俺の心を読んでると言われたほうが信じられる。情報がやりとりされてるってより、不思議な力、ってほうが素敵だ。
「ところで、あんたの……あー。シドウさん、あなたのおかげで街、大変なことになってるんですよ」
だるそうにいやそうに、無理やり喋り方を修正した少女に、首を傾げて答えた。少女はようやくスマホを机に置き、背もたれにもたれかかり、ない胸の前で腕を組んでから、俺を見た。
「マミヤキョウを倒したレイコ―の番長って、街中で噂になってます」
にっこり笑って言う少女。俺はとりあえず、落ち着いてジンジャーエールを飲み干した。
「…なんで敬語なんだ」
とりあえず聞いてみると、少女は心底面倒という顔をした。
「そりゃ、この街の不良のトップになったってことですからね。まあとーぜんです」
「……じゃあ、噂になったってのは」
「情報屋がいるんですよ。んでそこから情報を買った馬鹿が、レイコ―のキノシタシドウってやつがマミヤキョウを倒した、って情報をばらまいたんです……ほんっと、馬鹿です」
「……何の目的で?」
「そりゃ、一つしかないでしょ」
少女は当たり前だという顔で続けた。
「今がこの街をひっくり返すひとつのチャンスだから……よくも悪くも」
俺は冷えたポテトを一つずつ口に入れた。なんというか、この話、俺にはちょっと難しい。
「ところで、なんでレイコーのあなたが西地区にいるんですか。レイコーは北地区でしょ?」
二人で街をふらふらしていると、少女は言った。そうか、ここは西なんだな、と返すと、少女は首をひねる。
「別に来ようと思って来たわけじゃない。ただ、俺を知ってるやつがいないところへ行きたかった」
「…なんで?」
「出て行けって言われたんだ。弟に」
「……家を?」
「そうかもしれないし、そうじゃなかったのかも。でもわからないから、とりあえず北地区から出た」
寂しさや悲しさと言った感情は何も起こらなかった。弟の顔も、なんだかぼんやりとしか思い出せなくなっている。…むしろそれが少しだけ寂しい。
少女はしばらく何も答えなかった。が、突然足を止めて、俺を見上げた。
「じゃあ、一人なんだ」
「……まあ、そうだな」
「ふーん、そっか」
ひとりなんだ、と少女はもう一度繰り返した。もう俺のほうを見てはいなかった。
その日の俺はそのまま、少女の後ろをついて歩いた。少女は何をするでもなく、ただあちこちを歩いていた。俺も、特に何をしたわけじゃない。わかったことといえば、この街も意外とフツーの街だってことだ。表通りは。
今日も青空の下で、誰かの怒鳴り声が響いている。
「それじゃ、このへんで」
片手をあげて去ろうとする少女の腕を、反射的につかんだ。あたりはだいぶ暗くなっていた。仕事終わりであろう人々の流れができている。
「どこ行くんだ?」
「おしごと」
吐き捨てるように答えて、少女は俺の手を振り払おうとするが、うまくいかないので俺を睨みつけた。…弱いな、と思った。
「それじゃあ、どうやって合流すればいいんだ」
「合流?必要ないでしょ?」
「え?」
俺はぽかんとして、手の力を緩めた。その隙を見逃さず、少女は勢いよく俺の手を払った。当たり前のような顔で言う。
「あたしたちもともと、一緒に行動するギリないですもん」
じゃ、と言い残し人の波にさらわれていく少女を見送りながら、それもそうだなとうなずいた。だがなんとなく、どこか釈然としない思いが残っていた。
しばらく突っ立ったままだったが、ふと思い出した。俺はいま、朝いた家の男の服を借りているのであり、きっとそこに俺の制服もあるはずで。返さなきゃいけないし、返してもらわないといけない。
少女とも別れ、行くあてのなくなった今、とりあえず次の目的地はそこだと決めて、なんとか道を思い出しながら歩いて行った。
そんなに時間もかからずに、もとの場所へ着いた。四階か五階建てのマンション。入ろうとして、オートロック式だったことを思い出す。部屋番号は覚えていたが、俺は結局その「男」には会ってないわけで……押していいものか、悩む。ひとしきり悩んで、俺はついに部屋番号のインターホンを押した。
『はい』
相手がインターホンに出て、これほど「どうしよう」と思ったことはなかった。生まれて初めてインターホンで悩んだ。相手が二回目の『はい』を言ったあと、もうどうにでもなれと思って名乗ってみた。
「キノシタシドウです」
緊張した。相手は一瞬黙ってから
『あー!入って入って』
と、すぐにドアを開けてくれた。俺はしばらくぽかんとしていたが、扉が閉まりそうになったので、慌てて駆け込んだ。
二度目の驚きは、扉を開けた時だった。改めて玄関先のインターホンを押すと、今度は応対することなく扉が開いた。そこで出てきたのは、なんと昨日のあの薄緑色の髪の青年だった。ゲーセンでやられたとき、介抱してくれた青年だ……動機はともかく、恩人。青年は俺をみるなりにっと笑って、扉を全開にして、手招きした。
「さー入れよ」
「…お、お邪魔します?」
「硬くなんなくていいって。昨日も泊まっただろ、もうお前の家レベルでくつろいでくれ」
歓迎されるまま……というか、強引に中に導かれるまま、靴も脱ぎ散らかして中へ入った。朝見たまま、本人のイメージに似合わぬ整然とした部屋だった。
「制服、洗っといてやったぜ。ってか破れてたぞ。ほら」
埃やら砂やらでドロドロだった俺の制服は綺麗になり、ほら、と見せられたところは、制服と同じ深い緑色の糸で縫われた跡があった。どうやら修理してくれたらしかった。礼を言って受け取る。
「服も家も、その、サンキュな、何回も……」
「気にすんなよ、礼ならもうもらってっから」
「……また金か?」
気になって問いかけると、緑色の髪の青年は「んにゃ」と答えながら、奥へ行った。台所だ。そういえばいい匂いがする。俺の腹も鳴った。何やら作業をしながら、相手は答えた。
「お前の世話するってことで、一晩もらった」
「…一晩」
「昨日ヤった」
「……あー、あ、そ、そうか」
なんと返せばよいのかわからなくなり言葉を探していると、「さーできたぜ!」と声があがった。小さなテーブルを出し、その上に二人分の食事を並べてくれた。何ともおしゃれなスープ料理に、添えられた赤ワイン。
「腹減っただろ?食おうぜ」
青年に促されるまま、俺も食卓に着いた。一緒に手を合わせる。そういえば腹が減っていたんだ。思い出したように、腹の音が響いた。
「俺はカズシ」
食べ始めてほどなくして、相手は名乗った。名乗られたら名乗らなければと思って急いで口の中のものを飲み込もうとしていると、「あーいいよお前は知ってっからーシドウだろ」と言われ、おとなしく落ち着いてものを噛んだ。トマトベースの味で煮込まれた肉は柔らかく、とてもおいしい。飯が進む。一杯平らげてしまいどうしようと思っていたら、二杯目をついでくれた。いいやつだな、と思った。
「まずはマミヤキョウ倒し、お疲れ様ってとこだな。祝杯だ」
そう言って赤ワインを勧めるカズシ。
「…俺、19だけど」
「知ってる。飲めねーの?」
「飲めるけど」
「じゃあ問題ないな。乾杯」
飲酒は法律で20歳からだと弟に厳しく言われていたのをなんとかして頭から追い出し、一口含む。濃いな、と思った。特に酔いは感じない。
「強いじゃん」
「そうか」
「そうだ」
「そうか…」
あはは、と笑いだすカズシのほうは、もう酔っている気がした。気が付けばカズシのグラスは空だ。……面倒な酒飲みじゃないだろうな、とため息をつく。それにしてもこの部屋は綺麗で、料理はうまくて、カズシは悪いやつには思えない。
「……その、なあ、カズシ、教えてほしいんだけど」
「ん?」
「……まず、あの子は一体何者なんだ」
金髪の少女を思い浮かべながら俺は言った。短時間でこれだけ会っている、ましてやその、寝ているカズシなら、昨日は知らないと言ったが、やっぱり何か知っていると思った。カズシはしばらく知っていそうな顔をしていたが、やがて真顔になって、言った。
「誰なんだろうな」
俺は思わずワインを吹き出すところだった。弟に怒られる、と思って、必死に口を閉じた。しっかりと飲み込んだ。食べ物を粗末にするなど、弟に本当に死ぬほど怒られるところだった。
「誰なんだろうな、って、お前二回も」
「たまたまなんだよ、二回とも」
「たまたま」
「ゲーセン近く通りかかったら、お前がボロボロになってっから目が覚めるまでなんとかしてくれって金くれただろ?んで、そのあと、裏路地でお前が急に倒れたってのも、偶然俺が通りがかって、その俺に頼んだんだ。俺とあの子とはそれだけ」
「それだけ……じゃあ、名前は」
カズシはスープを飲んでからはっきりと言った。
「そいや知らねーな」
ここでようやく、俺はあの子のことを何も知らないのだと思った。とたん、何故だか少し、怖くなった。それがなぜなのかは、わからない。わからないことがまた、不気味だった。
「まあ、慌てなくてもすぐ会えるだろ。なんせ、あの子、お前にこれだけしてくれてるわけだしな」
結構テクもいいんだぜ、まだヤってないんだろ、オススメ、とカズシが続けた言葉の意味は考えないことにした。
結局その日も、俺はまたカズシの家に泊まった。事情を説明し、払えるものは何もないこと……ついでにいうと、その、男性のシュミはない、ということを説明した。あの子と同じことはできないと。カズシは大笑いしながら首を横に振った。
「んなもんいらねーよ」
「でも、礼が」
「もう俺とシドウはダチだろ。遠慮なく泊まってけよ」
ダチ、という割にはいろいろもらってるくせに…とは思ったが、ダチという響きに、何故だか胸のあたりが温かくなるのを感じていた。
翌日目が覚めると、カズシはいなかった。部屋は綺麗に片付いている。置手紙はない。鍵を置いているわけでもない。
俺は制服に着替えると、カズシに借りていた服を綺麗にたたんで、机の上に置いた。紙とペンを探して、一晩ありがとう、と書いて、机の上に置いた。そのまま部屋を出て、マンションを出た。まだ今日は朝だな、と、空を見て思った。雲が穏やかに流れていく、綺麗な空。
歩き出した。あてはない。何をするわけでもない。ただぼんやりと。
俺は、自分が無意識に、あの金髪の少女を探していることに気が付いた。会いたい、というのとは少し違う。俺はもう一度、あの子に会わなければならない。そんな気分。
会ってどうするかは、会ってから決めりゃいいよな。
大通りから一本裏道に入ると、また不良グループに遭遇した。面倒ごとか、と思ったが、俺の顔を見るなり全員逃げていく。……学校でもよくあったことだけど、まあ、なんだ、傷つく。ため息をついたとき、一人だけまだその場に残っていることに気が付いた。というか、倒れていた。ボロボロの少女だった。……あの子ではなかったが。
「大丈夫か」
駆け寄って体を起こすと、少女はゆっくりと目を開けた。ふわふわとした黒髪に、綺麗な顔。殴られ蹴られた痕がなければ、まるで西洋の人形のようだ。体は小さかったが、顔つきから、年は俺とあまり変わらないくらいだと思った。
「……た、助けてくれましたの、あなた」
小さな声でとぎれとぎれに話す女に、俺はそうだとも違うとも言えない微妙な気持ちになって、とりあえず笑ってみた。困ったら笑顔、社交会に行くときはいつも弟にそういわれていた。馬鹿だからあまり喋るなって意味だったが。
「…ありがとうございます」
女も笑った。俺から離れ、その場に立った。凛とした立ち姿。
「助けていただいたこと、感謝いたします。……お名前を聞いてもよろしいかしら?」
気品のある笑顔で尋ねる女に、俺は答えようとして……少し迷って、一言だけ。
「シドウ」
「名字のほうは」
「悪いけど、秘密」
「そう……わけアリなんですのね。承知いたしました。私はアサギリセイラ。近くにお住まいの方ですの?」
「あーいや、その」
「ふふ、話しにくいなら結構ですわ」
セイラは口を手で隠しながら笑った。話し方や仕草から、上品さがにじみ出ている。服も、まあ残念なことに土だらけにはなっているが、装飾の少ない、しかし確実に上品な布のワンピースだ。あちこち傷だらけなのに、それを気にさせない振る舞いも、ただものではない感じがした。
「……なあ、お前、どうして襲われてたんだ」
気になったので聞いてみた。セイラはふふ、と笑っただけだった。そして。
「あら、いけませんわ。そろそろわたくし、行かなくてはなりません」
セイラは自分のスマートフォンで時間を確認、そのまま顔を上げて俺に言う。
「シドウ様、わたくし貴方にお礼をしませんと。ですが今は時間がなくて。後日きちんと伺いたいの、連絡先をお聞きしてもよろしいかしら?」
「あー、悪いな」
俺は頭を掻いた。
「……そう、えっと、それも事情がおありで?」
困ったような顔をするセイラに、いや、と否定して、俺は制服のポケットの中身を出した。何もない、裏地だけが出てくる。
「悪いけど、俺、いま宿なしケータイなしなんだ」
セイラはしばらくぽかんと口を開けていた。やがて、くすくすと楽しそうに笑い出した。
友人と待ち合わせをしていると言っていたが、なんとも不安で、俺はその待ち合わせ場所までセイラを見送ることにした。どうせ何も急ぐ用事はなかったしな。
「それにしても、シドウ様、この街ではずいぶんな有名人のようですわね」
「ああ?ああ………そうかも」
普通に街を歩いているだけなのに、周りからひそひそと「シドウだ」「あいつかシドウって」などと聞こえてくる上、道はひとりでに空いていく。……もうなんか、まあ、もう、なんでもいい。
隣を歩くセイラを見ると、楽しそうに笑っている。
「…なにかおかしいか?」
「いえ、なんというか、シドウ様、思っていたのと全然違うなぁ、と」
「…そうか?」
セイラは一体俺をどんな風に思っていたんだろうか。会ってからまだ、わずかな時間のはずなのに。
信号待ちで一緒に横断歩道の前に並んだ。交通量はそれほど多くない。立ち方も気品にあふれているな、とセイラを眺めながら思った。
「……あの、シドウ様」
「…ん」
セイラの声を聴きながら、俺はなんとなく道路の遠方を眺めていた。…えらくスピードを出した車だ。もう信号は変わるというのに、止まる気配が見られない。
…嫌な予感がした。胸がざわつく。じわりと背中に嫌な汗を感じた。
「実はわたくしは――」
…起きろ!
弟の声が頭の中で響いた。俺はセイラの腕を掴んで走り出す。目に飛び込む映像が、何故だかすべてゆっくりとして見えた。
近づいてくるアクセルの音。倒れこむ勢いで細い路地に飛び込む。後ろのほう、路地の入口で、何かがぐしゃぐしゃになった音がした。振り返ると、飛び散ったガラス片がたくさん落ちているのが見えた。運転手は助からなかっただろうなと思った。
「あの、シドウ様」
耳を澄ました。今度は別のエンジン音がした。ヤバいと思った。俺は基本的にバイク通学だった。バイク乗りがバイクの音を間違うはずがない。セイラを抱えて、走り出す。
「セイラ!お前、道詳しいか」
「え!?あ、あの、まあ、裏道でしたらほどほどに」
「案内は任せた!」
近づいてくるエンジン音。何度も道を曲がり、細い道に入り、そしてまた曲がった。普通のやつよりは足が速い自信はあるが、それでも俺の足じゃ車両には適わない。少し疲れてくる。振り返る。裏路地の細い細い交差点。勢いを落とさない二台のバイクは、どうやら俺ではなく、セイラを見ているようだった。
「危ないです、シドウ様!」
悲鳴のような声をあげるセイラ。俺はセイラを乱暴に地面におろして、立たせた。ぽかんとするセイラに、俺は奥を指さした。
「お前は先に行け!」
必死だった。セイラは少し迷っていたようだが、すぐにうなずいて、走って逃げていく。俺は覚悟を決めて、来るバイクに向き直る。二台。どうやって止めるかなんてノープランだった。とりあえず殴れば止まるだろ!俺はそのまま自分から突っ込んでいこうとした、そのとき。
「下がれ!」
どこからか聞こえた声に、思わず交差点の前に下がった。嫌な予感はした。
目の前で二台のバイクが、黒いボックス車にはねられ、飛んで行くのが見えた。…人間ってのは、俺が思っているよりもずっと軽いものらしい。
ボックス車は勢いよく二台のバイクをはねたあと、そのままバックして俺の前に戻ってきた。道幅ギリギリの四角い車。後部座席のドアが開いた。俺はただぽかんとしたまま、その場に立ち尽くしていた。開くなり、中から話しかけられた。
「こんにちは、キノシタシドウくん」
また俺の名前を知っているやつだった。第一印象は狐。銀髪のスーツの男が、ニコニコしながら俺に手招きしていたのだった。俺は迷っていたが、その有無を言わせぬ雰囲気に、恐る恐る車に乗り込んだ。
タバコ臭いし煙たいと思った。俺は男の隣の座席に腰をおろす。扉は自動的に閉まり、そのまま発進した。静かで滑らかな運転。
窓の外を見た。はねられたバイクが落ちている。壊れたバイクはそのままだったが、運転手はもう、どこにもいなかった。
「俺、君とお話がしてみたかったんだ」
男は変わらず笑顔で言った。車は静かに、裏通りから表通りに出、俺の知らない街を走っていく。車内を見回してみると、運転席に一人、助手席に一人、俺の横に一人、後ろのシートにも二人。隣の男を除いて、全員、顔の半分ほどもある、黒いマスクをつけていた。……タバコのにおいに混ざって、何かよくない匂いもした。生臭いような、鉄臭いような……まさか、な。俺は一瞬頭をよぎった考えを捨てた。
「ねえ、アサギリセイラとはどういう関係なの?」
銀髪の男が、俺の顔を覗き込みながら言った。俺よりわりと年上だな、と思った。30は近そうだが、まったく綺麗なやつだ。……そして、嫌な目をしているな、と思った。何がどうとは具体的に言えないものの、とにかく嫌な目をしていた。
「どうもこうも、さっき会ったばっかだ」
「…へぇ、さっき出会ったばっかりの子を命がけで守ろうとしたんだ」
少しだけ相手の表情が変わった。少し、気分が悪くなる。見つめられているだけなのに、恐ろしいと感じる。なんとなく、焦る。
「……知らないやつでも、危なけりゃ守るだろ。当たり前のことだ」
息がつまりそうになって、男から目をそらす。まるで車内のすべてから一挙一動を監視されているように感じた。嫌な感じだ。声がうまく出ない。
怖い、と思った。飲まれる、とも。
「…失礼、もう少しで目的地に到着します」
運転手の男が声を出して、張り詰めていた空気が和らいだ。俺は少しだけほっとした。窓の外を見る。人通りも多く、交通量も多い。知らない場所だった。銀髪の男は「リミットか、残念だねえ」と笑いながら、シートにもたれかかった。もう俺のほうを見ようとはしなかった。そのまま、車は緩やかに歩道に寄り、停車した。
「ほら、降りて降りて。俺たちもう、次に行かなきゃいけないから」
俺のほうを見ようとしないまま、銀髪の男が言った。すぐに俺の隣の扉が開いた。促されるまま、俺は降りた。
「…ありがとう、助かった」
一応礼を言って、そのまま行こうとすると、「あー、ちょっとまって」と、もう一度声がした。振り返ると、笑顔のままで、銀髪の男が言った。
「キノシタシドウくん、アサギリセイラには、深くかかわらないことをお勧めするよ。それと、タカハシリョウガって人にも、ね。オニーサンとの約束」
忘れないで、と付け加えて、車のドアはまたすぐに閉まった。そのまま信号を無視して、黒いボックスは去っていく。
あまりにも現実離れした出来事に、今のはきっと夢だったんだ、と結論付けた。…どこかで寝直したい気分だ。
疲れていた。俺の頭はひたすら睡眠を訴えていた。…本当に眠たい。寝床を探しに行こうかと、一歩踏み出そうとした時だった。足元に、俺に対する向きの小さな黒い靴が見えた。そのまま視線を上げると、金髪の制服姿の少女が、腕を組んで立っていた。
「今日、どこ行ってたのよ」
不機嫌そうに…というより、少し心配そうな顔で俺を見上げて言う。俺は少し悩んでから、答えた。
「お前を探してた……はずだけど、なんか車から逃げて、助けられた」
少女は首を傾げて、それから大きくため息をついた。そして、俺の右手をとって、歩き出した。
「バイトまでなら付き合ってあげる。……ごはん食べてないでしょ」
「あー、そうだな、腹減った」
結局何も食べていないことを思い出した。思い出したとたんに体の力が抜け、空腹感が広がっていく。突然鳴り始めた俺の腹の音に、少女は小さく笑った。
「しょうがない、おごってあげますよ。……何がいい?シドウさん」
「……肉」
「はーい、じゃあこっちでーす」
歩き始める少女。俺は改めて、しっかりと少女の手を握り直した。……少し眠気が晴れて、気持ちが穏やかになるのを感じた。
夕日に照らされてきらめく金色の髪を見つめながら、俺はゆっくり歩いていく。
「それじゃああたし、バイトなんで。シドウさんはちゃんとあのキャベツみたいな頭の男のとこに帰ってくださいよ。ちゃんと払ってるんですからね、あたしが」
腹いっぱいのステーキをおごってもらった後、すっかり暗くなった路地で、少女は俺にそう言った。カズシに何を払ったのかはもう聞かないことにした。代わりに、バイト、と俺は口の形を繰り返してまねた。
「…何のバイト、してるんだ」
俺の質問に、少女はあははと笑っただけで、答えようとはしなかった。「…なら」と、俺は質問を変えた。
「名前だけでも教えてくれ。…会いたいときに、人に居場所も尋ねられない」
少女は突然動きを止め、驚いた顔をした。ただ驚いていたようだった。しばらくの間、くるくるといろんな表情を繰り返し、やがて首をかしげながら、俺を見て言った。
「シドウさん、あたしに会いたかったんですか、今日」
「……ああ」
会いたかった、というよりは、会わなければならない気がした、というほうが正しいような気がしたが、それは言わなかった。少女はしばらくぼんやりと宙を見つめていた。焦点の合わない目。そのうつろな目のままで、俺を見上げる。そして、迷うようになんどか口をぱくぱくさせてから、ようやく言った。
「………………ミヅキです、あたし、ミヅキ。名前。一回しか言いませんからね。覚えてください」
「……ミヅキ」
繰り返す。似合ってるな、と思った。それから、ミヅキは小さな声で言った。
「……手を出して」
俺はミヅキに促されるまま、右手を出した。ミヅキはポケットからペンを出し、キャップを口にくわえたまま、俺の右手の甲に、数字を書き始めた。書き終えると、彼女はそのままペンを戻し、書いた数字を右のひとさし指でなぞった。……くすぐったい。
「心配しなくても油性だから消えませんよ。これ、あたしのケー番です。みんなにはほんとのやつ教えないけど、これはほんとのほんとのやつ。シドウさんだけ特別ですよ。…それじゃ、その、気を付けて帰ってください」
あなた、狙われてるんで。と付け加えて、ミヅキは去っていく。俺はたったいま、ミヅキが書いてくれた数字を見直した。同じように、指でなぞってみる。もう残っていないはずの体温を感じた。
帰ろうと思って、一歩踏み出した。帰る……といっても、カズシの家に行くつもりだったわけだが、それがいつの間にか「帰る」場所になっているのが不思議で、それで、少しだけ嬉しかった。
帰り道の途中、道端で、何かの演説をしているのを見た。木に手書きしたような簡素な札には「自治警察」と書かれている。マイクをもって話をしているのは、体の大きな、目つきのきつい男性だった。身長は俺よりも高い。とにかく、でかい、という印象を受けた。
「ですから、我々自治警察がこの街を守ります。憎き高橋組を、この街から追い出すのです!」
数は少ないが、演説を熱心に聞いていた人々から歓声があがった。……高橋、という名前になにか引っ掛かりを覚えたが、うまく思い出せなかった。どこで聞いた名前だっただろう。
マイクを持つ男の傍らに、小さな少女の背中が見えた。ふわふわとした黒髪の少女で、俺は昼間会ったセイラを思い出した。……果たしてセイラは無事に逃げられただろうか。もやもやとした気分が残る。
演説が少女に代わった。はきはきとした女性の声。ここからじゃ、顔はよく見えない。「この街にはもっと手が必要です。どうかご協力を!」背中でその声を受けながら、どこかで聞いた声だなと思った。
【れんごうかいのぜろのに おわり】
【れんごうかいのぜろのさん に つづく】
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