4.あんた、年いくつ 

『ダイチはお父さんに似て立派だね』


 忘れたつもりだった。もうとっくに癒えたと思っていた。


 寒空に飛び出したハヤトの姿は、ユズの心に刺さった棘の先が未だに残っていることを痛感させた。


『お前はいったい、誰に似たんだろうね』


 兄は、父に似て優秀だったから両親に大切にされていた。しかし、ユズは何をしても中途半端で呆れられた。

 幼い時分から繰り返された落胆は、積み重なって柔らかい心に深く突き刺さっていった。


 せめて、容姿を父か母に似せたら、もう少し褒められただろうか。

 ユズはどちらかというと、母方の叔母に似ていた。母と叔母は仲が悪く、疎遠だった。


 一度、母のような真っ直ぐな栗毛にしようと、うんと強く髪を引っ張ったことがあった。小さな手につかめるだけの髪を掴み、力いっぱい引く。痛くて涙が出るのも我慢して力を込めた途端、嫌な音がして手が軽くなった。開いた掌に絡みつくうねった髪の気持ち悪さに泣き叫び、駆けつけた母に酷く叱られた。


『どうしてこんな馬鹿なことを』


 答えられなかった。どう言っていいか分からず泣きじゃくる間に、母は諦めてユズから離れていった。



 あてがわれた部屋に戻ったユズは、畳んだ寝具に膝を抱えて座った。しんとした寒気が、床板の隙間から這い登ってくる。


 身体を捻って毛布の端を掴み、引き寄せた。やたら重く感じて力を込めると、毛布と一緒に引きずられてくる塊があった。


「ひ」


 びくりと手を離すと、不安定な寝具の上で塊はコロリと床へ落ち、もぞもぞ動き始めた。


「あれ? ねぇちゃん」


 眠っていたのか。暗がりで目を擦っているのは、ハヤトだった。眼鏡をかけ直すと、ユズの隣へちょこんと座ってきた。


「どっから湧いて出たの」


 動悸が収まりきらないユズに、ハヤトは天井の一角を指差した。

 そこだけ板が僅かにずれている。天井板を容易に外せるようだ。足台になるものがないので逃亡に使えそうにないが、少年は今朝もそこから鍵の掛かった部屋へ入り込んだのだろう。


「マサキが探してたよ」


 言うと、ハヤトはコクリと頷いた。


「別に彼は、あんたが誰に似ていようと大事にしてると思うけど」


 遠慮がちに言ってみると、ハヤトはしばらく考える風に床を見つめ、ぎこちなく首を傾げた。

 薄い唇に力が籠り、きつく引き結ばれる。色付きレンズに半ば隠された瞳が揺れた。

 ぐすんと洟をすする少年の横顔が、幼い日の自分を映しているようで無性に愛しくなった。


 それでも、まだ彼は恵まれている。


 ユズは、少年を羨んでいる自分に驚きながらも、認めざるを得なかった。

 ユズが親に隠れて泣いているとき、慰めてくれたのはダイチやフウカだった。

 ありがたくもあったが、哀れみに満ちた同情の瞳で見下ろされると、なんだか申し訳なさが募り、次からは彼らの目をも盗める泣き場所を探さなければならなかった。

 そうしたことを繰り返すうちに、ユズは次第に諦めていった。


 ハヤトは素直に苛立ちをぶつける事ができている。それを汲んでくれる大人が近くにいる。

 これだけ恵まれている事実に、彼は気付いていない。


 固い髪を撫でようと、そっと手を近づけた。マサキとそっくりな、濃い茶色の髪がツンツンしている。


 下ろした手は、何にも触れなかった。稲妻のように素早く移動した少年は、何食わぬ顔でユズの手の届かない位置に胡坐をかいていた。

 その素早さと警戒心に呆れ、ユズは口を尖らせた。


「なでなでしてあげようとしただけなのに」

「人に頭触られるの、嫌いだから」

「朝は大人しく撫でられてたじゃない」

「マサだから」


 ムキになる幼い顔を見て笑っていたが、ふと、立てた人差し指を顎に当てて考えた。


「お母さんの顔、覚えてるんだ」

「たりめぇだろ」

「六年前、だったんだよね」


 辛い想いをしているところ申し訳ないが確認する。ハヤトは何かを喉に詰まらせたような顔で頷いた。

 まじまじとハヤトを見つめ、ユズは唸った。


「あんた、年いくつ」

「……じゅう」

「うっそ」


 両手で口を押さえるユズに、ハヤトは明らかに怒りを浮かべた。


「チビで悪かったな」

「ごめん。でも、みえない」

「年寄りには子供の年齢が分かんないんだよ」


 ベーッと憎らしく舌を出すハヤトに、今度はユズがかちんときた。まだ二十になったばかりの女性を年寄り呼ばわりするなど、断じて許せない。


「年寄りってなによ」


 掴み掛かった手の先で、ふっと少年は姿を消す。真横から脇腹を突かれ、ユズはのけぞった。


「このぉっ」


 腕を振り下ろした時にはすでに、彼は身軽に飛びのいた先で口端を横に引き歯を見せている。


 一瞬、ハヤトの目が動いた。

 扉が開く。息を荒くしたマサキがふたりの様子を認め、眉間に皺を刻んだ。


「どうした」

「このねぇちゃんが、俺のことチビだって言ったぁ」


 すかさず甘えた声で批難するハヤトに、ユズは怒る気力も失せた。開き直り、腕を組んで胸を反らせた。口の端を引き上げ、鼻で笑ってやる。


「あーら。チビなだけじゃなくて、随分な赤ちゃんぶりだこと」


 カッと頬を赤らめ突進しかけるハヤトの小脇を、マサキが軽々抱え上げた。はあ、と文字に書いたようなため息をついたマサキが、何を思ってか破顔した。


「兄弟喧嘩だな」

「ぅえ」


 ハヤトが顔を顰めた。クスクス笑いながら、マサキは彼を持ち上げ、腕に抱き直した。その動作からも、相手は六歳ばかりの少年にしか見えない。


「似て当然か」


 ハヤトは母親に似ている。その彼女とユズが似ている。つまりは。

 とんでもない、とユズは声を張り上げた。


「「似てないってば」」


 その声が、ハヤトと見事に重なった。ユズは顔を赤らめ俯き、ハヤトはムッとして唇を引き結ぶ。


 そんな二人を見て、マサキはさらに笑った。小さな腕が振り上げられ、ぺちりと頬を叩かれても尚、マサキは笑い続ける。


 ふと、ユズは気がついた。マサキが笑うところを、今まで想像していなかった。多少頬を緩めることはあったが、それ以外は無表情か怒っているか困っているかしていた。声をあげて笑う彼の、少年ぽさの残る表情は、新鮮だった。


 ハヤトを抱いたまま、扉の前でマサキが振り返った。


「できるだけ早くフウカさんを見つけ出せるよう努力する。待っていてくれ」


 扉が閉まった後、鍵が回る音はしなかった。

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