3.誰に似てるの

 冷めないうちに、と案内された一室は、もとから湯浴み用だったようだ。壁も床も石で葺かれ、扉をくぐった途端、湿った暖気が身体を包んだ。


 町では湯屋がいたるところにあるので、家族連れ立って通うのが一般的だ。

 村には湯屋が無く、領主級の人物だけがこのような湯浴み用の部屋を持っていると聞く。

 監禁された部屋からここまでも、長い廊下に沿っていくつもの部屋が並んでいた。


(これなら、地郷公安部にもすぐに突き止めてもらえる)


 考えながら服を脱ぎ、用意された籠へ入れていった。衝立の端から覗くと、石造りの湯船にたっぷりの湯が張られていた。


(なかなか、やるじゃない)


 口角を上げ、早速手桶に入っていた石鹸を手に取った。

 しっかり泡立てると、気持ちのよい香りが広がる。

 何度かに分け、ごわついた髪に辛抱強く馴染ませた。灰色になった泡が胸元を滑り、床へ滴り落ちる。

 次第に髪は本来の柔らかさと色を取り戻していく。

 仕上げに数回湯をかけて漱いだ。次は、顔に施した舞台化粧だ。これも、容易に落とせない。

 何度も石鹸を泡立て、肌に盛られた化粧と馴染ませる。次第に毛穴を解放され、肌の息苦しさが流れ落ちていく。


 すっかり気持ちよくなったとき、湯は湯船に張り付くほどしか残らなかった。身体を浸けることは出来なかったが、ここでは仕方ないだろう。


 タオルで身体を拭き、髪を包み込む。たちまちタオルは重くなった。絞れば水が落ちる。眉をしかめ、思い直して息をついた。


(そこまで気がつけってのも、無理か)


 タオルがもう一枚必要だ。出来るだけ濡らさないよう服を着込むと、油断すれば水滴が落ちる髪先をびしょ濡れのタオルに受けて廊下へ出た。


 細く扉を開けて窺うと、廊下には誰もいなかった。


(もしかしたら)


 微かな希望を見出して、音を立てないよう扉を広げた。

 同時に、さほど離れていないところで鈴が鳴った。数個離れた部屋の入り口上部で鈴が揺れている。風呂場の扉と鈴は、天井に這う紐で繋がっていた。


「こっち」


 鈴の部屋が開き、手招きされた。

 一瞬でもこのまま逃げられると思っていた浅はかさを後悔し、ユズは素直に従った。


「タオルもう一枚もらえる?」


 部屋に入ると同時に、ユズはわざと横柄に言った。

 部屋で机を囲んでいた三人、レン、コウ、そしてハヤトが各々の感情を込めて振り返ったり顔を上げたりした。


 直後、息を飲むのが、はっきりと伝わった。


 最初にあんぐりと口を開けたのは、コウだった。


「ユズちゃん、だよね?」


 納得して、ユズは頷いた。


「髪をきつく結い上げた上に油で固めるから。顔つきも色も変わっちゃうの」


 水気を含んで重い栗色の毛を一束、つまんでみせた。緩やかにうねる表面に沿って、水滴が滑り落ちた。


「タオルをもう一枚もらえる?」


 催促した。

 ぎこちなく動いたレンが、側の大きな鞄を探った。小さいものしかないが、と断りながら彼は、口周りの髭をほころばせて目を細めた。


「いや、驚いた。てっきり」

「似てねぇよ、俺ほどには」


 遮ったのは、ハヤトだった。


 ユズは眉をしかめた。言葉遣いもそうだが、低めた声に異様なまでの嫌悪を感じずにいられなかった。手にしていた焼き物の器から何かを飲み干す動作も荒い。


「そうかな。君も最近だいぶ変わってきたから」


 首を傾げるレンを、ハヤトは鋭く睨む。

 口を開きかけたとき、背後でガタリと音がした。


 戸口にもたれかかるように、マサキが立ちすくんでいた。

 目は驚愕に見開かれ、震える唇が微かに動いた。


「……ら」


 聞き返そうとしたユズの耳に、陶器の割れる音が突き刺さった。


「似てねぇってば。いつまで引きずってんだよ。栗毛の癖毛の女なんて、どこにだっているだろ」

「ハヤ」


 手を伸ばしたコウに向け、ハヤトは椅子を蹴った。そのまま身を翻す。


 外へ続く扉から、冷気が流れ込んだ。垣間見えた風景は冬枯れ、生命を感じさせない。


 伸ばした腕をゆっくり収めながら、コウは肩を落とした。上目遣いでレンを恨めしそうに睨んだ。


「この季節は、不安定なんだから」

「いや、すまない。つい」

「まーくんも」


 顔を上げた先では、マサキが依然、心ここにあらずといった風情でユズを見ていた。再度呼びかけられ、ようやく目が覚めたようにハッとする。そして、傷跡の走る右手で顔を覆い、深い息をついた。


「ダメ、だな。あの子に言われるようじゃ」


 寂しく苦笑しながら、床に散らばる破片を拾おうと腰を屈める。しかし、昨日負った足の傷を庇うために上手く出来ない様子だ。

 慌てて片づけを手伝おうとするユズを、コウが制した。


「ごめんね。なんかバタバタして」


 普段から垂れがちなコウの目尻が、一層下がった。破片は一部、床板に刺さっていた。


「今の季節は、仕方ないんだ。丘が赤い花に覆われた後は」


 独り言のような言葉に、ユズは恐る恐る尋ねた。


「誰に、似てるの、私」

「あの子の母親だ」


 答えたのは、マサキだった。レンが留めようとしたが、マサキは小さく首を振り、ユズへ頭を下げた。


「不快な思いをさせて、すまなかった」

「それより、ハヤトのお母さんって」


 やや間を空け、マサキが言葉を吐き出した。


「狩人に、殺された。六年前だ。なのにまだ」


 声を詰まらせ、胸元を握り締めるマサキの肩に、片付けの手を止めたコウが後ろから腕を回して引き寄せた。何も言わず、腕でトントンと軽くマサキの肩を叩く。


 ごめんなさいと、ユズは小さく呟いて項垂れた。


「なんだったら私、ここを出て行くけど」

「それはダメ」

 コウが優しく、しかしにんまりと笑った。

「ユズちゃん、聡いなぁ。この場に乗じて帰ろうとか」

「違うって」


 顔が熱くなった。さすがにそこまで考えていなかった。


 隠れて舞の練習をしていたのがばれたとき、学問所のテストで満点が取れなかったとき。

 不機嫌になった両親に言っていた言葉がスルリと、口から滑り出した。口癖のようなものだ。私の存在があなた達を不快にさせるなら、私は退散します、と。

 それだけのことだった。


「そうじゃなくてその、ほ、他の仲間のとことかほら、あるんじゃないかと」

「俺たちも考えたんだけどね」


 床をすっかり片付け、溜め置きの甕の水をひしゃくで掬って手を洗ったコウが残る二人へ目配せをして続けた。


「うっかりハー坊が俺たちの名前ばらしちゃったじゃない。その上で、賢いユズちゃんにこれ以上手の内を見せるのはまずいよねって話になったわけ」

「最初の計画では、女性のいる場所に匿うつもりだった。ここも長居するための場所でもなく、物資も揃っていない。なにかと不便を強いるようで申し訳ない」


 マサキも困ったような顔で付け足した。


 それで、とユズは納得した。

 台所と思しき部屋だが、備え付けられた棚は空だ。甕はひとつしか満たされておらず、汚れ物を洗う盥は乾燥している。レンが携えている大きな鞄に、とりあえず必要なものを詰めてきたのだろう。


「何か要る物があれば、遠慮なく言ってくれ。時間はかかるが、手は尽くす」


 急に言われても何も思いつかず、ユズは気の無い返事をして勧められるまま椅子へ腰掛けた。座面には微かに、小さな温もりが残っていた。


「あの子、どこいったのかな」


 ぼうっとハヤトが消えた戸口を見て呟いた。コウが何か言う前に、マサキが大丈夫だと答えた。


「落ち着いたら、そのうち帰ってくる」

「まーくん」

「フウカさんの件、どうする」


 どうやらここで、フウカを探す相談をしていたようだ。ダイチが遺した指輪を、届けるつもりなのだろう。


 ユズも聞いていていい話なのか。訝しんだが、席を外せとも言われないのをいいことに腰を落ち着かせた。


 そのことだけどと、コウが真っ直ぐマサキを見つめた。


「お前は今回の件から外す」

 驚くレンに無言で頷き、異議を唱えようとするマサキへコウは静かに命じた。

「ハー坊の側にいろ。どのみちその怪我じゃ、動きが制限される」


「だけど」


「マ、サ、キ」

 一音ずつ区切り、コウは机を挟んだマサキへ身を乗り出した。

「ちゃんとハー坊に好きだって言ってる?」

「は?」

「言わなきゃ、伝わんないよ。ま、それは後でハー坊にも同じこと言っておくけど」


 目を瞬かせるマサキから視線を外し、コウは軽くレンを睨んだ。


「レンもさ。分かってやってよ。ハー坊の心は、もんのすごく繊細なんだよ、俺みたいに」

「君の心は鉄鉱石並みだと思っていたが」


 やれやれと天井へ掌をむけて見せ、コウはため息をついた。


「困ったねぇ、ユズちゃん」

「急に振られても」


「ハー坊は、さ」

 壁を通して外の遠い枯野をみやるように、コウは目を細めて続けた。

「自分が母親に似てるから、彼女を愛していたマサキが自分を大事にしてくれていると思ってんだよ。だけど最近、やたらみんなに父親に似てきたって言われるから」

「待てよ」


 怒りを浮かべ、マサキが立ち上がった。刹那、痛みに顔を顰める。

 それを目で宥めながら、尚もコウは続けた。


「知ってるよ。俺がまーくんの気持ちを知らないとでも? だけど、あの子は分かってないんじゃないかな。不安なんだよ。見放されるんじゃないかって」


 ちょいと、コウは足先で床の一点を示した。先ほど破片が突き刺さっていたところだ。板の繊維が切れている。


「かなり全力だったみたいだよ」


 しばらくマサキは新しい床の傷を見つめていた。眉間に刻まれた皺が徐々に深くなる。

 やがて、肩の力を抜くと足を庇いながら戸口へ向かった。


「探してくる」


 後ろ姿に手を振ったコウが、ひょいとユズの方を見た。


「世話の焼ける連中でごめんねぇ」

「いえ」


 慌てて顔を背けた。

 今の、痛みを堪えた表情を見られたくなかった。

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