2.必ずこの汚名を雪ぐ
踊るのが、好きだった。
『舞なんて、
勉強は、どんなに頑張っても兄ほどはできなかった。
『あら、満点じゃないのね。次はがんばりなさい』
教員だった両親の誇りは、いつも兄だった。見捨てられたユズを褒めてくれたのは、兄と、彼の幼馴染みの近所のお姉さんフウカだった。
『素敵な振り付けね』
お世辞ではない小さな賞賛が幼いユズの胸をくすぐったのは、一回や二回ではなかった。
それでも、五年前。
成人の儀が目前に迫ると、さすがのユズも考えた。このまま両親の言うとおり、教員として恵まれた生活の確約を得るか。それとも、命を削りながら夢を追うか。
『ミカドの聖誕祭、見に来ないか』
ダイチが声をかけてくれたのは、そのときだった。職場でもらった観覧券があるが、妻は二番目の子を出産した直後で行けない。いい席だからどうか、と。
舞台上で繰り広げられる荘厳な舞の世界に、ユズはすっかり心奪われた。
舞い人のしなやかな腕に追随する柔らかな衣装。手首と足首につけた鈴が、動きに合わせて澄んだ音をたてる。軽やかに跳び、宙で身を返すと静寂の中に着地する。身のこなしの全てが美しい。
地球人種が、このような素晴らしい芸能を持っていたとは。流花町の妓女が踊るときの媚びたものは何もない。
新しいミカドは、これまで追求してきた科学技術以外に、舞や音楽にも興味がおありだと人々は賞賛した。
いつか、自分があの舞台で舞う。
反対する親を押し切り、芸能一座へ飛び込んだ。
厳しい稽古も苦にならなかった。足がふらついても、疲労で眩暈を起こしても。
体が揺れる感覚に、ユズは薄く目を開いた。
闇を透かして、まばらに並ぶ裸樹が僅かに上下しながら後方へ流れていく。頬に当たる毛織物を通し、弾力のある固いものが人の肩の筋肉だと見て取って、身じろぎをした。
「あ、起きた?」
人懐っこい声と共に、鳶色の癖毛がもしゃりと動いた。
ゆっくりと戻ってくる記憶に、声の主を思い出す。そして、自分が身を預けているのが、コウの広い背中だと判明し、ユズは慌てて腕を突っぱねようとした。
だが、手首は彼の胸の前で縛られていた。
「ちょ、下ろしなさいよ」
もがくと、意外とあっさりコウは立ち止まり、腰を下ろした。太腿を支えていたのは、太めの枝に上着を巻きつけたものだった。長く固定されていた足は、ぎこちなく地面を踏んだ。
吐いた息が白くたなびいた。寒さが全身を包み、身震いをした。コウが枝から解いた上着を差し出した。誰のものなのか、ユズには大きかったが、温かかった。
「ここは?」
ぼんやり周囲を見回しながら口にした問いが、急にばかばかしくなった。反逆者のカゲが隠れ家を教えるわけがない。
案の定、コウは大きめの口の端を上げ、にやりと笑った。
「教えない。そう簡単に帰さないよ」
そうよね、と頷き、コウが示す尾根へ足を進めた。
寝具に横たわる兄の姿を目にして、ユズは浅くなる呼吸を整えようと胸元を押さえた。
町と異なり、寝具は床に直接敷かれていた。その上に寝かされた、大部分に包帯が巻かれた物体を、ダイチと認めたくなかった。
それでも、辛うじて包帯を免れた左の目に浮かぶ優しい色と、左耳の前にある黒子が、ダイチの証だった。
横たわる兄の枕元で、茶色のもみ上げと豊かな髭が繋がった男が薬草をすりつぶしていた。
「刃物による傷のほか、奴らは学問所に火を放ったからね。火傷のほうが重症だ。あまり多くは話せないけど、間に合ってよかった」
呆然とするユズへ耳打ちすると、髭の男は席を空けた。
「にい、さん?」
そっと耳元に囁くと、兄の目が潤んだ。くぐもった声で、妹の名を呼ぶ。
「なれたんだな」
震えながら上がる手が、ユズの髪へ伸びた。特別に選ばれた舞い人だけが結う形の髪へ。
頷くと、様々な想いが込みあがってきた。
舞い人に選ばれたときのこと、舞台での様子。人々の賞賛。誰よりも、ダイチに見てもらいたかったこと。
「どうして」
口から出せたのは、その一言だった。
兄は、答えなかった。目だけでコウへ合図を送る。頷いたコウが、枕元へ置かれた兄の荷物と思しき袋を探った。
手の内に収まる小さな箱に、ユズは首を傾げた。
「何、これ」
手の中で回し見て、一周刻まれた切れ目から開けた。
本体のほうに柔らかな布が盛られていた。布に抱かれるように、指輪があった。銀色の台座に、暗くてよく分からないが恐らく青い石がはまっている。
「フウカ、に」
兄の声が掠れた。
聞き返すが、乱れた彼の息は音声を妨げる。コウが器の水を布に浸し、唇を潤してやるがダイチの息は整わなかった。
「兄さん!」
身を乗り出したユズは、上腕部を掴まれた。包帯を巻かれた指が食い込む。
「ユ、ズ」
聞き取れたのは、それだけだった。
ダイチの目が訴えている。唇が、ぱくぱくと動くが、声が出ない。耳を澄ませても、鼓膜に伝わるのは隙間風と同じ音だけだ。
それも、やがて尽きた。
「レン」
コウが救いを求めた。
駆け寄った髭の男がダイチの脈を取り、眉間へ皺を刻んだ。目を上げ、無言で首を振った。
笛のような呼吸音すら止んでいる。包帯を巻かれた胸部は、凍りついたように動かない。
絶望に襲われ、ユズは思わずダイチの胸元を掴んだ。
「待ってよ、兄さん。ちゃんと説明してよ」
「落ち着いて」
コウの腕に止められても、ユズは叫んだ。
「どうして? 教えてよ。どうしてこんなことになったの。謀反なんて、嘘でしょ」
しかし、兄はもう答えることができない。
「ばかばか。兄さんのばか!」
憧れだった。自慢の兄だった。
手元から固いものが転がり落ちた。さっき渡された小箱だ。昔の恋人への指輪。何故こんなときに、と怒りが込みあがった。
「どうしてよ。妹より、売られた女のほうが大事なら、わざわざ呼びつけないでよ。人生めちゃくちゃにしときながら、少しは謝ってよ」
裏切られた悲しさと空しさ、悔しさがドロドロと入り混じり、喉元までこみ上げる。指輪の入った箱も包帯だらけの兄も踏み潰してしまいたかった。
「とりあえず、隣の部屋へ」
レンとコウに両脇を押さえられ、廊下へ引きずりだされた。
思い切り泣きたかった。しかし、反逆者の手の内で無防備になりたくなかった。
「どうするつもり」
噛み付かんばかりのユズに、コウが片目を瞑ってニヤリとした。
「君次第だよ」
通された部屋の板窓は、釘で止められていた。床に寝具と、ユズが連れ去られる際持っていたわずかな私物が置かれていた。
扉が閉まり、続いて外側から鍵を回す音がした。足音が遠ざかる。
町では、カゲの素顔を見た者は生きて帰れないと囁かれている。監禁した挙句、たどり着くのは輪姦か、私刑か。
髪を掻き毟ることもできない。頭にやった指先が黒くべたつく。舞の間髪が乱れないよう塗り込められた整髪油だ。いつもなら、舞の後すぐ町の湯屋へ行き、たっぷりの湯で疲れと共に流しされるものが、いまだ重くユズを塗り固めている。
唇を噛み、ユズは決意した。
大人しく従う振りをして、カゲの内情を探る。その上で、隙があったら逃げ出そう。地郷公安部に駆け込んで、知りえた情報を全て話すのだ。そうすれば、謀反の疑いも解けるかもしれない。
(必ず、この汚名を雪ぐ)
耳の奥には、舞の最後に鳴った鈴の音が残っている。肌には、広場に集った民衆からの、地面を揺るがすような賞賛が残っている。
ようやく掴んだ栄光を、簡単に手放すわけにいかない。地郷一の舞い人として舞台に復帰する。反逆者の妹に成り下がるわけにいかない。
そのときまで、涙は封印する。
扉のあちら側で、人が行き来する音がしていた。壁板の隙間から光が筋となって差し込む。
カゲが、兄の亡骸を埋めに行くのだろう。
ユズは重ねた毛布の中で歯を食いしばった。堪えきれない涙が鼻を越え、ごわつく敷き布へ沁みていった。
昨夜マサキは、埋葬に立ち会って欲しいと言ってきた。
立ち会えば、無残な兄の姿が徐々に土へ埋もれる姿を見てしまえば、彼の犯した罪と死を否応無く認めることになる。
それが、怖かった。
やがて建物内は静寂に占められた。そっと立ち上がり、扉のノブを回す。体重をかけるが、扉はガタンと鳴ったまま開くのを拒んだ。外側から鍵がかけられていた。
「そう、よね」
白く吐き出した息が、すぐさま影に飲み込まれた。
彼らは「保護」すると言った。狩人の追跡からユズを匿うと。
(追われるようなことは、してない)
何かを蹴飛ばしたい衝動に襲われた。壁や柱はダメだ。舞い人は足を大切にしなくてはならない。もっと柔らかく、しかし蹴り応えのあるもの。
いらいらと部屋を歩き回るが、先ほど横たわっていた寝具のほか、何も置かれていない。寝具を蹴ってみるが、厚みのある毛織の布がもわりと足に絡みつき、下に均された干草が少し散っただけだ。
何もない部屋。広さだけがあった。板を打ち付けた窓の下へ寝具を押し付ければ、さらに広くなる。
試しに部屋の角へ立ち、そっと両腕を広げた。踏み出した軸足へ体重を載せ、肘を引く。くるりと回ると、もう一歩踏み出す。二回転はできる。
(これだけあれば十分)
口端を上げ、目を閉じた。ひっつめに結った髪に引っ張られる目尻が窮屈だが、幾分気持ちが落ち着いた。
ゆっくりと、舞いの基本動作を順に行う。一座に入ってから、どんなに高熱が出た朝も欠かさなかった鍛錬をなぞっているうちに、気持ちが軽くなっていった。
身体も温まり、漏れ入る淡い光に湯気が浮かんだ。
「よし」
軽く気合を入れ、床面の角から最初にやったようにターンの練習をした。さすがに山を一気に上った疲れが残って、いつもより足が重い。
何度かパターンを変えながら繰り返し、自分に課しただけの数をこなすとようやくユズは動きを止めた。汗ばむ額を手の甲で拭い、息をつく。
と、ぱちぱちと手を打ち鳴らす音がした。しかも、室内から。
ぎょっと振り返ると、いつの間に入ったのか、ハヤトがにこにこと手を叩いていた。きちんと整えられた寝具にちょこりと座り、色レンズがはまった眼鏡越しにユズを見上げていた。
「手の動きとか、すごく綺麗だったよ」
思いがけない褒め言葉に、たじろいだ。腹の奥がくすぐったく頬が緩みそうになる。ぐっと堪えて何気ない顔を作った。
「毎日やってるんだから当然じゃない」
「え、毎日? がんばってるんだね」
「舞い人なら普通よ。それより、いつの間に入ってきたの」
扉が開いた音はしなかった。動きに集中していたとはいえ、誰かが通れば分かるはずだ。
戸惑うユズに、少年はニッと笑った。
動悸が収まらないうちに、鍵の回る音がした。顔を覗かせたマサキに見つかり渋い顔をされても、ハヤトは頓着しない。
「ね。何か踊って見せてよ」
「無理。それに、あんたなんかに見せる舞はない」
「えー。けち」
ハヤトは唇を尖らせた。かいた胡坐の足首を掴み、身体を揺らせながら不満を述べ続けた。
「練習用の舞とか、あるんでしょ。あと、町の中でやるのとか。マサキから教えてもらったよ」
「本来、舞は捧げるもの。あんたは対象外」
「嘘っぱちを捧げられる方も、難儀だね」
にやりと笑う少年の、その言葉の裏が伝わりユズの頭に血が上った。しかし、ユズが口を開くより先に、マサキの短い叱責がハヤトを黙らせた。不満を露にする少年をなだめるように、マサキは彼の固い茶色の髪を撫でながら諭した。
「それでもミカドは、地球人種にとって大切な存在なんだから」
「狩人は、そんなみんなの感情を利用してるだけって、そう言いたいんでしょ」
両頬を包み込んだマサキの手を振り解き、ハヤトは促されるまま戸口へ向かった。
その途中、ニヤリとユズを振り返った。
身構えるユズの前で、彼は爪先を床へ滑らせるように足を踏み出した。その足を軸に、ふわりと身体を回転させる。羽根のような軽やかさだった。
彼が去った後も、脳裏に焼きついた残像がユズを打ちのめした。
一本の芯のように揺らがない体の軸。高い重心。均衡の取れた腕の配置。
全てが完璧だった。
それを彼は、ユズの鍛錬を垣間見ただけで習得してしまった。
愕然と、ユズはその場にへたりこんだ。
「半年は、かかったのに」
膝に力が入らない。一座での血の滲むようなあの努力は、なんだったのか。
立ち直らないユズに、マサキがため息をついた。
「彼の身体能力は特別だ。気に病むことじゃない」
「めちゃくちゃ病みますって。あんな完璧なの見せられたら」
頭を抱え、べたつく整髪油に悪態をついた。
「舞の後に湯屋がないとか、どうしてくれるのこの髪」
「湯なら、用意している。それを言いに来たんだが」
マサキが、小脇に抱えていた包みを差し出した。
「仲間の女性たちに、適当に見繕ってもらった。その服では、ここは寒いだろう。とコウが言っていたからな」
「コウが?」
頷き、マサキは申し訳なさそうに肩をすくめた。
「風呂も、コウの提案だ。すまない。どうにも俺は気がつかなくて」
はあ、と包みを受け取り、ユズは顔を残して頭を下げた。
気の良さそうな彼の茶色の目が、心なしかほっとしたように緩んでいた。
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