10.だけどサクラのこと

 どこかでトリが鳴いている。暗闇に響く声は理由もなく不安を掻きたてた。


 ユズは寝具の上で寝返りを打った。


 式典の日からの様々な想いが去来し、睡魔を押しやる。夜も更けるというのに瞼は一向に重くならなかった。


 壁板の隙間から糸のように光が漏れていた。足音を忍ばせて扉へ耳をつけると、廊下を挟んだ向かいの部屋からくぐもった声が聞こえた。夕食後にコウが戻ってから、マサキとコウはずっと険しい表情で話をしている。


 これからどうなるのか。先の見えない不安が、夜の冷え込みを伴って座り込んだユズに迫ってきた。


(考えても、仕方ないけど)


 ほう、と息をつくと、漏れ入る光の筋が当たった部分だけ息が白く浮かび上がった。

 体が冷えてきた。寝具に戻ろうとしてユズは、何かを引きずるような音に気が付いた。

 耳を澄ませると音は止んでいる。


(気のせいかな)


 思って立ち上がると、再びズッと鈍い音がした。

 ぞわりと肌が粟立った。音の源が部屋の中にあるように思え、恐怖のあまり扉のノブを回した。

 躊躇したが、さらに大きな異音が響き、思い切って腕を伸ばした。その目の前を塞ぐように、迫る黒い影があった。


 声にならない悲鳴が喉を締め付けた。

 腰を抜かし、冷たい廊下に座り込んでよくみると、なんてことはない、隣の部屋の扉が開き、勢いのまま蝶番を軋ませ揺れているだけだった。

 胸を撫で下ろしたのも束の間、扉の向こうに蠢く気配に、今度はなけなしの勇気を振り絞って首を伸ばした。


 廊下に横たわる細い足が見えた。


「ハヤト?」


 そっと呼びかけると、弱々しい咳が応えた。


「何してるの」


 近付いて、異変に気が付いた。鼻をつく、嘔吐物の臭い。細い息。それでもハヤトは、震える腕で床を掻き、光の漏れ出る部屋へ這おうとしている。


「どう、したの」


 声が震えた。

 弱く、しかし続けざまに咳き込んだ細いからだが、びくりと痙攣する。


 思わずユズは、叫び声を上げてしゃがんだ。ほのかな光を頼りに、少年の頭部を探り当てる。骨ばった肩を辿り、細かく痙攣を繰り返す細い首に手を添わせると髪の毛に触れた。

 瞬間、ユズは折角たどり着いた頭部から手を引いた。


(誰?)


 根元から立ち上がる固いハヤトの髪ではない。もっと柔らかく、トリの羽根を連想させる手触りだった。 


「どうした」


 流れ込んだランプの光を反射させ、少年の頭の辺りで何かが煌く。

 状況を見て取ったマサキの顔色が一変した。


「おい!」


 急ぎランプを近づけて瞳孔や全身をくまなく調べる。後に続いたコウも、一目で事態を把握したのだろう。


「俺が解毒剤を取ってくる」

「頼む」


 短く応えると、マサキはランプを床に置いたまま少年を抱え上げた。細く小さな身体は不自然に強張り、丸太のように突っ張っていた。


「部屋を借りる。灯りを頼む」


 食いしばった歯の間から言われ、反射的にユズはランプを持ち、マサキの後を追った。

 マサキは寝具に少年を寝かせた。服の襟元を緩め、首筋に指先を当て脈を確かめている。


「この子は」


 ランプの光に浮かぶ色に、立ち尽くしたままユズは身体を震わせた。


 淡い金色の髪。半開きになった瞼から見える瞳も、金色だった。背格好はハヤトと同じで、普段彼が掛けている色付き眼鏡に隠されていない鼻から下の造りも似ている。


 慌しい足音が響き、コウが駆け込んだ。


「棚の備蓄が無くなっている。とりあえず、俺が保管していたものだけ持ってきた」

「昨日まではあと二瓶あったはずだけど」


 言いかけて、マサキは舌打ちした。唇を噛む。目を合わせたコウも、苦々しく頷いた。


「間に合うか分からないけど、『隣』に行ってくる。全く無いより、望みが繋がるだろう」


 手の中に押し付けられた木箱を見下ろし、マサキは決意したように頷いた。手早く蓋を開ける。注射器と小瓶を取り出し、慣れた手つきで用意をする。


 ランプの光に煌く針の先端に、思わずユズの視線は吸い寄せられた。しかしそれは、一点の曇りもない清潔なものだった。


 少年の袖は、簡単に肩までたくしあげられた。マサキの動作は無駄がなく、冷静だった。少年のむき出しになった左肩に注射を打つまでは。


「耐えろ。死ぬな」


 細い呼吸音が、笛のように弱々しく鳴る。静寂の中で、マサキが歯を食いしばる音が聞こえるようだった。


「どういう、こと」


 沈黙に耐えられず、ユズは尋ねた。

 その声に、マサキはユズの存在を思い出したようだ。ハッと顔を上げ、しばらく焦点の合わない目でユズを見上げた。

 やがて深い息をつくと、掌で顔を擦った。


「信じたくないが、レンさんだろう」


「それもだけど、そうじゃなくて」

 迷った末、ユズは少年を指差した。

「これは、どういうこと。テゥアータの子供を」


 ユズを見上げたマサキの瞳に、一瞬怒りに似た光が走った。負けじと、ユズは拳を握った。

 目を反らせたのは、マサキが先だった。


「これが、この子の本来の姿だ。名前も、本当は違う」

「でも、どうして。町に広がっている呪いのせい?」


 町では、地球人種の家系に、髪と瞳の色が異なる異人の形質を持つ赤ん坊が生まれる事象が増えている。生後すぐに「処分」されるが、中には情が移って秘密裏に育てる親も居る。もっともそのようなことをすれば、厳しく罰せられる。

 何故、地球人種同士の婚姻で色の違う子供が生まれるのか、政府直属の中央研究所でも原因が分からず、いつしか「テゥアータの呪い」として人々を恐怖に陥れていた。


 逡巡するように宙を見つめていたマサキが、なるほど、と呟き、合わせた掌の先を口元へつけた。


「俺は、この子の父親じゃない」

「え。だけどサクラのこと」


 ああ、と頷く彼は自嘲していた。


「愛していた。時期によっては、確かに愛し合っていた。だけど、彼女はダイチさんが持っていた文書を、地郷政府が隠しているテゥアータの事実を拡散する道を選んだ。反逆者になる道を。地郷公安部員の妻になる道ではなく」

「ちょっと待って」


 記憶を探った。空から大量の紙が降ってきたとき。覚えている。


「文書をまいた犯人は、男じゃなかった? 新聞記者の。学問所でもその話題で持ちきりだったもの」


 マサキは上着のポケットを探った。ダイチの文書が、そこにあった。


「表向きは、な。彼女はそのことで、後までずっと自分を責めていた」


 典型的な地球人種の茶色い瞳が、射抜くようにユズを見上げた。


「この子の父親は、テゥアータ人だが立派な人だった。俺も面識があり、尊敬していた」

 しかし、とマサキは少年の汗ばんだ額を指先でなぞった。

「彼は、殺された。この子が産まれる前に」

「それで? 昔の恋人の子供だから、似ているから育てることにしたの?」


 精一杯の侮辱を込めて問うと、マサキはしばらく考えた。違うな、と目を伏せる。


「サクラが死んで、俺に残されたのはこの子だけだった。この子がいなければ俺は、心を無くして廃人となったか、自分の心臓を撃ち抜いて果てただろう。似ているとか、どうでもいい。この子がこの子として生きていくことが、俺には重要なんだ」


 姿を偽り、名を偽り。そこまでして生かされることが、少年にとって幸せなのか。


 異論を唱えようとして気が付いた。

 彼をそのような状況に追い詰めたのは、他ならぬ地球人種たちだ。


 刹那、ユズの脳裏をダイチの子だという黒髪の少女がよぎった。


(あの子も)


 地球人種として人々に羨まれる艶やかな黒髪と漆黒の瞳を持ちながら、花街に生まれたというだけで町に受け入れられない。


 少年が呻いた。

 細い金の眉を寄せ、喘ぐように口を開く。ひゅ、と喉が鳴った。あばらの浮いた胸元が大きく上下する。

 マサキは少年の身体を横向けにすると、背中をさすった。


「峠は越えたな。あと、少しだ」


 安堵の浮かぶ顔で、ユズにも少し休むよう言った。


 寝具は少年が使っている。ユズは上着を羽織り、壁にもたれて座った。膝を抱え、顔を埋めた。


 言いようのない恐怖が襲い掛かってくる。今まで疑わず立っていた地面に亀裂が入り、崩れ落ちる。急速に、一気に。

 立っていることが出来なくなり、奈落の底に落ちる、と思ってユズは目を開けた。

 僅かな時間、眠っていたようだ。ランプの光が揺れた。


 全身に汗が浮かぶ。コウが低くユズを呼びながら身体を揺すっていた。


「逃げるよ。襲撃だ」

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