9.私に、どうしろと
ほとぼりが冷めたら町に戻れる。
マサキの言葉に僅かな期待が芽生えたが、山での日常が二日も続くと、早くも嫌気がさしてきた。
相変わらずマサキとコウはどちらかが夜が明ける前に出かけ、残った一方とハヤトがユズの監視を兼ねながら過ごしている。
洗濯や料理などの手伝いはするものの、やることがないと舞い人だったときの多忙な生活を思い出し、いつに戻れるのかとそればかり考えてしまう。
朝から数えるのもうんざりするほどのため息をつき、ユズは立ち上がって斜面を登った。
「どこへ」
背後で少年の繰り出す刃を軽くあしらいながらマサキが問うのに、ちょっとそこまでと答えて尾根の上へ出た。
足元に草地が続く。今登ってきたのと同じような枯葉の群れが、所によっては腰の高さまで、別の場所ではようやく地面を覆う短さで延々と広がり、緩やかに下って、またその先で上っていた。視野を塞ぐ尾根はこちらのものより高く、尾根線の上方に薄く青色が横たわるばかりである。
マサキは追ってこない。ユズを信用しているわけではないことも、もう分かっている。
一度こっそりと谷へ下ってみたが、すぐにどこからか指笛が鳴り、ハヤトがすっ飛んできた。山のここかしこにカゲは潜み、囚われのユズが逃げ出さないか、狩人が侵入しないか日夜見張っているのだ。
今も、どこかから見られているのだろう。視線を意識しながら、ユズは枯れ草の上に腰を下ろした。
「帰りたいなぁ」
ぼそりと呟く。
小さな虫が枯れ草の先まで昇り、自分の重みで揺れる葉から振り落とされないよう足掻きながら羽根を広げて飛んでいった。簡単に踏み潰される虫をも羨んでしまう身の上を笑う気力も残っていなかった。
連れて来られてからの日数を数え、ユズはうんざりと膝を抱えた。
膝の丸みに顎を載せていると、すぐ近くで草が大きく揺らいだ。身を引くユズに、静かに、と押し殺した声が命じた。
「敵ではない。あんた、あいつらの束縛から逃れたいのだろう。いい方法があるから伝えに来た」
そのまま何もなかったように座っていろと囁かれ、ユズは強張った背中にマサキとハヤトの声を聞きながら草の間へ意識を集中させた。
枯れ草が割れ、丸みを帯びたものが現れた。薄汚れた布で覆面した者の頭だった。
布の切れ目から覗く双眸だけが鋭くユズを見上げた。周囲に油断なく視線をめぐらせながら、肩を、腕を草から出し、腕を伸ばせばユズに触れるところで止まる。
「方法って?」
ユズもまた潜めた声で聞くと、覆面の人物は低く笑ったようだ。
「なに、簡単なことだ。やつらはあんたに対し、逃亡以外の警戒を抱いていない。その気があるなら道具を渡す。それでやつらを仕留めてしまえばいい」
「殺せと?」
つい声が高くなり、シッと指を立てられる。
「謀反人は家族ぐるみで処罰されることくらい、知っているだろう」
「どうしてそうなるの。もう何年も兄と会ってなかったのに。私は善良な民よ」
覆面が抑えた笑いを漏らした。
「それを、証明してくれればいいんだよ。あんたらの親はすでに、たっぷりの金で我々を雇い愚息討伐を命じることで誠意を表した。あとは、あんただ」
内心、ため息をついた。
あの両親ならやりかねない。かつて自慢の息子であっても、自分たちの地位を揺るがせる汚点に転じれば、さっさと捨てる。いっそ、清々しいほどだ。
「私に、どうしろと」
「綺麗なお嬢さんの手を血に染めようなんて、そんな非情なことは言わない。こいつを仕込んでくれたらいい」
そういって覆面は、突き出した拳を開いた。四角く畳んだ油紙の包みを見せる。
「毒を塗った短針が入っている。これを奴らの服の折り目にでも刺し込むんだな。運がよければ何も起こらない。掛かれば間抜けということよ」
「それじゃぁ、私が実行したかどうか、どう確かめるの」
眉を顰めると、覆面はまた笑った。
「噂どおり、聡い女だ。我々を甘く見るんじゃない。カゲに紛れた味方が何人かいるんでね。だから今も、こうしてあんたに話を持ちかけられるんじゃないか」
なるほどと思い、ユズは油紙へと手を伸ばした。ほんの肩幅ほどの距離にも関わらず、ようとして届かない。
覆面はユズの迷いをも楽しむように、じっと手を動かさず、時折低く笑った。
昼過ぎになると、レンがやってきた。
食料や薬のほかにも狩人の情報を持ってきたということなので、ユズは席を外した。
小屋で最も陽の当たる部屋に干している衣類を片付けに行くと言えば、微塵の疑いも持たれずひとりにされた。
吊るされた洗濯物が揺れた。細い板を斜めに並べた窓から吹き込む風が、天井近くの明かり取り窓から差し込む光の中の影を動かす。
洗濯物は、部屋の対角に張られた縄にかかっており、縄の先は柱に打ち付けられた釘で固定されていた。
部屋の扉を閉めると風が止み、名残惜しげに影が動きを止めていった。
上着のポケットから例の油紙の包みを取り出した。
(これを、仕込めば)
覆面からは、針の先に十分気をつけるよう忠告を受けた。わずかでも肌を掠めれば半日は痺れが取れず麻痺が続く猛毒が塗ってあると。まともに皮膚を貫けば、麻痺は心臓に達して死に至る。
縄に吊るされた服へ手を触れた。
フウカの元を訪れた夜、マサキが着ていたシャツだ。号泣したユズの涙で肌が透けて見えるほど濡れ、相当に寒かっただろうに彼はひとことも不満を漏らさなかった。
シャツの袖や脇には、縫い繕った跡がいくつか見られた。刃物に切り裂かれたところを細かい縫い目で丁寧に合わせてある。ユズよりもずっと上手い。
隣に吊るされた小さなシャツにも触れた。
事あるごとにユズに突っかかるハヤトのシャツもまた、あちらこちらが縫い繕われていた。そのうちの一つは胸元を大きく切り裂かれた跡だった。
苦い想いが胸に広がった。
狩人に母親を殺されて以降、マサキに連れられて山にこもっているハヤトは、ユズと同様に災難に巻き込まれた身だろう。
なのに、あらゆる武術を叩き込まれ、山へ上がってきた狩人と戦わされている。それだけでなく、毒に対する抵抗力まで付けさせられている。彼に、この毒はどこまで効果があるのだろうか。
これらのシャツの縫い代にでも針を仕込めば、ユズはミカドへの忠誠心を認められ、舞い人は無理でも一般民として町で暮らすことを許される。
ユズはそっと、油紙を開いた。
覆面が言うとおり、短い針が五本並んでいる。どこにでもある、縫い物用だ。尖った先だけが、僅かに黒ずんでいた。
ユズはマサキたちが集まっている部屋の扉を叩いた。入ってもいいか声をかけると、即座に許可が下りた。
「丁度話が終わったところだ。お茶でも飲むか?」
扉を開けたマサキの周りに、香ばしい茶の匂いが漂っていた。
「じゃあ、もらおうかしら」
温かい茶を飲んで、少し気持ちを落ち着かせたかった。
追加の湯を沸かす間に、マサキはレンから受け取った小さな瓶から数滴の液体をスポイトに取り、ハヤトの飲み物の器へ垂らした。微量でも毒だ。量を間違えば命に関わる。
じっと器を見つめるハヤトの表情は、神妙だ。彼自身も納得したうえで行われている訓練だが、いつ許容範囲を越えて異変が起きるか分からないと、コウも言っていた。
入れ終わると、マサキは小瓶の蓋をしっかり閉めた。
鞄を手にしたレンが、顎鬚を撫でた。
「しばらく、今までと同じ量でいこう。増やすのは、もう少し慣らしてからのほうがいいだろう」
荷物を片付け始めるレンに、ハヤトが眉を上げた。
「もう帰っちゃうの」
「急な患者が入ってね。娘婿に診てもらっているんだが、容態が不安定なんだ。また来るよ。それまで元気にしていろよ」
レンは、そっとハヤトの肩に手を置いた。つまらなさそうな顔をする少年を宥めるように笑うと、マサキの見送りを断って出て行った。
ユズはハヤトの隣に座り、出された茶の香りを吸い込んだ。器を包む手が、異様に冷たい。
「レン、なんかあったのかな」
ぽつりと、ハヤトが呟いた。机の天板に器の底を付けたまま、ゆらりと回す。首を傾げたマサキが曖昧に返した。
「余程、その患者が悪いのかもしれない」
「そっかぁ」
納得いかない顔で、ハヤトは液体の表面に立ち上る湯気を吹き、一口すすって首を傾げた。片手で再度器を揺らしながら、おもむろに空いている手で襟元を探った。色白い指に絡めたのは、細い金色の鎖だった。
その様子に、マサキが眉を顰めた。
「どうした」
「う、ん」
しばらく鎖を弄び、じっと器の表面を見つめていたが、気のせいかなと呟くと、ハヤトは残った液体を飲み干した。
「コウ、まだ帰らないの? 射撃、見てくれるって言ってたのに」
「もう少しかかるだろうな。俺が見てやろうか?」
ううん、とハヤトは首を振った。
「だって、もう夕飯の準備しなきゃ。射撃は明日にする」
マサキに向けられた顔は、いつもの無邪気な笑みに満ちていた。
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