6.兄さんと一緒にしないで
贅沢に綿を詰めた布張りの椅子は、程よくユズの身体を支えてくれていた。しかし気持ちは落ち着かない。眼球は無駄に動き、視覚情報は脳に届かず、ただ表面を滑っていく。
「そんな緊張しないで」
隣に座るコウは、至って自然体だ。はぁ、と気の入らない返事をしながら、ユズはそっと髪に手をやった。
舞台でもないのに髪を結い上げ、鬘を被らされた。即席で作られた鬘が上手く本来の髪を隠せているか、何度確認しても不安になる。
「どうしてこんなことに」
情けなく項垂れると、声が高いと注意された。
「今、君は男性としてここにいるんだから。もっと低めの声で」
夜も更けようという時間なのに、川の中州にある
ユズとコウが通されたのは、贅沢な酒場だ。
平均的な収入の民では手が出せない豪華な食事と高級な酒を、華やかな化粧をした女店員が給仕してくれる。
そっと周囲の席を見回した。
どのテーブルも埋まっている。立ちこめる香に混じる酒の匂い。笑い声。両脇に女をはべらせた男の服は、上等な毛織物だ。
殺伐とした日常を脱するため金を積む男たちの多さに圧倒される。
酒のグラスを片手に、コウが背中を叩いてきた。
「ほら、もっと楽しそうにしなよ。久しぶりの町でしょ。彼女にも、もうすぐ会えるんだし」
「そりゃ、会いたいとは言いましたけど」
身を縮め、突っぱねた腕の先で男物の上着の裾を握り締めた。
流花の中でも格式が高く、上流階級の男たちに人気の店『藤紫』。そこの看板娼婦となれば、警備も厳しく、交渉のために接触するのも困難なはずだ。しかしカゲは、フウカの所在を確認した数日後に難業をやってのけた。
その間に、別の者たちがユズに合う鬘と男物の服を用意した。
財力に余裕のある男が通う店だ。それなりのものが必要になる。普通の官僚でも発注して受け取りまで一月はかかる上着とズボンが一両日の間に届けられ、ユズはしばらく開いた口を閉じれなかった。
裏切り者たちの人脈の豊富さ、専門性の高さを認めざるを得ない。
「コウ、キさんは、よく来るんですか」
偽名を口にすると、彼は手持ちの飲み物を一口飲んで否定した。
「仕事がらみだけだよ。俺にはまーくんがいるし」
「え、と。そっち系なら、川の対岸じゃぁ」
「違うって。まーくんをしっかり護るのが、俺の仕事だから」
言葉に詰まるユズへ、コウは相変わらず人の良さそうな笑顔で頷いた。真意が分からない。
再び曖昧な相槌を打ったところで、華やかな香りが近付いてきた。
顔を上げると、目の前で優雅に腰を折る女性の姿があった。
「ユズル様、お待たせいたしました。案内いたします」
止めていた息を吐き出した。
(なんだ。フウカじゃないのか)
やや簡素な服装の女は、案内係だった。甲に、赤褐色の焼印が浮かぶ。三日月型にあしらわれた藤の花。この店の紋だ。
差し伸べられた手をとるべきか、とらないべきか。救いを求めて振り返ると、コウは片目を瞑った。
「彼、こういうところ初めてだから、よろしくぅ」
ぐいと背を押され、ユズはのめるように立ち上がった。支える女が、にっこりと微笑む。
「いつも当店を贔屓いただいてますコウキ様のお友達ですもの。青蘭もきっと、心得ております」
「あれ。さっき」
首を回すと、コウは笑って誤魔化した。
女の後について壁に近付くと、ふいに女の姿が消えた。
「こちらですよ」
よく見れば、入り口がある。中央を上だけ残して切り開かれた薄布が何枚も重ねて提げられているため、薄暗がりでは壁との区別がつきにくかった。
潜ると、薄布が鬘や首筋をやんわり撫でていく。くすぐったい。急ごしらえの鬘が持っていかれないか心配で、何度も頭に手をやった。
最後の布が肩から後方へ滑り落ちると、暗く長い廊下が現れた。どこからともなく、悩ましい呻き声や喘ぎが反響している。背筋がゾクリとした。
ここには、コウといた部屋の華やかさはない。あっけらかんとした賑やかさと打って変わって、淫らで妖しい空気が満ちていた。
唾を飲み込む。数歩先で待つ案内係が微笑んだ。
「緊張なさっているんですね」
「あ、はい」
「大丈夫ですよ。青蘭は、初めてのお客様にも好評な娼婦ですから」
意味ありげな笑みに、ようやく彼女の誤解を知ってユズは顔を赤らめた。しかしそれもまた、初めて女を知ることになる若い男の反応と捉えられたまま、最も奥の扉を示される。
「どうぞ、ごゆっくり」
青い造花の輪がノブに掛けられていた。ごくりと喉を鳴らし、ひとつ深呼吸をして足を進める。案内係が深く頭を下げた。
壁を照らす間接光の中、青い服を纏った黒髪の女が腰を折って待っていた。
「青蘭でございます」
ゆったり結われた艶やかな黒髪。桜の花弁を思わせる曲線で描かれた目。白く浮かぶ滑らかな胸元の肌。年月が経ち、化粧を施してもそこに、フウカの面影を見て取れた。
立ち尽くすユズの頬へ青蘭が手を添えた。白い甲に、『藤紫』の紋を四角く囲った印が焼き付けられていた。
耳元に寄せられた熟れた果実のような唇が囁く。
「この部屋では話せないから、上着を脱いで」
聞き返そうとしたが、厳しい表情で首を横に振られた。
青蘭も自らしゃらりと服を一枚脱ぎ、簡素な下着姿になる。それでもまだ、村人の普段着より豪勢だ。
「これを」
脱いだばかりの青い服を着せられる。しなやかな布をたっぷり使った服は、ずしりと重かった。
部屋を抜け出し、青蘭に案内されたのはさらに奥の区域だった。
壁の隙間から漏れる外の明かりしか光源のない軋む廊下を、何度も曲がる。次第に空気は湿り気を増し、たぷんと水の音がしてきた。
(川の上に張り出しているんだ)
厚い襤褸布を腕で押しのけ、青蘭が入るよう促したのは、彼女の私室だった。
壁の一面は入り口同様に布が掛かっていた。成人女性が一人ようやく身を横たえるだけの広さの床には衣装箱や装飾品、化粧品が置かれている。
「狭いけど、あそこは意外と声が漏れるの。お客様の中には狩人に通じている方も多いわ。……そこ、座って」
広がるスカートの裾をすぼめ、辛うじて平らになっている床へしゃがんだ。衣装箱を机代わりに、青蘭が向かいの化粧箱に腰を下ろす。点されたランプの灯りでしげしげと見つめられ、ユズは身を縮めた。
「よかった。ユズだけでも無事で」
涙を拭う青蘭は、完全にユズの知るフウカになっていた。懐かしさもこみ上げ、喉の奥がせり上がって声が思うように出なくなった。
「兄さんのこと」
フウカは静かに頷いた。
「あの人たちから聞いたわ」
「私設学問所のことも?」
「教員を辞めたことだけ、その筋のお客様から」
不意に、フウカは細い手で口元を覆った。指の間から、ごめんなさいと聞こえた。
「ダイチが教員を辞める決心をしたのは、私のせいかもしれない」
「どういうこと?」
「ずっと、謝りたかった。ユズに」
聞き返したが、フウカは流れる涙で語れる状態ではなかった。
かたりと音がした。奥の襤褸布が揺れた。フウカに似た黒髪の少女が、眠たそうに目を擦っていた。
「お仕事、終わったの?」
フウカは慌てて少女の姿をユズから隠そうとした。しかし、その前にユズは気が付いた。少女の鼻や口元、輪郭にかけて、兄によく似ていることに。
「まだよ。なっちゃんは寝ていなさい」
「はぁい」
少女はぺこりと小さな頭を下げた。黒髪が襤褸布の中でしなやかに揺れる。
「あの子、もしかして」
動揺の余り言葉をなくしたユズが言いよどんでいると、フウカは瞼を閉じた。長い漆黒の睫毛が揺れる。
「両親が亡くなって、里帰りしたことがあったでしょう?」
娼婦の行動を厳しく管理する花街といえど、親の死に目を看取らせないほど冷酷ではない。フウカの両親が相次いで亡くなったとき、彼女は確かに実家へ帰っていた。周囲の冷たい視線に肩身を狭めながら。
そして、生まれたばかりの第一子の顔見せにと、ダイチもまた、実家に帰っていた。
「まさか、その時に」
「花街に来るお客様は時として、人には打ち明けられない苦しみや悲しみを吐き出すために私たちを買うの。だから、ダイチがそのとき、思いつめているのが分かった」
苦悶がフウカの眉間に深い皺を刻みつけていた。
「最初は、話を聞くだけのつもりだった。教員として行き詰っていることや、偽りの愛情で繋がる家族の話。いっそすべてを捨てて私の身を請けたい、一緒に私設の学問所を開いて、貧しくて正規の学問所に通えない子供たちを教えようと言い出した彼を、拒むことが出来なかったの……嬉しくて」
でも、とフウカは露になった胸元を震える手で押さえた。
「あの子を身篭ったと知った途端に、怖くなったの。彼が身請けをしてくれても、私が娼婦だった事実は消えない。どこに行っても私は元娼婦だし、子供は娼婦の子。流花の外で生きる自信がなかった」
店には、腹の子は誰のものとも分からないと言い張った。借金を増やして店に賠償金を払い、会いに来たダイチには二度と来るなと伝えた。堕胎する勇気もないまま少女を産み、育てている。
「でもその私の愚かな判断の後、五年くらい前だったかしら。彼が教員を辞め、婚家と離縁したと聞いて。ごめんなさい。ユズにまで迷惑をかけて」
「フウカのせいだけじゃないよ」
両親が上司の娘との結婚を推し進めるのを、ダイチは異議一つ唱えることなく受け入れた。あの時、抗議するユズを柔らかく、しかし悲しそうに微笑んで宥めてくれたダイチが本当はどう思っていたのか。考えたことがなかった。
「兄さん、本気だったんだ」
ポケットから出した箱を、フウカの前で開けた。漏れ入るだけの月明かりにも煌く指輪に、フウカが目を見張った。
「息を引き取る前に、これはフウカにって。カゲに私を連れてこさせてまで、託したかったみたい」
震える指が指輪を引いた。浮きかけた箱の底をユズが押さえる。
銀の台座に納まった青い石を撫でながら、フウカが小さくダイチの名を呼んだ。
(あの兄さんが、本当に謀反を)
初めて知ることが多すぎて、ユズは混乱する頭を静めようと手元へ視線を落とした。
無意識に空箱を弄ぶうちに、指輪を支えていた中敷がポロリと外れた。
「あ」
拾い上げた中敷の布が外れ、表面に文字を浮かび上がらせた。
不審に思って目を近づけると、それは薄い大きな紙を折りたたんだ物だった。古くなって乾燥している。端をめくっただけでも細かく砕けてしまう。慎重に広げていくと一面の活字印刷が現れた。
フウカも不思議そうにユズの手元を覗き込んだ。ほのかな明かりの中で活字の唱える内容を汲み取ったユズは、衝動的に紙を丸めようとした。その気配を察してか、フウカがユズの両手首を掴んだ。
「捨てるなら、これも私に」
「駄目だよ。こんなの持ってたら、フウカに危険が」
印刷物は、人々へ謀反を呼びかけるものだった。地球人種とテゥアータ人の祖先が同じ遺伝子情報を持つことを指摘し、テゥアータ人を敵視することへ疑問を投げかける文書。
「ここなら、客も入らない。保管するには安全よ」
「保管って。これは隠滅しなくてはいけないものじゃない」
ユズの反論に、フウカは毅然と首を横に振った。
「分かった気がする。ダイチが全てを捨ててまでやろうとしたこと。子供の時、これを手にしてからずっと、彼は考え続けたんだわ」
燃えるような黒い瞳に見つめられ、ユズは思わず身を引いた。抑えた声ながら、フウカの口調にはただならぬ熱がこもっていた。
「彼があなたに託したかったのは、これじゃないかしら。地郷一の舞い人……『創生の舞』を舞うことを目指すあなたに、これを読んで考えてもらいたかったんだと思う」
「やめて」
咄嗟にユズはフウカの手を振り解いた。
勢いで紙が破れる。慌てて破片を拾い集めるフウカを見下ろし、ユズは肩で息を続けた。
「私は、ミカドの元に集う誠意ある地球人種よ。兄さんと一緒にしないで」
床に座り見上げてくるフウカの目には、哀れみと悲しみが湛えられていた。見つめ返すことも出来ず、ユズは顔を背けた。
「帰る。忙しいんでしょ」
「ユズ」
「わざわざ、ありがとう。元気でね」
「……こちらこそ」
フウカは静かに立ち上がり、青い造花の輪がかかる部屋へ戻った。元の男装姿になれば、人目を気にすることはない。娼婦青蘭と一時の快楽を共にした客として歩けばよかった。
廊下の中ほどで足を止めた青蘭が、壁へ身を寄せるよう囁いた。薄布重ねの口から筋肉隆々とした女守衛が数名駆けてきた。
「何があったの」
思わずユズとしての声で尋ね、青蘭にシッと指を立てられた。
答えを聞くまでもなく、女守衛の一隊は今ふたりが通り過ぎたばかりの扉をこじ開けた。部屋へ踏み込む。怒号や罵声が続いた。それもわずかな間で、やがてシャツを羽織っただけの男が後ろ手に縛られ、引きずり出された。男の髪は、不自然な黒さだった。
あちらこちらの扉が開き、たちまち捕り物見物の顔が廊下に並んだ。
「テゥアータだって?」
「髪だけじゃなくて、下の毛も染めて来いってんだ」
女守衛にせっつかれ、項垂れ歩く男へ唾が吐きかけられた。それを皮切りに、あちらこちらからグラスや匙、皿などが投げつけられた。男が呻く度、笑い声が上がる。
血生臭い享楽で盛り上がる中を青蘭は、ユズを店の外まで案内した。
「もう一度、考えてみて」
看板を照らすガス灯の下、フウカとしての懇願を他人行儀な挨拶で拒むと、ユズは夜空の下へ出た。
そこは、流花町の中心を貫く大通りだった。顔を赤らめた男が千鳥足で歌い歩く。手の甲に焼印の浮かぶ女と連れ立って歩く男もいる。雑踏の中で、上着のポケットに手を入れ俯く男装のユズは、ただの背景だった。
胸に刺さった氷柱が、じくじくとユズを責める。後味の悪さを謝る勇気も持てず、星の煌く空を見上げた。
吐き出した息は、たちまちもくもくと白く立ち上る。寒空の下をしばらく歩きたかった。
幸い、コウもマサキも姿を見せない。逃げ出すチャンスだった。
賑わう客の流れへ滑り込む。たちまち人波に紛れたユズは、流花町と外界を繋ぐ大門から地聖町へと脱出することに成功した。
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