郷愁より来る

きし あきら

郷愁より来る

 (OPEN)


 コトリ。床板をむ。どこかのきってんに入ったらしい。きゅう姿すがたの若い、いやにおさなげな女が、黒髪をらしておれのそばへときた。なにかくちを動かしている。――ませ、――いらっしゃいませ。

 生まれつきの顔なのか、性分からなのか、心配げに寄ったかたちでまゆが固まっている。――お客さま、ご案内いたします。

 手が、れられる距離に差し伸べられる。おれののどからはイヤも出なかったが、代わりにどこが動くでもなく、女を見おろしていた。かすみがかった沈黙ちんもくが降る。しばらくのあいだ辛抱しんぼうづよく伸ばされていた腕は、やがて静かにおりた。――どうぞ、こちらへ。


 コトリ、コトリ、コトリ。おれは歩いているのか。古びた、しかしみがきぬかれた板目が、淡く、洋燈ランプのあかりに浮かぶのだけ見える。靴も、足も、おれであるべきものはなにも映らない。引っかけているはずの外套がいとうやぶれているだろう、髪もばらばらしているのじゃないか。そういえば、顔についてるふたつ目のうち、片方は入れ目みたいに外れて、あの道を転がっていった。


 椅子いすが引かれる。そこへとこしかける。主人と思しき男が奥から出てくる。女はずおれに、それからすれ違いざま男にしゃくをして、カウンターへと入った。

 ――いらっしゃいませ。

 つやりのテーブルにマグカップが置かれた。深い青いろの焼き物だった。なかには茶が揺れている。すこしの湯気と、混ぜられたろう、あらむぎがちらちらしている。

 なにかなつかしい気がした。どこかでこれを飲んだことがあるような気がした。そしていま椅子に掛けているおれは、猛烈もうれつにこれを欲しがった。

 だがだめだ。金はない。金もない。おれのものなど、もはやひとつもない。おれさえ、おれでないのだ。

 主人はみじんも警戒心けいかいしんのない表情かおでいる。すこし笑っている。――お代はいただきません。ここは、そういうところですので。


 ゆっくりと腕が動いた。左はないが、右のほうは残っているらしい。どうしても目の前のカップを取りたいと思った。

 乾いて汚れた手が、青い把手とってつかんで引いた。わずかにしか持ちあげることが出来ない。自然、背を丸めて口を寄せた。ふるえるカップが歯に当たって鳴った。

 美味い。めるように飲むおれを、店のものはどう思ったか。そんなことはどうでもいいほど美味かった。

 すこし甘いようなのは麦の糖だ。どこかで知っている。知っている。どうしようもなくひもじいとき、寒いとき、こうして飲ませてくれたじゃないか。母。おれの母が。


 ふいに、カップをにぎる手に熱いものがかかった。顔を離してみる。しずくがあとから、あとかられてくる。視界がゆがんだ。まだおれに人間らしいところが残っているとすれば、この涙が熱いことだ。

 もういいのだ。おれは十分に歩いてきた。足がけずれ、腕をらし、目を失くしても。歩いてきたのだ。故郷ふるさとはとうにないが、もし母の乳の味を思い出せるとしたら、おれにはこれだろうと思われた。

 力なくカップを置いた手が、すこしずつくずれていくのが見えた。残っている目もやがて落ちるだろうが、すべてが安らかだった。ようやく眠ることができる。ようやく、眠ることが。

 おれは最期に、おれを呼ぶ母の声を聞いた。


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