最終話 春
刷毛で一度だけ撫でたような、薄曇りの空があった。雲に透ける薄い青は、凪いだ空気を柔らかく包み込んでいる。
「はり、へ。このてがみを、よむころ、きっと、おれはいない」
はらり、はらりと、舞い落ちる花弁がある。淡い色彩の花たちは、その身を託す枝で、緩やかに伸びていく坂道に天蓋を造る。桜並木は、今が花の真っ盛りだ。
「なにも、いわなかったこと、すまない、とおもう」
色とりどりの着物に袴の少女たち。誠実な黒一色の詰襟に学帽の少年たち。銘々さざめきあいながら、彼ら彼女らは坂を登っていく。いたずらに落ちる花弁に手を伸ばし、頭上を覆う花を見上げ。それぞれの思いを胸に、学び舎へ。
「でも、おれがしたこと、そのぜんぶ、はりの、ためだ」
立ち並ぶ、桜の木々の間。花が作る屋根の下に、その長椅子は置かれていた。腰掛けるのは、ひとりの少女。まばゆいばかりの金の髪が、肩口で切りそろえられ揺れている。纏うのは、大輪の牡丹が描かれた着物と袴だ。
「こい、は、わからない、けど、おれは、はりが、だいじだ」
片目を眼帯で覆った少女は、残されたはしばみの瞳で膝に広げた紙片を見つめている。愛おしげに、笑みを浮かべながら。
「そのきもちを、こおして、のこす」
指先が、紙片の上に踊る文字をゆるりと撫ぜた。
「私が覗いてしまっても、いいのかな」
長椅子には座らず、その傍らに立つ男が言った。使い込まれた杖を手にした、身なりの良い男だ。
金の髪をわずかに揺らし、少女は男を振り仰ぐ。
「宇木那さん、中身は知らなかったの?」
「私はひらがなの読みと一覧を書いてやって、それを預かっていただけだからね」
まさか遺書だとは。男は苦い笑みを浮かべ、顎をさすった。
「それにしても、珍しいね。こっちの方に来るなんて」
「いやなに、午前のうちはお客も来ないからね。お客候補の姿でも見てみようかと」
男はそう言うと、視線を桜並木の真ん中へと投げた。少女もそれに倣うように、坂道を見やる。
花のように笑い合う少女たち。犬の子のように駆けていく少年たち。彼ら彼女らは、道の途中で立ち止まる男と少女に気付かない。ただ道の先を、ともに歩む友を、見ている。
「もう春なんだね」
「ああ。また一年が始まる」
おさげ髪の少女が、長い黒髪をそのまま流した少女と並んで歩いている。まだ幼さの残る相貌に、不安と期待がないまぜになった笑みを浮かべ、二人は何事か囁き合いながら男と少女の前を過ぎ去っていく。
男は、歩み去る二人の背の向こうを見ている。音もなく落ちてゆく花の中、今ではない場所を。
「それにしても、へったくそな字!」
見て、と少女は手にしたままだった手紙を男へ向けた。柔らかな半紙は所々に墨が付き、皺が寄っている。お世辞にも上手とは言い難い文字は、それでも精一杯丁寧に書かれているのだろう。一文字一文字がしっかりとした筆の運びで書かれていた。
「何回見ても笑っちゃう!」
「こらこら」
男の浮かべる表情とは違い、少女の笑みは晴れやかだ。
「あいつ、何十年も生きてた癖にひらがな一つまともに書けなかったんだ」
「でも、こうして手紙を書けるまでにはなったんだ」
「うん」
ぼくのために。少女は呟く。
「そうだね。君のために」
桜の木々が、ざわりと鳴いた。男は天を振り仰いだ。
舞い踊る桜の雨に、あちらこちらから歓声が上がる。
少女の手の中、紙片の上にも薄紅の雨は降り注いでいた。色のない手紙の上に、花弁はぽつりぽつりと色を添えていた。しかし少女は意識しない。
少女の意識は、白と黒に向けられている。
「じゃあ、そろそろ私は行くよ」
「うん。またね」
笑みと言葉を交わし、男は少女に背を向ける。競い合うように坂道を駆け上る少年たちが、その脇をすり抜けていった。
少女は長椅子に掛けたまま、再び紙片に目を落とす。もう何度となく辿った文字を、再び辿る。
鳥の子が、どこかで鳴いている。揺れる枝は、小鳥の重みか春の風か。
ふと、金髪の少女の視線は坂を下る。淡い日差しの中、そぞろに坂を上る少年と少女。
黒の学帽に、白い薔薇を刺し。少年は、分厚い生地の外套に、薄紅の花弁を飾っている。
「玻璃」と、学帽の影から覗く瞳が呼んだ。人に馴れない、野良猫のような三白眼。しかしそこには、少女にだけわかる色がある。
金髪の少女は、踊るような軽やかさで立ち上がる。半長靴(ショートブーツ)のつま先は、役目を終えた花弁を舞い上げ、ひと時の命を吹き込んだ。
桜の雨は盛りを迎え。未だ止むことなく、降り続いている。
【了】
骸(むくろ)かぶりて恋する禍津(まがつ) こばやしぺれこ @cova84peleco
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