第42話 秋-15

 答えは、返されない。悲しいほどに穏やかな、秋の日差しだけが、しんしんと降り注いでいる。

 静止が感染したかのように、玻璃の思考は止まっていた。見下ろした雪千代の腹を貫いた刃を、ただ「除かなければ」と思った。

 刃に、手を掛ける。指先から染み入るのは、全てを断ち切る冷気。ぞっとする手触りに構わず、握りしめた。力を込める。虎の尾のような横縞の刻まれた刃は、はじめからそうであったとでも言うかのように、動かない。

「だめだ」と、その刃に、雪千代に、言い聞かせるかのように呟いていた。染み入る冷気が、指先から痛みとなって玻璃の感情を焼く。滲む視界は、痛みのせいか、それとも。

「お願い」

 じわりと滲み、染みだしたのは、鮮烈な赤。霜が降り、尚鮮やかな紋様を浮かべる刃を伝い、落ちるのは命の色。

 玻璃は、己の指が、手のひらが刻まれるのも厭わない。

「いかないで」

 その身体は、目の前にある。しかしその本質とでも言うのだろうか、雪千代自身が、どこか遠くへ行ってしまうという予感。痛みではなく、寒さでもなく。

 ただその予感に、玻璃は震えていた。

「いかないで……!」

 己の身に宿した力の全てを込め、玻璃は握りしめた刃を押す。己の手と共に、魂で。

 刃は、遠くへ。愛しい人は、傍らへ。

 押しやり、引き寄せる。強く、強く想いを込めて。

 瞬間。玻璃の耳を刺したのは、雷のごとき破砕音。

 獣が鳴らす牙の音、空を彩る雷鳴に似た音は、人の形を成した氷像から生まれていた。

 こっちへ、と。玻璃は知らず呟いていた。言葉で、彼の人を『引き寄せる』。

 雛が生まれ出る瞬間、破り捨てる殻のように。雪千代の身体を包み込んでいた薄氷はこぼれ落ちる。胸の真ん中を掴んでいた右の手が、折れた軍刀を下げていた左の手が、己の腹を貫く大刀に掛かる。氷華を散らし、後退る身体は虎の尾の軛から解き放たれる。

 流れ出る色は無い。血は、既に凍りついている。

 大刀から逃れると共に、雪千代の身体は背中から地へと落ちる。落下の寸前、玻璃は己の身体を割り込ませ、抱きとめた。

「雪千代」と呼ぶ声に、微かにだがその唇は吐息を返す。

 雪千代、と再び玻璃は呼ぶ。

「ぼくの側に」

 雪千代という存在を、言葉で引き寄せる。それは玻璃の、玻璃に与えられた加護の本質だった。繰り返し、繰り返し、呼ぶ。呼びながら、凍りついた身体を抱き寄せた。自らの熱を、命を、分け与えるように、強く、強く抱く。

 寄せた頬は変わらず冷え、固まっている。だがその存在は、玻璃が呼ぶ名と共に、確かに玻璃の腕の中にあった。

 ああ、という、溜息に似た声。それは声であり、音であった。ただ、肺から漏れでた空気が、喉を鳴らしたにすぎない音。

 それでも玻璃は、抱きしめた雪千代から視線を跳ね上げる。

 鮮血が凍り、固まり、こびりつき鈍色と化した大刀の先。右の腕から肩にかけてを大きく欠落させた少女の像が、そこにあった。

 音は、薄く開かれたその唇から漏れでたものだった。

 残された左の腕は、何かを求めるように伸ばされていた。翻ったまま凍りついた振袖は、色鮮やかな菊の花を咲かせている。そこからはらはらと落ちるのは、花弁ではなく、薄氷。

「十三階位」と、その少女の唇は紡いだ。

 いつか聞いた記憶はあるような気がしても。玻璃には、耳馴染みの無い言葉だった。いぶかしげに眉を寄せる。

「共に」

 と、続けられた言葉。反射的に、玻璃は口を開いていた。


「おまえは一人で死ね!」


 腹の底、魂の底からの叫びだった。雪千代へ向けるものとは真逆の言葉と意志。己で出した声であるはずが、己の耳がきんと痛んだ。叫ぶと同時に、玻璃は雪千代を抱く腕に力を込めている。誰にも渡しはしないと。腕の力で主張する。

 少女は、ぼうとした表情を晒している。響き渡った玻璃の声を契機としてか。凍りついたその身は、ゆるやかに崩れ落ちていった。



 崩れ落ちる世界の中、それは歌うように呟いている。

「あなたはまだ、第一階位の夢に遊ぶことを選ぶのね」

 それは、かつてあった形を忘れていく。腕があり、足があり、思考し、何かを「愛しい」と思ったことの、全てをこの世に置き去りにする。

 形を崩されたことによって、『それ』はまた何かに宿るはずだった。だが『拒絶』されたことにより、器を与えられずに消えていく。

 ただそこに『在る』、世の理に還っていく。

「さようなら。またいつか、形を得たら会いましょう?」

 唇を忘れる寸前。それは、うふふ、と微笑んでいた。



 「おじょうさま」と、うわ言のような呟きと共に、一砂は全ての動きを止めていた。強く冷たい風が、一瞬だけ吹いた直後のことだ。

 幾度もの打ち合いの最中、晒された隙。実篤はその瞬間を逃さない。最小の動きで振り上げた愛刀を、鋭く打ち下ろす。

 うめき声一つ上げず、一砂は膝をついた。力の抜けたその手から、鋸刃の短刀は涼やかな音を立てて逃げていく。花びらのように散ったのは、鮮やかな赤。

 切っ先を真っ直ぐに向け、実篤は一砂を見ている。自身の荒い呼吸の音だけが、耳につく。

 一砂は、向けられる刃には目もくれず。ただ、上を――神社を、見上げている。

「星薙尉三!」という叫びが、実篤の背後から駆けてくる。

「実篤」と呼ばう声が、一砂の後ろから投げかけられる。

 切っ先は向けたまま、実篤は石段をゆっくりと降りてくる宇木那を見遣る。その表情から、終わったのだな、と悟った。

 駆けつけた円井が取り押さえる間すら。一砂は、神社を見上げたまま、凍りついたように動きを止めていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る