第41話 秋-14

 軍刀を振るい、『静止』の力を使うごとに、静止の予感は高まっている。一息ごとに、内側から凍りついていくようだ。しかしそれと同時に、振るう力はその威力を増している。凍りつかせた少女の指先が、未だ大刀の柄に張り付いたままでいるのが、その証明だ。

 雪千代は、肥大化する『何か』を受け入れた。その代わりに、『何か』の力を最大限、利用する。

 これが最後だろう。雪千代は胸の真ん中を握りしめる。まだ止まってくれるなよ、と己自身に言い聞かせ、恋人に駆け寄るかのような少女の微笑みに相対する。

 自分も、少女も、境なく。

「止まれ」と、吠えていた。

 雪千代は、己の中の『何か』が、歓喜に打ち震えるのを感じていた。静止の力は『何か』自身。その解放を、『何か』は純粋に喜んでいる。

 少女は目を見開いたまま、止まっている。翼のように広がった艷やかな髪が、細い体躯を彩る着物が、袴が、細い指の添えられた大刀が、固まっている。

 空気が、降り注ぐ陽の光のひと粒ですら、凍りついたかのような、静止。

 雪千代を中心とした、放射状に。静止の世界――一面の銀景色が、広がっている。凝縮された冬が、少女を縫い止め。秋のゆるやかな日差しに照らされていた。

 全てが凍りつき、固まり、静止した世界の中。ただ一人、雪千代だけは動いている。霜が降り、軋む脚を引きずり、雪千代は凍りついた少女へと歩みを進める。胸の真ん中を掴んだ手はそのまま、左の手には軍刀を下げている。軍刀の輝きはすでに失せ、幾度もの打ち合いで欠けが目立つ。死にかけたその刃先は、氷盤に一筋の傷を残し、雪千代の歩みに従う。

 一つの氷像と化した少女に、雪千代は向き合う。その右の手は、心臓を掴んだまま凍りつき、吐く息は細かな氷の粒としてこぼれ落ちる。

 つもり積もった雪の層に、初めて足を下ろす音に似た、軋み。緩慢な動作で振り上げた左の腕を、雪千代は大地に引かれる速度で振り下ろす。


 奏でられる破砕は、和音。


 ふふ、という微笑は、静止に縫い止められたはずの少女の唇から生まれていた。

 薄氷に抱かれた少女は、半身を砕かれている。陶製の人形に訪れた不幸に似た、死。ひとつの破砕は、雪千代の振り下ろした軍刀によってなされていた。

 そして和音を成した、もう一つの破砕。

 雪千代の背を覆う、黒の外套。分厚く、今は幾度もの剣撃で傷を負ったその闇色の布地から、若木のように生えるものがある。ぬらり、とした色彩にまみれ、それでも尚虎の尾に似た刃紋を輝かせる大刀。

 刃を彩る赤が、端から凍りついていく。落下する赤の雫が、宙空で凍りつき、硬い音を立てて転がる。

 全身を凍りつかせ、半身を砕かれ。しかし少女は、雪千代の頬に触れる。

「ごきげんよう、第十三階位」

 雪千代の中で静止していたはずの、感情が生まれていた。それは雪千代の感情であって、雪千代ではない。腹を突き通る、大刀から生まれている。毒が染み出すように、大刀から流れでた感情が、雪千代を塗り替えていく。

 それは、今までに感じたことのない思考だった。怒りと、焦燥と、嫉妬と、悲しみと、寂しさと、そういった感情を一つに纏めたような。

 その感情の行き着く先の意思は。


 全てを止める、ただひとつの目的に到達していた。


 目を見開いたまま、雪千代は動けなかった。すでに、内側から外側まで、凍りついてしまっている。感情すらも、もう欠片しか残されていない。

 ああ、終わってしまうのだな、と。ただただ虚無だけを感じていた。

 半身を失った少女は、それでも嬉しげに残された手を伸ばす。

「会いたかった」と、その唇が呟いた。

 続けられる名は。



 雪千代、という声にかき消される。



 残り十数段。肺が、燃え上がりそうな熱を持ち、痛む。それでも息を吸い、吐き。玻璃は石段を蹴る。見上げる先の石段は途切れ、ひたすらに高く青い空と、拝殿の屋根が見えている。

 何の予兆もなく、風が吹いた。秋の穏やかな空気が、瞬間的に荒れ狂う。その風は、肌を切る冬の気配を孕んでいた。額に、頬に浮いた汗を攫う豪風。一瞬だけ怯み、玻璃は手にした日傘を広げる。月桂樹の君の加護は、冷気の暴力から玻璃を守る。

 風の勢いは凄まじく、玻璃の身体はたやすく揺さぶられる。空気の圧に押され、半長靴(ショートブーツ)の靴底が滑る。石段を転げ落ちそうになり、たたらを踏んだ。

 その手から、日傘が攫われる。

「あっ」と声を上げ、玻璃は上空を振り仰いだ。蒼穹に吸い込まれるように舞い上がっていく、日傘。

 小さくなる影を一瞬だけ見送り、玻璃はすぐに向き直る。残りの石段を、一息に駆け上った。


 そこには、一面の銀世界が広がっていた。大社から、石畳の広場、灯籠、神木。全てが凍りついている。

 吐く息は白くけぶり、ほてった頬を冷えきった空気が撫でる。季節が、ひとつだけずれてしまったかのような、別世界。空の高さと青さだけが、季節の正しさを主張している。

 見回す視界に、それはすぐに飛び込んできた。広場の真ん中に据え置かれた、氷像の一塊。それは、ふたりの人間だ。寄り添うのは、黒髪の少女と――

「雪千代!」

 叫びは、意図せず漏れ出していた。崩れそうになる膝を叱咤し、玻璃は走る。凍りついた石畳は、半長靴(ショートブーツ)の底を容易に滑らせる。転び、膝を打つ。痛みに構ってはいられない。すぐさま立ち上がる。

 猫のようにつり上がった三白眼が、肉付きの薄い頬が、常にへの字に曲げられていた唇が、柔らかく渦を巻く髪が、存外に柔らかな手が、いつか抱き寄せた胸が、凍りついている。その身へ触れた玻璃の手に、生命の温もりは返されない。

 取り縋った身体の、全ての時が止まっていた。

 雪千代、と再び呼ばう声は、玻璃の思う以上に震えていた。

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