第40話 秋-13

『何か』は、雪千代が雪千代自身を認識した時から、雪千代の中に巣食っていた。雪千代が意識せずとも使えるようになっていた、『静止』と『氷結』の力。その源が、『何か』であることを、雪千代は誰に聞かずとも悟っていた。

 その『何か』が肥大化していることに気付いたのは、一年ほど前だった。雪千代が力を行使する度に、『何か』は雪千代の中で蠢き、雪千代自身の意識を圧迫する。日増しに強くなる『何か』。それと同時に、常に感じていた冷気は強くなり、世界を認識し浮かび上がる怒りや、喜びや、悲しみ――感情すらも凍りつき始めていた。

 玻璃は、「大人になったね」などと喜んでいたが。雪千代は、ほとんど静止した感情の中で、今までに感じたことのない恐怖を覚えていた。

『何か』は、やがて雪千代を押しつぶし、雪千代に成り代わる。いつになるかはわからない。しかし確実にその時は近付いている。

 死ぬのではなく、消える。自分が消えた後も、『何か』が自分に成り代わって存在を続ける。そのことが、怖かった。

 その恐怖を、玻璃といる時だけは忘れられた。理由は、雪千代にはわからない。ただ、あの陽光に透ける金の髪を見る度、はしばみの瞳に見つめられる度、「雪千代」と呼ばれる度。『何か』に押しつぶされそうになる雪千代自身が、息を吹き返すような気がしていた。

 しかし。

「第十階位」を名乗る少女は、雪千代の光を殺すと宣言し、雪千代の中の『何か』を「十三階位」と呼んだ。名前を得たことが影響しているのだろうか。玻璃と共にあることで抑えられていた『何か』は、再び雪千代を蝕んだ。

 雪千代が、玻璃に呼ばれる度に生き返ったように。『何か』は、少女に「十三階位」と呼ばれる度に、雪千代の中で膨れていく。

 雪千代の中の『何か』は、すでに雪千代自身にはどうすることもできない程に肥大化している。雪千代が消えた時、『何か』は玻璃をどうするのだろうか。

 雪千代には、『何か』が何を考えているのか、そもそも考える意識を持っているのかすら、わからない。わからないが、玻璃にとって害にしかならないであろう予感はあった。

 雪千代の光。温かで、眩しく、柔らかな存在。

 害をなす「第十階位」、そして己の中の『何か』を、雪千代は切り離せない己ごと消すと決めていた。

 玻璃の幸福のために。


「私たち、こうして何度も殺しあっているのよ?」

 楽しかったわぁ、と歌うように告げる少女は、夢を見ているかのように目を細めていた。

「あなたが居なくなって、ずっとつまらなかったの」

 雪千代の力の余波で、石畳の広場は一面が凍りついていた。冬の湖面のような、一面の透き通った青。その中を、少女の丸いつま先は一歩一歩確実に踏みしめる。

「あの男の声が聞こえた時は、ちょうどいい暇つぶしになるかしら、って思ったの。対価なんてものはいらなかったから、この抜け殻を借りて」

 刀を持たない右の手で、己の胸に触れる。少女は己に触れながら、まるで無造作に腕を振った。

「あの男は、この抜け殻がこうして動いて、存在しているだけでいいって。そう望んだから。

あの男が死ぬまでの間ちょっとだけ、こちら側を体験してみようと思って。あなたが消えたこの世界を」

 存外悪くなかったわ、と呟いた少女の瞳に、薄く影が落ちる。何を思い出しているのだろうか。視線は彼女の足元に落とされている。

 思い出したかのように、風が吹く。少女の黒髪が広がる。

「でももう充分」

 叩き落とされた硝子の断末魔に似た、轟音。少女の小さな足先の一歩が、氷盤を一息に破壊する。

 殺される、静止の世界。

「私の本質は、死と殺意。私に出会った全てに平等な死を与え、殺意の種を蒔くのが私」

 舞い上がった薄氷は、かつての春の夜の嵐のように、降り注ぐ。黄昏の空、忍び寄る夜が投げかける、いくつもの星の輝きに似た、煌めき。死にゆく氷盤は、穏やかな秋の日差しの中、輝きだけを残して逝く。

「十三階位の本質は、静止と氷結。全てを氷壁の向こう側へ閉じ込め、時を止めるのがあなた」

 左の手に携えた刃を、少女は真っ直ぐに雪千代へと向ける。白い頬に微笑を乗せ、瞳には愛しさを。

「人の言葉で言うのならば、愛しい、というのかしら。あなたが愛しいと思ったもの、全てを止めてあげましょう?」

 言葉では答えない。雪千代は、ただ吠えていた。凍り、固まり、ほとんど静止した感情を震わせる、その叫びが答えだった。

 大上段から振りかぶった一撃を、少女は左腕だけで受けた。軌跡をたどる冷気が、激突の瞬間に凝固し少女の大刀を、指先を、侵食する。少女は指先を凍らせたまま、刃を返し雪千代の軍刀の下を滑る。金属同士が噛み合い、摩擦する涼やかな音。雪千代の軍刀は下へ、少女が返した刃は上へ、すれ違う。

 振り下ろした勢いをそのままに、雪千代は前方へ身体を転がす。背中を削ぐ気配がすり抜ける。切り裂かれたのは、黒の外套だけだ。転がりながら身体をひねり、雪千代はあくまでも少女へ前面を向ける。膝をついた姿勢のまま、切っ先は少女を指す。

 少女の両の手は、大刀の柄に添えられている。下から掬い上げる刃の軌跡を、雪千代はしゃがみこんだ態勢から後ろへと跳ぶことで避ける。背後へと跳ぶ雪千代を追い、少女は返す刀を打ち下ろす。態勢の整わない雪千代は、受けることなく避けに徹する。呼吸、そして斬り殺される宙空が鳴き、虎の尾の名を冠した大刀は銀色の残像だけを残す。

 三度の後退を繰り返し、雪千代は息を整えた。もうどれだけの間動き回っているのか、覚えてはいないが。忙しない呼吸に対して、心臓は平時と代わりのない速度で動いている。

 雪千代には人の身体の仕組みはわからない。わからないが、経験から心臓の働きが圧倒的なまでに足りていないことだけは、予感していた。

 内側の『何か』は、内臓から雪千代を静止させようとする。

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