第39話 秋-12
咄嗟に投擲した杖は、狙い通りに男の脇腹を打った。隙を作るのは一瞬でいい。実篤には、それで充分だ。
揺れる宇木那の視界の中で、逞しい足が振り上げられる。男が、実篤に蹴り飛ばされる。土埃。
倒れた男から視線を外さず、宇木那は駆け抜ける速度で杖を拾い上げる。靴底と地面との摩擦で速度を殺し、停止。
「怪我は」
「軽い」
並んだ実篤の気配は硬い。ちらと向けた視線の先、実篤の切り裂かれた軍服が目に入る。瞬間、宇木那は心臓が跳ね上がるのを感じた。しかし見たところ、申告通りの軽症だ。ひとまずは安堵する。
舞い上がる土煙の中、ゆっくりと立ち上がる影がある。
ぎしり、という軋む音。実篤が握る愛刀の柄から、その音は聞こえた。倣うように、宇木那も杖に仕込まれた刃を抜き放つ。
「加勢する」
「……すまない」
ふた月ぶりの邂逅は、簡潔な言葉で済まされた。
「ごめん!」
謝罪の言葉と共に、二人の脇をすり抜けていく金色の光がある。きらめくのは、汗か陽光に透ける金の髪か。弾む息遣いだけを残し、玻璃は神社へと続く石段へと駆けて行く。
「彼女を神社へ」
玻璃に代わり、宇木那は玻璃の目的を告げる。神社に何が、とは問わず、実篤はただ頷き、理解を示した。
小さな体躯のどこに、そこまでの体力が秘められていたのか。玻璃は屋根を駆け抜けた時の速度のまま、地を蹴り走る。片方だけの視線は、ただただ前方を、目的の地を見つめている。
地面に打ち付けたのだろうか、短刀を握ったまま頭を抑える一砂が、傍らをすり抜けた玻璃へ遅れて反応する。
しかし、がむしゃらに振った短刀は玻璃へは届かない。振り乱される着物の袖と、蹴り上げられる袴の鮮やかさだけを残し、玻璃は振り向かない。
「いかせはせん!」
男が吠える。横薙ぎに振りぬかれた右腕が、血のしずくを撒き散らす。濃く、沈んだ赤が、陽光を鈍い輝きとして弾く。
対峙する短刀の男と、その向こうを駆けて行く玻璃、玻璃が向かう石段。宇木那の視界に映る世界に、ゆらり、と陽炎のような動きが生まれた。それは、人だ。今の今まで、石段に同化するかのように倒れ伏していた人物が、立ち上がったのだ。宇木那には、なぜ彼らが石段に倒れていたのかはわからないが、ひとつ、ふたつ――片手では足りない。だが、両手では余る数。まるで生気のない動きで、彼ら彼女らは石段を降りていく。その行く先には。
「玻璃ちゃん!」
認識と同時に宇木那は叫んでいる。そして耳には、火花を散らす激突音。実篤の軍刀と、男の短刀が噛み合ったのだ。
宇木那は駆け出していた。革靴の底で地を蹴る瞬間、その瞬間を寸断した刹那、宇木那は己の禍津日に叫んでいる。
「力を貸してくれ」と。
『もちろん』という答えは、瞬時に届けられている。
信仰で結ばれた禍津者と禍津日は、魂を共有しているに等しい。禍津者の思考は、禍津日へ。禍津日の思考は、禍津者へ。刹那の間もなく届けられる。
『玻璃は、遊んでくれるから、好き。助けるのは、当然』
皮膚一枚下の神経に、草木が直接根を張るような、ずぐりとした重い痛みが走る。両手の指先、両足の先から、腕に、脚に、痛みは這い上がる。痛みの後、感覚は消失している。
見ずとも、その痛みは血の色の痣として顕現しているのを、宇木那は知っている。
宇木那は、己の自由を対価に、人ならざるものの力を借り受ける。
彼女の禍津日の力を使ってだろうか。玻璃は、一足飛びに数段を抜かし、石段を昇っていく。ゆらゆらと揺れる、生気の抜けた人々の群れは、彼女へ手を伸ばしている。すんでの所で彼女は手をかわし、駆けて行くが。
舞い踊った振袖に掛かった女の腕を、宇木那は切り飛ばしている。振りぬいた勢いのまま、首を。血の抜けた女の表情は、変わること無く石段を転がり落ちていく。遅れて崩れ落ちるのは、右腕を失った身体。
『殺す?』という問いへ、宇木那は是と返していた。躊躇は無かった。この殺意が、彼ら彼女らの本当の意思では無いとしても、確実に止めるためにはこれしかない。そう確信していた。
だから、己の禍津日へ「殺そう」と告げている。
玻璃の半長靴(ショートブーツ)のつま先が、小気味良く石段を蹴りつけていく音を背に受け。宇木那は、大禍津日は、仕込み刀を構えている。
向けられる、純粋な殺意を殺すために。
寒い。と思った。同時に、寒いのだろうか? という疑問符も生まれている。雪千代は、血の気の抜けきった手に握りしめられた軍刀を、どこか他人事のように眺めている。振りぬいた軍刀の軌跡は、軋んだ音と共に氷柱として顕現する。透明な色彩は、冬を思い起こさせる。その向こう側で踊るのは、鮮やかな紅。
ガラスの破裂するような音。砕け散った氷塊は、きらきらと光を乱反射し、舞い踊る。降り注ぐ氷華の中、突き出される鋭い突きを受け流す。耳障りな金属音。回避は、衝撃を代償になされる。ぐ、と奥歯を噛み、雪千代はその刃の先を見据える。
闇色の髪は、豊かな川の流れのように。黒曜石の瞳は甘く濡れて。唇は紅を刷かずとも淡く色づいている。少女は、淡く微笑んでいる。
その手の刃に、有り余る殺意を乗せて。
「止まれ」と、雪千代は言葉ではなく意思で吠えている。
行使する静止の力は、氷結の形で顕現する。流れる少女の黒髪が、舞い踊る半長靴(ショートブーツ)のつま先が、無骨な大刀の柄に添えられた細い指が、霜に覆われる。
だが。
「楽しいわ」
微笑み一つと共に、全ては消え失せる。雪千代の行使する力が、『殺される』。
逸らされた軌道に逆らわず、少女は流れるように身体を回す。広がるのは絹糸のごとき黒髪と、菊花の咲き乱れる振袖。再びの一閃は、回転の勢いと共に雪千代の軍刀に叩きつけられた。刃が、悲鳴を上げる。
押されるがままに数歩を下がり、雪千代は軍刀を構え直す。身体の真正面に、少女にその切っ先を向けて。
刃の邂逅は、細かな傷を雪千代に与えている。頬が、肩が、腿が、裂けている。だが、そこから流れる血の色は、無い。血は全て、傷口を覆うようにして凍りついている。
「覚えているかしら、十三階位」
少女はあくまで、雪千代を十三階位と呼んだ。その名前を耳にする度、雪千代の中の『何か』が身じろぎ、雪千代は酷い不快感を覚えている。
だが、今の雪千代には、それを否定する余裕は無い。
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