第38話 秋-11

 溺れている、と玻璃は思った。

「宇木那さん!」

 押し合い、ぶつかり合い、それぞれがそれぞれの行く先へと流れていく。人の洪水が起きている。その中を、白髪交じりの頭は浮き沈み、流されている。

 叫ぶ玻璃の声が届いたのか、宇木那が顔を上げる。その顔は遠目に見ても青ざめていた。

「人混みは苦手なんだ」と、苦々しく呟いた彼の言葉が、脳裏をよぎる。

 玻璃は彼へ向かい、日傘の石突を向けた。

「跳んで!」

 腹の底から声を上げ、玻璃は己が立つ屋根瓦を傘で突いた。次いで、再び宇木那を指す。細かな意思は、言葉では伝えきれない。玻璃は、動作に自らの提案を乗せる。

 押され、よろけながらも、宇木那は玻璃へ確かに頷いて見せた。ぐっと一度、細い体躯が人波の中へ沈み込む。

 跳んだ、と判断した瞬間、玻璃は傘の石突を跳ね上げた。動作と共に、宇木那を『引き上げる』。

 放物線を逆にたどるようにして、宇木那の身体は玻璃の立つ屋根へと跳んだ。振り上げた日傘を手元に引き戻し、玻璃はその動きを目で追っている。

 二、三歩たたらを踏むが、宇木那の革靴はしっかりと屋根瓦を踏んだ。

 人の身では到底成し得ない高さへ跳び、屋根へと降り立った宇木那に気付いたのは、数人しかいない。気付いたとて、どうすることもできず。彼らはまた、人の流れに呑まれ、流されていく。

「神社へ!」

「わかっている」

 おぼつかない足元は、玻璃へ答えを返すと共に安定した。手の杖はつかず、玻璃の日傘のように小脇に抱え、走る。

 半長靴(ショートブーツ)と革靴が屋根瓦を踏み、蹴り、小気味の良い音を立てた。

「君の禍津日に会ったよ」

 駆ける最中、宇木那はぽつりと告げた。

「惚れた?」

 自らの視界で踊るものよりも、少し色濃い金の髪を思い浮かべる。美しい、という言葉を絵に描いたような姿を思い、玻璃は宇木那へいたずらな少年のように笑いかける。

「あやうく」

 答える宇木那もまたいたずらに笑い、肩をすくめた。

 同時、宇木那は

「嘘だよ。すまない」と虚空に向かい苦笑した。

 拗ねる幼子へ向けるような、眉尻を下げた表情。玻璃は、宇木那の仕立ての良いウエストコーストの肩を見遣る。日頃定位置としてる場所に、その柔らかな塊は見当たらなかった。

 大禍津日は、いつものように荒事を得意としていない宇木那の補助に回っているようだ。そう判断する。

「実篤はすでに到着しているらしい」

「ママから?」

「ああ。聞かされた」

 建物と建物の間、細い小路が現れ途切れる屋根を跳び、二人は同時に瓦を踏む。足場は悪いが、人を掻き分けるよりはましだ。

「雪千代もいるみたい」

「そうか。お互い急いだ方がいいみたいだ」

 投げる視界の先、屋根瓦が途切れる。駅前の大通りが、街道へ合流する地点。長い、長い石段の始まり。

 山裾が、目の前に迫っていた。


 実篤は戸惑っていた。愛刀を握りしめる手に、嫌な汗が浮いている。

 人の流れは途切れて久しい。向かい合う二人を囲むのは、巻き上げられた土埃と遠くから聞こえる雑踏のざわめきだけだ。

 なぜ、退かない。実篤は再度、口には出さず問いかける。それは、目の前の男に向けたものであり、己への問いでもあった。

 実篤の知る一砂は、隠密行動を得意とする男だった。昼日中、こうしてお互いに姿を晒し切り結ぶ戦いではなく。暗夜、闇に乗じて背後から首を切り裂くような――。

 もう一つの口のように、首にばっくりと開いた傷を負った遺体が脳裏に浮かび、実篤は愛刀を強く握りしめた。

 一砂は、極力一対一で向かい合う戦いを避けていたはずだ。このような場面では、一度身を隠し期を待つ男ではなかったか。

 実篤の戸惑いを知ってか、知らずか。一砂は逆手に持った短刀を顔の前で構え、黙している。陰から覗くのは、短刀と同じ光を宿す目。だらりと下げられた右腕からは、未だ出血が続いている。即座に命へ関わりはしないが、動かすことはままならないだろう。そのように、実篤が斬った。

 今まで、実篤はいくつもの戦地に立ってきた。各地で蜂起した、反天帝を掲げる勢力や、盗賊を生業とする者たち。居直り強盗や、妻に逃げられた博徒といった者と対峙したこともあった。

 その中の誰も、実篤に切り裂かれ、立っていた者はいない。殺したことは、何度もある。だが大抵は、一太刀でみな手にした得物を落とし、戦いを放棄していた。

 実篤は、戦意を失った相手を傷めつける事を良しとはしない。殺すか、殺されるかの場であっても、それは変わらない。殺さずに済むのであれば、そうしていた。

 一砂も、そうだ。できれば、ではなく。何としても、生かして捕らえねば。そう実篤は考えている。

 一砂は「己こそが殺人鬼だ」と口にしたが、それが嘘であることはわかりきっていた。

 ふた月前、女学生が殺害されたあの時。実篤は一砂を独断で見張っていた。事情を話し、円井にも協力させ、監視は絶え間なく続けていた。一砂は、彼女を殺していない。

 一砂は、殺人鬼ではない。しかしその口ぶりからして、殺人鬼を知っている。

 殺人鬼の正体を暴き、それからしかるべき罰を受けさせるのが、実篤の使命だ。無意味に殺すことではない。

 しかし相手を生かして捕えるのには、実篤の持つ得物は鋭く、長すぎた。

 納刀し、素手で捕らえるか。己で己に問い、即座に否を返す。

 短刀の輝きは失せてはいない。実篤は、一砂の力量を過去のものとはいえよく知っていた。片腕であるが、無謀すぎる。

 逡巡を読んだのか、一砂が強く踏み込んだ。反射的に振るった刀は空を切る。迷いは、そのまま剣筋に出てしまう。大振りな横薙ぎ一閃をかいくぐり、一砂は実篤の懐に飛び込む。すんでの所で躱した突きは、実篤の制服と腹を切り裂いた。焼ける痛み。しかし傷は浅い。

 飛び退る実篤を一砂が追う。首を狙った一閃は愛刀の鍔近くで弾いた。硬質な音。反射的に袈裟懸けに斬りつけかけ、理性がそれを押し留めた。――殺してしまう。

 至近距離で視線が交錯する。視界の隅で煌めくのは、土埃かそれとも。

 実篤は、一砂の短刀を思わせる瞳が笑ったような気がしていた。

 馬鹿め、と声がする。それは一砂の声だ。しかし、目の前の一砂の口元は強く引き結ばれている。

 まぼろしの、声。

「実篤!」

 次いで届けられたのは、鼓膜を直接揺らす声だった。

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