第37話 秋-10
逆手に日傘の胴を掴み、鈎状になった持ち手を男の足に掛ける。瞬間で地面と男の間の『引力』を弱め、玻璃は全力でもって日傘を振りぬいた。悲鳴を上げる暇も無く、男はぐるりと一回転、地へと叩きつけられる。振りぬいた勢いと共に回した日傘の柄を握り、『引力』と共に男へ振り下ろす。鈍い音。潰れた男の悲鳴。
「行って! 今日はもう寮から出ちゃダメだからね!」
白目を向いた男へ、とどめとばかりにつま先を叩きつけ。玻璃は背後にかばっていた女学生の一団へ叫んだ。立ちすくんでいた少女たちは、銘々玻璃へ礼を言うと駆けて行く。人波の中に消えていく彼女らを見送る玻璃は、今日何度目になるかわからない溜息を吐いた。額に浮いた汗を、手の甲で拭う。
「もう」やんなっちゃう、という呟きは、再度の悲鳴でかき消された。
迷わず地を蹴り、走る。大通りは、未だ人で溢れている。祭りの浮かれた空気の中、人波はゆったりとだが流れていたはずだ。しかし今は、そちらこちらで流れが留められている。
「やっ」
気合と共に、両の手で保持した日傘を横ざまに振りぬく。背を打ち据えられた若い男が、短い悲鳴と共にたたらを踏んだ。
男が振り向く。瞬間、玻璃は放り上げるようにして、身体ごと日傘を振り上げた。傘の胴ではなく、石突の先端で、男の顎の先を擦る。強かに打ち据えたわけではない。だが、それでも充分であることを玻璃は知っていた。
ぐらり、と男の身体が傾く。
倒れ伏す男の陰から現れたのは、商店の表戸に背をつけた少年だ。学帽に黒の詰襟は、護帝高等学校の学生であることを示している。怯えの浮かぶ表情はまだ幼く、昨年小等学校を出たばかりなのであろうことが伺える。
「大丈夫?」
少年に手を差し伸べ、玻璃はできるだけ柔らかく微笑んだ。
玻璃がこうして暴漢を打ち倒すのも、何度目になるかわからない。学生たちを寮へと誘導する傍らであったはずの暴漢退治が、今は本目的のようになっている。
雪千代もまだ見つけていないのに。浮かぶ焦りは胸の中に押しとどめ、通りかかる男子学生に少年を託す。
「よし」
騒ぎはあちこちで起きている。そのどれに学生が関わっているのかは、玻璃にはわからない。三雲の誘導にも頼れない今、できるのは己の目で確かめることだけだ。
きっと、雪千代もあのどこかで戦っている。確信は無く、ただ祈りに近いような思いを、玻璃は抱いている。
「お祭り、一緒に行こうね」と言った約束を、雪千代が何の理由もなく反故にするとは思えない。ならば、はぐれて再会できない理由は。学徒警察の職務ゆえにであれば、玻璃には納得できた。
だから。
「ぼくも頑張らないと」
半長靴(ショートブーツ)の踵を鳴らし、玻璃は溢れる人の流れに一歩を踏み出した。
「玻璃ちゃん」
その歩みを止めたのは、柔らかで甘い声。
「……ママ?」
その姿は、人混みの中にありながら埋もれることなく。
その声は、ざわめきの中にありながら耳をくすぐる。
陽光に煌めく金の髪。触れずともその柔らかさを主張する、赤い唇。上等な陶磁器よりもなお白く、滑らかな肌。
「来ちゃった」
はしばみと、すみれ色。向かい合う玻璃と同じ、二つの色を持つ瞳が、柔らかく細められた。
「どうしたの」
玻璃は、眼帯で覆われていない側の瞳を瞬かせた。小走りに駆け寄り、女の頭からつま先までをまじまじと見つめる。
竜胆の描かれた、深い紫の着物に包まれた肢体。細く、しかししっかりとした色香を蓄えた身体を支える、二つの足。女――月桂樹の君の、白い足袋と落ち着いた色の草履を履いた足を、玻璃はこの時初めて目にしていた。
驚きにそまった玻璃を前に、月桂樹の君はいたずらっぽく微笑んだ。
「百目鬼ちゃんが忙しそうだったから、お手伝いに来たの」
どこか幼気な表情を浮かべ、月桂樹の君はたおやかな身のこなしで身体を回す。
月桂樹の君が見据える先。そちらへ、玻璃が倣う。
大通りを満たす、人々の中。あちらこちらで血が流され、騒動が起きている。人は皆、自分のことで精一杯だ。傍らを歩く人が、何をしているのか。ほとんど意識していない。髪を振り乱した中年の女が、どこから拾ってきたのだろうか、太い棒を手にしていても。乱れた三つ揃いの男が、杖を引きずり歩いていても。若い男が、両の手に短刀を下げていても。誰も咎めることはない。
どこか虚ろで、闇よりも深い感情に染まった瞳が、玻璃と月桂樹の君を捉えた。
理由など無い。ただ、そこにいたから。だから殺そう、という。ひたすらに純粋な、研ぎ澄まされた『殺意』が、並ぶ二人へ向けられる。
「ママ」日傘の柄を握り、玻璃は構える。
下がって、と玻璃が口に出す前に、立ちふさがる背中がある。柳のように細く、しかし確かな威厳としなやかな力に満ちた、その背は。
「神社へ行って」
月桂樹の君が告げる。玻璃が今まで聞いた彼女の声の中で、最も静かな声で。
「あなたの大切な子を助けてあげて」
そして、最も切実な声で。
「……雪千代?」
「そう。早く。間に合わなくなる前に」
行って、という言葉が、玻璃の背を押した。
強く、強くひとつ頷き、玻璃はぐっと膝を曲げた。吸い込んだ息を吐くのと同時に、曲げた膝を伸ばし、跳ぶ。身体が伸び上がる直前、己と地面が引き合う力を『弱める』。
ふわり、と跳ねた玻璃は、開けた視界を得ている。遠く、中央駅から神社へと続く大通りが、周囲に広がる商店が、家屋が、一望できる。
そしてつま先が屋根瓦を踏む。
「ママ、行ってきます!」
大通りに面する商店の屋根へと跳んだ玻璃は、見上げる月桂樹の君へと叫ぶ。
そして、もう振り返らない。
ざわめきから離れ、連なる屋根の上を、走る。
「いってらっしゃい」
聞こえてはいないだろう、と確信しながらも、月桂樹の君は呟く。呟き、うふふ、と微笑んでいる。心から楽しげで、愛おしげに。
その笑みが、剥がれ落ちるように消える。
「人のものに手を出すなんて、悪い子よねぇ」
まるで何かに操られるかのように揺れる、三つの人影。中年の女と、男と、若い男。
「殺意を膨らまされちゃったのは、かわいそうだけど。でも容赦はしないわぁ」
語尾を甘やかに溶かしながら、その視線は鋭く光る。
白い指先が、その金の髪を結い上げた簪に掛けられた。引きぬかれる簪。豊かな金糸が解き放たれる。
「玻璃ちゃんのためだから、ママがんばっちゃう」
両の細指で掻き上げられた髪が、広がり、陽光に煌めく。秋の陽を乱反射するその金の髪は、やがてざわざわと蠢き。幾本も、幾本もうねり、連なり。硬質な鱗を持つ蛇の尾へと変ずる。
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