第36話 秋-9
駅前の大通りから続く、天帝大社(あまのみかどのおおやしろ)――神社への大階段。山を切り開き造られたその石段は、合間に休息できる広場を設けながら、山の頂上まで数百段続いている。秋祭りの日には、参拝の人が隙間なく続くのが風物となっている。
その人波が、石段を土砂崩れのように流れ落ちていく。溢れるのは、悲鳴と石段を踏み鳴らす足音。恐慌状態に陥った人々は、我先にと階段を駆け下りる。最中、転げ落ちる人がいる。転げた人に足を取られ、また落ちる人がいる。転げた人が後続に踏まれる。苦痛の呻き。落下の叫び。しかし、それに構う人はいない。皆、ただ階段を降り、逃げることだけに意識を向けている。神社から、離れることだけに。
十人ほどが横一列に並んでなお、余裕のある石段の始まりは、茶屋や土産物の商店が並ぶ広場になっている。溢れかえった人々は、そこから更に駅へと続く道へと流れ込んでいく。
人の濁流は、しかしある一点を避け流れていく。川の中洲のように、開けた小さな静止点。
「覚えているか」
人々のざわめきの中であってなお、その声は凛と通って届けられる。
一分の隙も無く、首元まで止められた詰襟。丹精な顔には、今は軍帽のつばがうっすらと影を落としている。腰に穿いた刀に手を掛け、実篤は男と対峙している。
「ああ」と、男――笹ヶ根一砂は、実篤の顔をじっと見つめ首肯する。
「おまえは殺人鬼ではない」
実篤は、切り払う強さで断言する。
「だが、ただ一つだけはおまえの仕業だ」
紺の着物に股引姿の一砂は、否定も肯定もしない。ただ、落ち着いた様子で実篤と向き合っている。
「背後から一息に首を掻き切る。あれはおまえの手腕だ」
一語一語を、実篤は噛みしめるようにして言葉にする。
「おまえは、無意味に相手を苦しめる殺しはしなかった」
それは、目の前の男に言い聞かせるようであり、実篤が己自身に言い聞かせているかのような響きを持っていた。
「おまえは、殺人鬼を知っているのか」
「知っている」
無に近い表情であった一砂が、口元を歪めた。
「俺だ。俺が全て殺した」
「嘘だ」
一砂の言葉を、実篤は打ち捨てる。
否定は、向き合う二人の間にひと時の沈黙をもたらした。
「……一体誰を庇っている」
軍帽の影から、実篤は一砂を見ている。未だ、刀は収められたままだ。しかし、その視線は抜き身の刃の鋭さを宿していた。
ふ、と一砂は笑った。
「おまえにはわかるまいな」
先ほどとは違う、どこか自嘲気味な、何かを諦め、全てを受け入れたような笑いだった。
「だが、ひと目見ればきっとわかるだろう」
笑みながら、一砂は両手を広げる。磔刑に処される罪人のように。
「この世には、失われてはならない美がある。永遠に保たれるべき、絶対の美が」
その表情は、全ての罪を背負い心中する決意を刷いている。
「何を言っている?」
「俺はそれを守るのだ」
決意が、殺意となり瞳に宿る。
鋸刃を背負う短刀が、一砂の懐から抜き放たれた。鈍く煌めくその鋭さを受け、実篤は腰の刀を解き放つ。
来てくれたのね、と少女は花咲くように微笑んだ。
大社の境内には、そちらこちらに人が倒れ伏している。苦痛と驚愕に目を見開き、絶命している宮司がいる。何かに縋るように手を伸ばし、動かなくなった女がいる。うずくまり、虚ろに横たわる男がいる。
その全てを、鮮烈な赤が彩っている。玉砂利が、抜け落ちた生命で濡れた音を立てる。静謐な空気は、むせ返るような赤の香気に満ちている。
「ごきげんよう、第十三階位」
少女は、開け放たれた拝殿の前、緩やかに続く階段に座していた。揃えられた膝に乗せられた、一振りの刀。臙脂色の袴に、大振りな菊柄の着物。その全てが、濃い緋色に彩られている。
開け放たれた拝殿の中は、雪千代には見えない。しかし、外と同様の濃い血臭に満たされているだろうことは、たやすく予測できた。
うふふ、と少女は抑えきれない笑いを上げる。
「あの子のことが、大事なのね」
断定系で語る少女へ、雪千代は否定も肯定も返さない。瞬きの間、人混みの中で別れた金色の髪を、ただ思うだけに留める。
「でも、私が蒔いた殺意の中で無事にいられるかしら」
いられるさ。言葉にはせず、雪千代は応える。細く美しい体に宿るのは、したたかでしなやかな魂だ。突然の殺意に晒されようと、損なわれることはない。そう確信していた。
「心配じゃなくて? 第十三階位」
「おれは、十三階位じゃない」
強く否定を返す。一度なら無視もできたが、二度目は我慢ならなかった。己を、己の中に巣食うものの名で呼ばれることは。
「いいえ。あなたは十三階位」
つややかな髪を背中へ流し、少女は立ち上がった。うっすらと笑んだ瞳は、雪千代を正面に捉え、離さない。
「今は違うかも知れないけれど。いずれすぐにでも、あなたは十三階位になる」
一段ずつ階段を降りる半長靴(ショートブーツ)は、濡れた足音を立てる。雪千代は動かない。拝殿の正面、玉砂利に囲まれ、石畳で覆われた広場に立っている。
「わかっているんでしょう? あなたは」
甘やかな響きと共に、少女は拝殿から広場へと降り立った。倒れ伏す人々には目もくれず、ゆっくりと歩みを進める。
「あなた自身が薄れていくのが」
袖に描かれた、艶やかな菊。鮮烈な赤で彩られた花は、大輪のまま時を止めている。
「力は止められない。あなた自身は、事象を司る器――禍津日になるの」
雪千代は黙したまま。分厚い外套の下で拳を握りしめている。
「それが禍津宿(まがつやどし)の、禍津日の力を身に宿した者の、宿命よ」
そうしていなければ、小刻みに震える手が止められそうになかった。
「でも、まだ足りない」
少女は手にした刀を抜いた。両の手を広げ、それでも足りず、鞘は一振りと共に打ち捨てられる。それは、雪千代が腰に下げた物よりも、反りが強く大きい。小柄な少女の手には余る、一振りの刀。
「十三階位は、五十年前にこの宝刀に封じられたと言われているわ」
その刃の輝きを、余すところなく雪千代へ見せるかのように。少女は横ざまに刀を構える。
「でもそれは半分正しくて、半分間違い」
刃のきらめきの影から、少女の丸い瞳が覗く。楽しげに、嬉しげに弧を描く瞳は、澄んだ夜の闇を湛えている。
「虎ノ尾禍弦(とらのおかげん)。この社に奉られた、天帝(あまのみかど)の宝具」
その刃には、うっすらと光を反射する縞がある。刃に刻まれたその紋は、いくつも刃を横断し――虎の尾のように、鋭く尖っている。
「あなたの半身よ」
うっとりと微笑む少女は、まるでその重さを感じさせぬ軽やかさで、雪千代へと切っ先を向ける。秋の陽が、宝刀を艶やかに照らしだす。
「あなたを完璧なものにしてあげる」
雪千代は外套を跳ね上げる。同時、抜き放った刀と共に冷気がほとばしる。
激音。切り結ぶ火花と共に、力は氷柱となり顕現する。
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