第35話 秋-8

 ざわり、と風にうねる稲穂のように、人波がうねった。きゃあ、と女か子供か、甲高い悲鳴が上がる。呼応するかのように、男の太い声も上がる。おい、か。こら、か。どちらにせよ、咎める響きを帯びている。

 人波が、割れる。

 現れたのは、ぎらりと光を帯びた刃。手にしたのは、興奮で顔を真っ赤に染めた男。何事かを喚くその男は、やたらめったらに包丁を振り回す。人々は、男とその手の包丁から逃げる。人の流れが乱れる。

 人波の中に、袴姿の女子生徒の一団を見つけ、玻璃は反射的に日傘を構えていた。人々の引いた空隙に躍り出る。踏み込み、男の肘を日傘の腹で打ち据えた。快音。ぎゃ、と短い悲鳴を上げ、男の手は痛みに緩む。陽光を反射する刃は、軽い音と共に地面へ落ちる。

 一拍の間。呻く男の手に、凶器は無い。そのことに気付いた群衆が、押し寄せる。男たちが中年の男を囲むのを尻目に、玻璃はちらりと女子生徒を見遣った。一塊になった彼女らは、胸に手を当て銘々何かをささめきあっている。どうやら怪我は無いようだ。玻璃は肩から力を抜き、日傘を下ろした。

「雪千代?」

 くるり、辺りを見回す玻璃。黒衣はどこにも見当たらない。どこに、と視線を彷徨わせる玻璃の耳を、再び悲鳴がつんざいた。

 人混みの向こうで、女がかんざしを振り回している。傍らに、腕を押さえた男。指の隙間から、赤が滲んでいる。手にしたものの危険性が少ないせいか、女はすぐに周囲の人間に取り押さえられた。

 続けざまに、また悲鳴。子どもが、子どもに殴りかかっている。困惑した表情で、母親だろうか、女が子を抱きしめる。それでもまだ振り回される小さな拳が、女を叩く。

 破砕音。屋台が崩れた、と誰かが叫んでいる。下敷きになった者がいる、屋台を崩して回っているやつがいる、続けざまに言葉が飛び交う。行き交う情報に、玻璃の意識が振り回される。

『来い』

 と、声が聞こえた。玻璃は聞こえた方角へ体ごと振り向く。誰も、玻璃を見ていない。だが、確実に声は聞こえていた。誰、と玻璃は思う。同時、雪千代は? とも思っている。聞こえた声は、雪千代のものではない。

『こっちだ』と声は言う。否、それは声ではない。意思だ。こちらへ来い、という意思そのものが、玻璃へ直接届けられている。

 玻璃は導かれるまま、人の海を泳ぐ。泳ぎながら、声の主を見つけていた。人いきれの中を漂う、小さな姿。

「どーめきちゃん!」

 手を伸ばし、小指の先ほどの姿を捕まえた。このままでは、人と人とに挟まれ、すり潰されてしまいそうだったのだ。

 潰さぬように、最新の注意を払い、手を握る。こそこそと手のひらをくすぐるのは、細い八つの足。百目鬼蜘蛛の眷属は、手の中から玻璃を導く。

 辻蜘蛛に連れられ辿り着いたのは、乗り合い馬車の待合所だった。三方を壁で囲い、屋根を乗せただけの簡素な小屋は、祭りに出歩く人々の休憩所となっていたはずだ。しかし今は、突然誰からも忘れ去られたかのように、ぽっかりと人の姿が消えていた。

 否、一人だけ居る。

「宇木那さん、おーまがちゃん」

 少々顔を青くした男は、どこか心配そうに触覚で頬を撫でる軟体を肩に乗せ、座り込んでいた。

「どうやら少々問題発生のようだよ」

 大丈夫? と問う玻璃へ、「人混みは苦手なんだ」と宇木那は呟いた。

『来たか』

 割れたガラスが話すような、軋んだ声。玻璃はきょとりと瞬く。聞き覚えがあるが、奇妙に歪んだその声は、宇木那の傍らから聞こえた。

 宇木那が座り込む木製の長椅子。彼の隣には、こぶし大の蜘蛛が乗っていた。玻璃の手のひらから、小蜘蛛がぴょんと飛び降り、その蜘蛛へと吸い込まれていく。

 小蜘蛛が寄り集まった蜘蛛――百目鬼蜘蛛は、割れた三雲の声で語る。

『そっちこっちで喧嘩が起きてやがる。一件二件ならまだしも、この半刻で十件以上だ』

「私も見たよ。皆急に暴れだしたようだった」

 宇木那の言葉に、玻璃も頷く。

「うん、ぼくも見た。急におじさんが包丁持って暴れてたり、女の人が男の人刺したり」

『祭りで喧嘩が起きるのは茶飯事だが、この多さはおかしすぎる』

 そうなの? と首を傾げる玻璃へは、宇木那が「そうなんだよ」と首肯する。

 続けて、宇木那は己の肩に乗る軟体にそっと触れた。

「大禍津日が言うには、どうも禍津日の仕業らしい。それも結構な大物だ」

「そうなの?」

 問う玻璃へ、大禍津日は触覚をぴんと立てて見せた。その全身は、「そうだよ」と主張している。

『軍は騒ぎを沈めるので手一杯だ。その禍津日が気がかりだが……お前たちはともかく、学生の安全を優先しろ』

「三雲が蜘蛛で誘導してはいるが、今は入ってくる情報が多すぎる。三雲にはそっちをさばくのを優先してもらって、私たちで学生を誘導しよう」

 手にした杖に寄り掛かるようにして、宇木那は立ち上がった。先ほどよりはいくらか回復しているようだが、その顔色はお世辞にも良いとは言えない。

 だからと言って、休んでいられる余裕が無いのが現状なのだろう。玻璃は眉を寄せる。

『ある程度誘導した後、禍津日探しだ。騒ぎを収めるぞ』

「わかった」「うん」

 宇木那を気遣うのは大禍津日に任せ、玻璃は頷くだけに留めた。柔らかな塊は、精一杯伸び上がるようにして宇木那の頬に擦り寄っている。彼か彼女かなりの、気遣いの形なのだろう。

『ところで羊毛頭はどこに行った。玻璃は一緒じゃなかったのか?』

 割れ、歪んでもなお苛立たしげな三雲の声。尋ねようと思っていた事柄は、三雲にもわからないのだと玻璃は知る。

「それが……」

「はぐれちゃったのかい?」

 うつむいた玻璃へ、宇木那が柔らかな声音で問う。こういった対応には慣れているのだろう。大禍津日の力もあるのかもしれないが、玻璃は素直に頷くことができた。

「そうか。私の方で、見かけたら玻璃ちゃんが探していたと伝えておくよ」

「うん、お願い」

 宇木那の手が、玻璃の肩に軽く触れた。あまり心配しすぎないで、とその手のひらは語っている。傍らの大禍津日も、その体色を緑がかった黄色に染め、触覚を揺らしていた。

 ふ、と玻璃は笑った。

『オレにはあまり期待してくれるなよ。今でも手一杯だ』

「わかってる」

 百目鬼蜘蛛に頷き、玻璃は傘の柄を強く握る。

 待合所から一歩出たそこには、大勢の人の声が溢れかえっている。

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