第33話 秋-6

 開いた視界の中に、玻璃は居なかった。

 雪千代は、ぼやけた視界の中で一度、二度、瞬く。長い時間、同じ姿勢で座していたのだということを、軋む身体が訴えていた。

 夢を見ていたのだ、と思った時には、視界は明瞭になっていた。空席には、淡い月明かりだけが落ちている。ずり落ちた眼鏡をかけ直す。

 夜半の温室は、それでも温もった空気を残している。うたた寝をあやす温度は、それでも雪千代にとっては冷たい。

 夢と、現と。雪千代には、その堺が曖昧になっていた。春――それよりも前からか。昼間でも、夜でも、所構わず睡魔は訪れ、雪千代を追憶と幻の中へと陥れていた。いつ目覚め、いつ眠っていたのか、雪千代にはもう判別がついていない。今、玻璃が不在のこの瞬間ですら、夢に思えているほどだった。

 原因は、痛いほどにわかっている。雪千代の半身であり、身の内に飼う異形。

 寒い、と声には出さず呟く。夢を見続けるようになるよりも、もっと以前から。雪千代が、雪千代として生まれてから、雪千代はもうずっと凍え続けていた。

 夢で玻璃へ与えた外套は、雪千代の震える身体を包み込んでいる。背を丸め、縋るようにかき寄せる。円卓に額を付き、再び目を閉じた。

 瞼の裏には深い闇が広がっている。月明かりすら届かぬ闇は、見えぬからこそ見たいものを映し出す。

 月の光と陽の光、その両極を併せ持つ、金の髪の残影がよぎる。

 玻璃。呼ぶ声は、ただただ震える息となって夜半の温室へ消える。

 全てが焼きつくされた荒野であってさえ、道を示す光。天上に散らばり、ささめきあう光源。月がなくとも、彼らはささやかな明かりを灯してくれる。星に似た、かしましく煌めく姿を幻視している間だけは、寒さを忘れられた。

「こんばんは」

 耳朶を震わせるのは甘い、甘い声。

 鼻先を掠めるのは、濃い鉄錆の匂い。

 ゆっくりと瞼を開く。もたげる身体は、関節が凍りついているかのように軋む。

「貴方ひとりなのね」

 視線を上げた先。白薔薇の木立が作る、温室の扉への道。少女はその中ほどに立っていた。

 矢絣の着物に、濃紺の袴。昼間であれば、いくらでも見ることのできる、女学生の装い。

「まあいいわ」少女は長い黒髪を流し、雪千代へ歩み寄る。

 一歩。上等な革の半長靴(ショートブーツ)が土を踏む。それを契機とするように、彼女の側にはべる薔薇が、代わる。

 深い、深い空の色。落ちていく虚空の先の色。青へ。

 一歩。少女の歩みで、震える白薔薇が、絶命する速度で青へと染められる。

 一歩ごとに、白薔薇が変わる。夜が、東から空を蝕むように。汚れのない白が、深淵の青に、変えられていく。

 白が、少女の歩みに殺される。

「私がわかる?」

 青薔薇を従え、少女は雪千代に問いかける。白薔薇は、雪千代の傍らに僅かに残るのみだ。

「紗夜……穹岸、紗夜」

「違う」

 紗夜の声は切り裂く強さを持っている。振りかざした白刃の鋭さ。

「私は第十階位。殺意と死の禍津日」

 少女の着物は、まだらの赤に染め上げられている。

「次はあの子を殺すわ」

 口元に幼さを殺す紅を刷き、少女はうっとりと微笑んだ。



「さやちゃん」

 喜美江は、薄暗がりに立ち尽くす友人の名を呼んだ。



 その日授業が終わった後、喜美江は貸本屋へと出かけていた。そこは貸本屋の看板を出してはいるが、本の購入や売却もできる店だ。喜美江は借りるのが主だったが、今回は初めて本の購入を願い出ていた。

 絵だけの絵本。喜美江は、紗夜に贈るため、それを注文していた。

 それが届く期日が、今日だったのだ。

 買ったその場で渡してしまおうか、とも思ったが、丁度その日紗夜は家の用事で帰らなければならず、共に出かける事は叶わなかった。

 それでも喜美江は上機嫌だった。記念日は明日。それに間に合ったのだ。これ以上の喜びは無い。

 日は、とうに沈んでいる。西が僅かにほの明るく染められ、空はすでに夜を迎えていた。街は明かりを灯し、家路を急ぐ人の足は速い。

 喜美江は、人波を避けるように裏道を歩いていた。表通りを行くよりも、こちらの方が早く寮へ帰れる。それに人にぶつかる心配も無い。本来ならすでに寮へ帰っていた所だが、うっかり店主と話し込んでしまい遅くなってしまった。自室の窓の鍵を開けておいたから、寮母に見つかることは無く帰れるが。それでもなるべく早く帰る方が良い。

 包み紙を纏った絵本は、鞄に入れずに胸に抱いている。包み紙にすら折り皺ひとつ、鉛筆の掻き傷ひとつ、付けたくなかったのだ。

 三つ編みの髪は背中で跳ねる。先を飾るリボンの色と、包み紙を彩るリボンの色は、お揃いにしてもらった。黄昏を過ぎた薄暮の中でさえ、鮮やかなその色。見下ろすだけで、喜美江の口元に笑みが浮かんだ。


 そして、喜美江は紗夜に出会う。


「どうしたの? おうちの用事はもう済んだの?」

 喜美江は、どこかぼんやりとした様子の紗夜へ駆け寄る。矢絣の着物に紺の袴は、別れた時と同じだ。自宅ではいつも洋装であるはずの紗夜は、自宅へ戻ってすらいないのだろうか。疑問と共に、その細い肩へ触れた。

「馬鹿な子」

「え?」

 軽く小突かれたのかと、喜美江は思った。

「今日だけは、出歩かないでって言ったのに」

 確かに紗夜は言っていた。喜美江は思い出す。街へ出よう、と言う喜美江に、行けないと言ったその直後。一緒に行きたいから、というそれだけの理由だと思っていた。

 冷たい、と思った時には、足から力が抜けていた。地面にへたり込む。見下ろした腹部に、赤が広がる

「……え、?」

 見上げた紗夜は、血にまみれた短刀を持っている。


「愛してたわ」

 人の感情はよくわからないけど、と紗夜は付け足す。

「ほんとうよ?」

 薄く開いた喜美江の唇を撫で、紗夜は囁く。

「あなたとなら、人のふりをしたままでいるのもいいかも、って思ってたの」

 袴を汚すのも厭わず、紗夜は地面に座っている。足を崩したその膝の上に、喜美江を乗せ。指の背で頬を撫でている。

 どこか眠たげに、喜美江は目を開いている。開いたまま、瞬きもせずにいる。その目は、紗夜を映してはいるが、見てはいない。

 柿渋色の着物に、紗夜と揃いの紺の袴。紗夜が贈った絹のリボン。大事そうに胸に抱えていた包みは、力の抜けた腕から傍らへ転がり落ちていた。

 その全てが、濃い命の色で染め上げられていた。喜美江の、彼女自身の生命の色に。

 紗夜が終わらせた生を、紗夜は腕に抱いている。乱れた髪を耳に掛けてやる指先は、力の抜けきった頭を支える腕は、どこまでも優しい。

「でも、それももう終わりね」

 さよなら、と紗夜は呟く。呟き、もうそこにはいない喜美江に、口付ける。

 別れを告げた唇に、鮮やかな紅が刷かれる。


 少女の姿をした異形を、男は見つめている。その一挙動を、余すこと無く。

 初めから最後まで、見ていた。

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