第32話 秋-5

 でもそうじゃなかった。呟きは天上から落とされる月の欠片に似ている。

「月桂樹の落とし子、って知ってるかな。ママ……月桂樹の君の眷属で、子供に恵まれない夫婦に子供をくれるんだ」

 雪千代は沈黙している。挟む言葉を、雪千代は持っていない。

「でもとても気まぐれ。だから、授けられた子供には『部品』が多かったり少なかったり。ちゃんとした人の形をしてなかったりする。ちゃんと生まれて、育ったことは今までなかった」

 玻璃は、滔々と語る。砂糖菓子に似た声音は変わらず、耳を心地よく通り抜けていく。

「でもぼくは、生まれた。ちゃんと人の形をして、生きるために必要な部品は全部揃ってた」

 伏せられた視線。瞼の縁を彩る金の和毛は、長い。

「でも、少しだけ部品が多かったんだ」

 玻璃は立ち上がり、全身を雪千代の前へ晒す。桜色の着物と、深い紅色の袴。

 しゅ、という布同士が擦れ合う鋭い音が立った。玻璃が、腰にまわしていた両の手を、広げる。そこから緩やかに伸びる真紅の軌跡。腰紐を解いたのだ。指と、手のひらの隙間から、雨だれに似た緩やかさで赤い紐が落ちていく。同時、支えを失った袴も、その身を地へ落とす。

 次いで、花の色の着物が開かれる。現れる薄い胸。薔薇が、その花弁を開くように。玻璃は身にまとうものを脱ぎ捨てていく。あれほど大事にしていた着物も、袴も。花が、落ちる花びらを惜しまないように、まるで無造作に地へと落としていく。

 露わになる花芯は、玻璃自身。残されたのは、濃い革の半長靴だけだった。袴から引きぬかれた半長靴は、一歩だけ、雪千代へと歩み寄った。

 白い、ふたりを囲む薔薇よりも白く、艷やかな肌が月明かりに洗われる。

「見て」と玻璃は言った。

 幼い膨らみがなだらかな丘を作る、薄い胸。そこからたどる肋の骨は、僅かな陰影を作る光の中、ゆるく上下している。なめらかな腹もまた薄く。傷ひとつ無い肌の下に、熱い生命を囲っている。

 玻璃の指先は、正中をたどる。そこだけ淡く色付いた、小さな爪。胸から、腹へと、指先は下ろされていく。微かにへこんだみぞおち。かつての繋がりを示す、へそ。玻璃の生命を、そして生命の可能性を抱いた骨の皿は、薄い皮膚と肉に包まれ、その存在は僅かな骨の膨らみでしか判別することはできない。その尖った膨らみに、玻璃は指を掛ける。

 骨の宮殿を下った先。柔らかい曲線を作る、少女の未熟な切れ目。つるりとしたそこから、少年の幼い肉垂が顔を覗かせている。

「ぼくは、瑠璃男でも瑠璃子でもなかった」

 両の手を広げ、裸身を晒し。玻璃は微笑む。

「両親は、ぼくを殺すことも生かすこともできなかった。臆病だよね」

 竦められる肩は、脆い。骨ばかりが目立つ、危うさ。そこから続く腕もまた、若木のようなしなやかさを持ちながら、陶器の手触りと儚さを想起させる。

 ただ飼い殺しにすることしかできないなんて、責任のがれだよ。落とされる呟きの声音だけは、血の通った温度を持っている。

「ぼくはずっと地面の下に居た。空も、太陽も月も星も雲も知らなかった。檻の中がぼくの世界の全てだったんだ」

 玻璃は、その細い腕で己を抱く。薄い身体をより一層絞るかのように、強く。

「それを変えてくれたのが、ママ。ぼくの禍津日」

 ふ、と口元に笑みが浮かぶ。伏せた視線。傾げた顔を、金糸が流れる。

「自分の眷属が作った人間が、ちゃんと生まれて育っているのが珍しかったんだってさ」

 それでぼくを気に入ってくれた。そう言葉を紡ぎながら、玻璃は右目に触れる。右の目を覆う白い眼帯に。

 剥ぎ取られた右目の衣服は、また無造作に背後へ落とされる。濃紅の袴に、白が添えられる。

「ママはぼくに右目をくれた。この目で、まずぼくの世話をしてくれてた女中さんを。それから屋敷に連れてってもらって、両親を。最後に、屋敷に居た人全員。ぼくは虜にした」

 濃い色の半長靴は、静かに土を踏んだ。丸いつま先がゆっくりと歩みを進める。

「あの時は気付かなかったけど、皆の心をこの目で殺したんだ」

 玻璃は顔を横にふる。金の髪は、その動きへなめらかに追随する。流れた右の前髪から、菫色の瞳が覗く。

「それからは快適だったよ? みんな、ぼくのことを大事にしてくれた。瑠璃、って名前もくれた」

 色の名前を口にした時、玻璃は少しだけ顔をしかめた。過去の大病か、傷跡の由来を語る時の、痛みを伴う表情。

「でも、それは全部本物じゃなかったんだ。ぼくを大事にして、ぼくに恋してくれたのは、ママの右目があったから」

 玻璃は右の瞳に触れる。美しいものに触れるような、薄氷の温度を試すような、触れがたいものに触れる手付き。柔らかな指先には、愛しさが溢れている。

「それに気付いたら、なんだか全部嫌になっちゃって。逃げよう、って思ったんだ。屋敷の外が気になった、っていうのもあるけど」

 右目を撫でた腕は、やがて身体の脇に流される。陶器か、薄紙か。高級な手触りを思わせる玻璃の肌は、未成熟な造形を甘く彩っている。

 玻璃の肉体は、未だ完成形に至っていないがために、完成されている。それは、例え髪の色を、そして肌の色を違えていようとも、覆ることは無いだろう。

「ママは、ぼくが外の世界に行くっていうのに気付いて、それで傘と、それから引力をくれた」

 ママ、ともう一度呟く声は、雪千代の足先に落ちた。玻璃の歩みは、雪千代の眼前に至っている。

「玻璃、って名前は自分でつけた。ぼくは瑠璃にはなれなかったから」

 雪千代は座したまま、玻璃に向き合う。見上げる表情は、月明かりを背に薄く陰っている。

「外の世界でも、みんなぼくに親切にしてくれたよ。ぼくのママの目があったから。それに、ぼくってかわいいじゃない?」

 首を傾ける玻璃は、丸い関節を晒す膝で雪千代の足を割り開く。片膝だけを椅子へとつき、乗り上げる。

「例外は、きみだけ」

 どうしたらいいかなぁ、と。問いかける響きと共に、玻璃は腕を雪千代の首に回す。汚れを知らない色の頬に、無垢な笑みを乗せ。

 薄く色付く唇を、寄せた。

「色々くっちゃべってくれてありがとうよ」

 突然視界を塞がれ、「わ」と玻璃は声を上げた。驚きという色の乗った声。

「でもな、おれは話せることなんて無い」

 玻璃の視界を己の学帽で覆った雪千代は、同時に身にまとう外套を解いている。

「……気付いた時にはこうだった。そうとしか言えねえ」

 やめてよ、と抗議する玻璃に応え、学帽を退け。代わりにとでも言うかのように、玻璃の頭へと乗せた。

「一番古い記憶は、どっかの戦場にいるとこだ。死体と、赤い土。焦げた匂い。空だけが馬鹿に青かった」

 椅子に膝をついたまま、玻璃は細い眉を寄せている。学帽の乗った小さな頭を、雪千代は一度だけ軽やかに撫ぜた。

「その次は……おまえみたいな髪の色のヤツと一緒に居た。女だ。おまえよりでかかった」

 背の話しだぞ。注釈を入れながら、自身の体温が残る外套を、玻璃の肩に回した。

「その人、今は?」

「死んだ」

 おれは何もできなかった。声音は、極力変えずに。事実だけを伝える。

「……ごめん」

 外套を掛けた雪千代の手に、玻璃の手が重なる。

「なんで謝る」

「なんでだろう。なんとなく」

「なんとなくで謝るんじゃねえよ」

 ぶっきらぼうな物言い。雪千代が言葉の裏に隠した感情へ、玻璃は手を強く握ることで応えた。細い指は、熱い血を内包した温度を持っている。

「それから、そっちこっちほっつき歩いて、生きて、ここに戻ってきた」

「戻ってきた……」

「ここだ。ここは、昔女が体売って暮らす街だった」

 その時の記憶は、霧の向こうを見るようにぼやけている。それでも、雪千代は覚えていた。金色の髪も、甘い声音も。

「戻ってきた時には、全部変わっちまってたけどな」

「きみって、いくつなの?」

 問いかける玻璃は、雪千代の表情を改めてまじまじと見つめている。初めて会った時にも、ここまでじっくりと見られてはいなかったはずだ。

「知らねえ。ずっと生きてるようにも思えるし、おまえと同じくらいしか生きてないとも思える」

「そう、だったんだ」

 再び、玻璃は雪千代へ腕を回した。首にすがりつくように、ぎゅっと力が込められる。

 雪千代は反射的に手を上げるが、上げるだけに留める。振りほどかず、玻璃の望むままにする。

「なんだよ」

「なんとなく。……こうしたくなった」

 声は、耳元から聞こえた。少しだけくぐもり、潤んだようにも聞こえる声。儚い背中を、出来る限り優しく叩く。背を覆う外套越しに、骨の感触が手のひらに残った。

「服着ろよ」

「……うん」

 より一層腕に力を込め、玻璃は呟く。

「ぼく、きみに興味があるんだ。どうしてぼくに恋しないのか」

 雪千代は、玻璃の言葉を黙して聞いている。答えを返さないことで、聞いていると伝えている。

「だから、きみがぼくに恋するまで、ぼくはきみと一緒にいるよ」

 勝手にしろ、と落とした言葉は、白薔薇の夢を見るような香りの中に飲まれていった。

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