第31話 秋-4
白薔薇は、淡い月明かりの下で芳しく咲いている。
温室に、無粋な光は無い。ただまろい月から落とされる、しらじらとした輝きの断片に満たされているだけだ。
「ぼく、すごく君に興味があるんだ。どうしてぼくへ恋しないのか」
円形の卓の真向かいに、玻璃は座っている。淡水色の着物の肘をつき、そこに顎を乗せ。若草と焦茶の混ざり合う瞳は、月明かりを映しきらめいている。
どこか他人事めいた視点で、雪千代は玻璃を、そして視点の主であるはずの自分自身を知覚している。
「おまえ、恋だなんだっていうけどな、それってどういうもんか知ってんのか」
口を開き、話しているのは自身だ。しかし話す言葉、身じろぐ身体、その全てが遠い。他人の身体に、意識だけが相乗りしているようだ。
え、という、思わず漏れ出た声から遅れて、玻璃は二度瞬いた。
「おれは知らねえ。だからどうおまえに接すればおまえが満足して飽きるのか、わからん」
うっとおしいからさっさとどっか行ってくれ。雪千代は投げ捨てる響きで呟く。言葉は、白薔薇の茂みに落ちていく。
「飽きたら、それは恋じゃないよ」
断言。しかし軽く寄せられた眉は、未知の戸惑いを示している。
「恋の終わりは?」
「……それは、無いよ。たぶん」
「たぶんってなんだよ。はっきりしろよ」
「ぼくだって、恋したことなんてないからわからないよ」
されるのが専門だったんだ。唇をとがらせる玻璃は、視線を僅かに上向かせる。ええと、と呟きながら、人差し指で顎を撫でた。
細い指先に乗った桜色の爪の先を、雪千代は見るともなく眺めている。
「恋っていうのは……君がぼくのことを好きでたまらない、って思うことかな」
「そうか。じゃあ『おまえが好きだ』。……これで満足か?」
「そんな適当に言われても満足なわけないじゃん」
細い眉が跳ね上がる。ああ、怒っているな。と雪千代は頭の端で知覚する。
こうなると、後が面倒なのだ。どうにか、なだめよう。
そう思うが、雪千代の口は思考とは違う言葉を紡ぐ。思いだけが、から回る。
「おまえなぁ、おれが適当に言ってるように見えてるだけだろ? 本心はわからねえぞ?」
「わかるよ。適当言ってますって目が言ってる」
は、と笑う声は、口先だけで作られる。目は口程に、というのは本当なのだろうな、と雪千代は思う。
「……きみが心からそう言うまで、ぼく諦めないから」
左だけの玻璃の瞳は、真っ直ぐに雪千代を貫く。
「勝手にしろ」
呟き、椅子の背に体重を預ける。視界の端で、白い花弁がゆるりと落ちる。
瞬きひとつ。目の前に座る人物は、変わっていない。右にだけ流した前髪。月光の遊ぶ金の髪。左だけの、丸い瞳。着物だけが、書物をめくるように入れ替わっている。
「きみの信仰する禍津日、ってどういうの?」
うぐいす色の着物から覗く腕は、白い。玻璃は、両肘を卓につき、その上に顎を乗せている。
「……冷たいヤツだ。凍らせることが得意な」
「よく話したりするの?」
雪千代の感覚は変わらない。馴れない服を着たような、小さすぎる靴を履かされたような、ぎこちなさ。それでも、慣れだろうか。少しだけ、馴染んだような気がしている。
「いや。話せない」
「なんで?」
きょとり、と瞬く瞳は艶めいて、幼子の純粋さで雪千代を捉える。
「はじめからそうだった。理由は知らん」
「つまんないね」
「うるさいうっとおしいのよりはマシだ」
薄い瞼も、腕と同じくまた白い。はしばみの瞳を切り取るように瞬間で覆う。羽ばたく蝶のような、瞬き。
「……ぼくのこと言ってる?」
「わかってんならちょっとは改善しろ」
「やだ。ぼく他人に自分を変えられるの嫌い」
尖らせる唇だけが、赤い。
「きみは、どうしてきみの禍津日と出会ったの?」
桜色の着物。その袖と裾に、遊ぶ金の小鳥が描かれていることを、雪千代は知っている。
買ったその場で着替え、上機嫌に褒めることを要求してきたのを、覚えている。
「……しらね」
「もう。……じゃあ、ぼくがママに出会った話してあげる」
そしたらきみのことも教えて。要求する声音は、朝の雀のかしましさだ。
身体と意識のずれは、少しずつ重なる面積を広げているようだった。二重写しだった像がその形をしっかりと固めるように、雪千代の感覚が定まり始めている。
「やだよ。おまえが勝手に話したことに、なんで付き合わねえとならねんだよ」
「そう言っても、きみは話すよ。そういう人だもん」
ふふ、と笑む。柔らかく弧を描く瞳は、雪千代を捉えて離さない。
「それにぼくの言葉に耳を塞ぐこともない」
甘い声音で断言される。苛立ちは、感じていない。
玻璃は椅子の背に体重を預け、ふと視線を外した。その先にあるのは薔薇の茂み。濃い葉群と、白い花弁。言葉は、花びらのように落ちていく。
「……ぼくは玻璃、って名前だけど、本当は瑠璃男か瑠璃子って名前になるはずだった」
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