第30話 秋-3

 午後の日差しはぬるく、和らいだ暑さはけだるい温度でまとわりつく。濃い緑の庭は、秋めいた光の中で静かに佇んでいる。

「雪千代のことを教えて」

 紙片の海に埋もれる男の前に玻璃が差し出したのは、厚く膨らんだ封筒だった。それは玻璃が家から持ち出した金だ。学徒警察として働き始めるまでにいくらか拝借したが、それでも数年は楽に暮らせるだろう額が残されている。もしもの為に、と玻璃は行李の奥に仕舞い込んでいた。

「驚いたな」台詞とは違い、三雲の口ぶりに驚きの色は皆無だった。

「おまえのことだから、知りたい事は全て自分で聞き出すものだと思っていた」

「それじゃきっと間に合わないから」

 青い畳の上に、玻璃は背筋を伸ばし座している。常ならば、勝手知ったる気軽さで脇息や余分な座布団を引っ張り出し、だらだらと姿勢を崩しているのだが。

 依頼主として来ている今、玻璃にはそれが妥当な態度だとは思えなかった。

 三雲はちらとだけ畳の上の封筒へ視線をやり。

「なにを知りたい」中の額面を確認すらせず、言った。相変わらず、手の動きは止めない。

もしくは、禍津日によりすでに額面を知っているのかもしれない。玻璃はそう断ずる。

「三雲が知ってることを、全部」

玻璃が雪千代について知っていることは少ない。玻璃よりも先に学徒警察として雇われ、それ以前は各地を点々と放浪していた。食べ物の好き嫌いは少なく、曰く「食べれればなんでも良い」。玻璃と似て甘いものが好きだが、どうやら本人にその自覚は無い。腕は立つが、何か体系立った指導を受けたことはないらしい。服にもこだわりは無く、学徒警察としての隠れ蓑である学生服を年がら年中着倒している。

 凍らせることを特技としているが、その力を授けた禍津日についてはついぞ語ったことがない。

 それだけが、玻璃が知っている雪千代の全てだった。

「なぜ」

「じゃないと、雪千代を助けられない」

「語らないならば、お前の助けを必要としていないんじゃないのか」

 はらり、と三雲が捲る紙が微かに鳴った。万年筆が紙の上で踊る。玻璃はひとつ、息を吸う。

「そうだとしても、僕は雪千代を助けたい。雪千代が必要無いって言っても、これは僕に必要な行動だから」

 僕は後悔したくない。揃えた袴の膝の上で、玻璃は拳を握る。もう何度も自問し、自答した答えだった。

 一拍。

「そうか」

 ぱたん。と、万年筆が置かれる。玻璃は三雲の手から万年筆が離れる様を、初めて目にした。もはや三雲の身体の一部として認識していた万年筆は、意外と簡単にその指から離れた。

「おまえが本当に知りたいのは、アレが変わってしまった原因だろ」

三雲の顔を正面から見るのも初めてだった。髪から爪の先まで白い、と思い込んでいた彼の瞳が、血のように赤い色を刷いていることを玻璃は初めて知った。

 常日頃、皮肉や冗談を口にしよく笑う三雲は、何の表情も浮かべずに玻璃を見据えている。その整った相貌と非現実的な色合いに、玻璃は一瞬気圧される。

 だが怯んだのは一瞬だ。僅かに顎を引き、腹に力を込めるようにして口を開いた。

「そう。でも、なにが原因かなんて」

「禍津日だ」

「え」

 即答。玻璃は瞬き、三雲を見つめる。

「アレが宿す禍津日。アレが使う力の源。それがアレを変えた」

「……どういうこと」

「禍津宿(まがつやどし)。聞いたことはあるか」

「うん」玻璃は頷く。脳裏に蘇るのは、汽車の客室での光景だ。

「言葉だけが存在し、実在を確かめられたことがない存在。それがあいつだ」

「……じゃあ、雪千代は」

 甘い声が、玻璃の耳の奥に響く。まぼろしの、記憶の中の声。

「禍津日を殺したの」

「厳密には違う」

 説明するための言葉を組み立てているのだろうか。三雲は一拍の間を置いた。

「千階位の禍津日、その中で欠番がいると以前言ったことがあるだろう。第十三階位。静止と氷結の禍津日。それがあいつの宿す禍津日だ。

十三階位は約五十年前にある地方で召喚された。戦乱の世のことだ。戦の切り札として、だろう。確かにそいつは戦の役に立った。だが十三階位は千階位の中でもとびきり闘争を好む禍津日だった。この世の全てを凍らせ尽くすほどの力を、召喚した者は持て余した。そしてその力だけを手に入れようとした」

「それが、雪千代なの」

「違う。召喚者は別だ。そいつはまじないでもって十三階位をある刀に封じようとした。だがそれは半分だけ成功し、半分だけ失敗した」

 玻璃は視線で頷く。

「刀に封じられたのは禍津日の半分だけ。残りのもう半分は、どういうわけか雪千代に封じられた……おそらく、まじないの贄にでも使われたか、巻き込まれたかしたんだろう」

 ふ、と三雲は息を吐いた。溜息に似た一息。

「そうやって、あいつは禍津宿(まがつやどし)になった」

 雪千代、と玻璃は知らず口に出していた。口にする度胸の真ん中に淡い虹のかかる、想い人の名前。今はどうしてか、わずかな痛みを伴っていた。

 ふと、玻璃は反芻する三雲の言葉に引っかかりを覚える。

「まって、それって五十年前って」

「そうだ」

 三雲はしっかと頷く。

「百目鬼蜘蛛の力では過去の情報を得るのは難しい。が、できないわけではない。時間は掛かるが。ここまでの情報を得るのは骨が折れたが、特別料金だ。

見た目に年を食っていないのは、禍津日の力を取り込んだ影響なんだろう」

 三雲は玻璃を見据えたまま、滔々と言葉を――情報を紡いでいる。

「ここからは俺の推測だ。だから金は取らん。

確かに存在し、禍津日という人外の力を持ちながら、なぜ禍津宿がアレ以外に存在していないのか」

 玻璃はただただ、黙したまま三雲の言葉を聞いている。唇を引き結び、一言も聞き漏らすまいと耳をそばだてている。

「禍津宿の末路は、おそらく宿した禍津日に取って代わられる。

禍津日は力、理そのもの。器が変わろうともそれは変わらない。禍津日の力を宿した者は人ではなく、もはや禍津日なんだろうよ」

「でも、雪千代は」

「今はまだ『こちら』側に存在している。それはひとえに、宿した禍津日が半分だけだからだろう。……そんなことはあいつが初めてだ。だから今後どうなるか、正直わからない。

このまま半分だけの禍津宿として存在し続けるのか、あるいは」

そこで初めて、三雲は言い淀んだ。己が紡ぐ情報を止めることの無かった蜘蛛の化身が、言葉を切る。

「ただ過去から現在に掛けて、あいつが徐々に変質していることを鑑みると」

「どうしたらいいの」

 再び継がれた言葉の糸を目の前に、玻璃が呟いたのは疑問符に近い嘆きだった。藁山を前に針を探すような、無いと知りながら解決策を求める声。

 答えではなく情報を紡ぐ男は、口元を僅かに歪める。

「……アレに任せるしかないだろうな」

「そんな」

「禍津日の力を引き剥がせば、あるいはなんとかなるかもしれないが、五十年という月日がどう作用するのかわからん」

 どうしよう。玻璃は膝に置いた己の拳に問いかける。答えが返るはずもないが、それでも呟かずにはいられなかった。原因がわかりながら、解決策がない。自分にならなんとかできるはず、という無謀な思い込みが、まさに思い込みに過ぎなかったと自覚せざるを得ない。

 玻璃にはなにもできない。雪千代が玻璃へなにも語らなかった理由が、改めて玻璃の背に重く覆いかぶさる。

「できるだけ、側にいてやれ。変化が恐ろしいのは、お前だけじゃない」

 白い蜘蛛が最後にぽつりと付け加えたのは、事実でも推測でもなく、玻璃へ向けた慰めの言葉だった。

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