第29話 秋-2

「さやちゃんは、欲しいものは何でも買ってもらえるみたいだし」

「私は、紗夜さんなら何でも喜ぶと思うが」

「……そうかなぁ」

 俯いたまま、喜美江は片手で三つ編みを弄んでいる。菓子鉢には、視線すら向けない。傍らの大禍津日の触覚が、力なく下がる。その体色は、すっかり青く染まってしまっていた。

 宇木那は、喜美江に結論を急かさない。黙して、彼女が話すのか、宇木那の言葉を聞きたがるのかの気配を探り、待っている。

 その間、喜美江から見て不自然に見えないように、そっと手を動かす。体色を青くしたままうなだれ、心なしか震えているように見える大禍津日に触れた。指の背でうつむく頭部に触れると、あるかなしかの弾力ある触感が返された。

 見えていないのだから、仕方ない。と、言葉にはせず、意思だけで伝える。

 仕方ないよね。と、もたげられた頭部が返した。仕方ない、と繰り返しながら、ちょこんと乗った一対の触覚が宇木那に向けられる。宇木那が指の背で撫でる度、身体から徐々に青が抜けていく。

 禍津日から力を借り受けるには、対価が必要だ。他の禍津日がそうであるように、大禍津日もまた、孤独であった。穢れを引き受ける忌神としてのその孤独は大きく。宇木那は、大禍津日から力を借り受ける対価として、その孤独の一端を引き受けていた。

 仕方ない、仕方ない。歌うような意思が宇木那の意識に届く。再び橙色に戻った大禍津日は、触覚を振り振り、置かれたままの宇木那の手に顎を乗せた。

 喜美江が、ちらりと視線を上げる。

「うん。私からあえて助言するとしたら……君の好きなものを贈るのは、どうかな」

 宇木那は、大禍津日の相手をしながら考えていたことを話す。

「私の……?」

「そう。君が好きなもの」

「私が好きなものを贈っても、さやちゃん嬉しいのかな……」

 困惑が、呟きに織り込まれいてる。

「紗夜さんは、自分が好きなものは自分で手に入れられる。だから、君が好きなものを知ってもらう意味で、贈るんだ」

 どうかな、という宇木那の疑問符。

「知ってもらえても、好きになってもらえなかったら……」

 どうしよう、という喜美江の小さな呟き。困惑から、不安。声音に混ざる感情は、先ほどまでの大禍津日の色に近い。

「それは心配しないでも良い。きっと紗夜さんなら気に入るだろう。君たちふたりはとても仲が良い。仲が良いと、好みも自然と似てくるものさ」

 君が好きなものは、と宇木那は問う。青い感情を、思考させることで遠ざける。

「私は……本が好きです」

「どんな?」

「物語……ここではない、どこかであったお話。昔むかしのお話が好き」

「一番好きなのは?」

「ちょっと恥ずかしいんですけど……絵本です」

 どんな? と問いを重ねる。喜美江は、はにかみながらも答えを紡ぐ。

「絵だけの絵本です。言葉は何も書いてなくて……ただ、見たことのない、でも見たことがあるような気がする、建物や景色が描かれているだけの絵本」

 絵を思い出しているのだろう。視線は宇木那から外れたまま、しかし楽しそうな微笑みが浮かぶ。

「見てると、いろんな物語が頭に浮かぶんです。悲しかったり、楽しかったり」

「なら、それを贈ると良い。それから、その話を紗夜さんにもしてあげると、もっと良い」

 宇木那の提案へは、喜美江の視線が返される。縋るような必死さが、その瞳に浮かんでいた。

「でも、本当にただの絵本なんです。本屋さんに売ってる、ただの絵本」

 私が好きなだけの。彼女の感情は、宇木那の提案に半ば乗りかけている。それを妨げているのは、不安。

「いいんだよ。その絵本を贈って、ふたりで話をするといい。君が思ったことを話して、それから紗夜さんが思ったことを聞いて。――それが、きっといちばんの贈り物になる。」

 宇木那の言葉では、喜美江の不安を消せない。彼女が抱えるその感情は、彼女自身でしか、消すことはできない。

「……喜ぶ、かなぁ」

「ああ。きっと喜ぶ。君なら、紗夜さんが好きなものを教えてくれたら、嬉しいだろう?」

「……はい」

 だから、宇木那は言葉でその背を押す。彼女の自信でしか、不安は消えない。

 うん。と、一度だけ喜美江は頷いた。

「ありがとう、宇木那さん」

 はにかんだ表情は晴れやかだった。

 どういたしまして、と返す宇木那。繕った綻びの縫い目は消えない。それでも、繕うたびに目は強く結ばれ、綻びは固く結ばれ。いつか自信と呼ばれるだろう。

「今から本屋さんに行って、注文してきます!」

「うん、そうすると良い」

 もう一度、ありがとうございました、と一礼。それから喜美江は身を翻し、駆けて行く。三つ編みを羽のように広げた背中に「気をつけて」と声を掛け、宇木那は口元を緩める。

 大禍津日は向日葵色に染めた身体で、触覚を揺らしていた。「またね」とその行動は言っている。

「仲良き事は美しき哉、と」

 ふと宇木那は顔を上げた。見上げた先には、未だ青い空。覗けば落ちるような、底抜けの青。切り取られた空を背に、屋根の上に影が立っていた。

「珍しいな」

 雪千代、と宇木那は裏路地に降り立つ人物の名前を呼ぶ。猫のように音のない落下。柔らかく広がり、落ちる外套は夜の色を掃いている。

 大禍津日が触覚をぴんと立て、身体を縦に伸ばしていた。どうやら驚いているようだ。

「……頼みたい事が、ある」

 冷たい気配を身にまとい、鋭い目の少年は言った。

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