第28話 秋-1
夏の長期休暇は、学徒たちに浮ついた寂寥感だけを残し過ぎ去っていった。課題の山と思い出を抱え、少年少女は再び街へと戻ってくる。
焦げ付くような暑さは鳴りを潜め、徐々に風を涼しく感じる時が増えている。そろそろ日暮れが早くなるな、と宇木那は卓に肘を付き思った。見上げた青い空は高く、路地を成す建物により矩形に切り取られている。目を下ろした手元では、大禍津日がその柔らかな身体を伸ばして寝そべっていた。
大福か、餅か。そういったものを連想させる質感の身体は、一定の形を保ってはいない。ひと言で表せば、ナメクジのような見た目だ。両手の平に乗る程度の大きさで、頭部らしき部分には丸みのある触覚が二つ付いている。今はくったりと垂れているそれは、指示や感情表現のためによく動く。形と同様に、その体色もまた一定ではなく、おそらくは感情によって色とりどりに変化する。くつろいでいる今は、すあまのような薄桃色をしていた。
宇木那の禍津日は、その名の通り「災い」を示す禍津日の中で、「穢れ」を司る禍津日だ。この世に生きる限りまとわり付き、切り離せぬもの。大禍津日は、その「穢れ」を祓い、己の身に引き受け、浄化する。それ故、畏敬の念を籠め『大禍津日(おおまがつひ)』と呼ばれている。
宇木那は、その力の一端を借り受けている。人は宇木那に話すだけで、己が感じていた重圧や、悲しみが軽減されることを感じるだろう。
「穢れを祓っている」と宇木那はその事象を表現していた。その能力で、名目上は「占い師」と言いながら、宇木那は学徒たちの陰の相談役として路地裏に卓を置いていた。
その力を与えた存在は、今は力の片鱗すら感じることのできない呑気な姿を晒している。禍津日に睡眠が必要なのかは甚だ疑問だが、手元に伸びる大禍津日は、ゆるやかな収縮を繰り返しながら転がっている。所謂、うたた寝に見える状態だ。
ベストの胸元から取り出した懐中時計は、授業時間が終わってから二十分が経ったことを知らせている。相談事があるとすれば、そろそろかな。と宇木那は思った。
それに同期するかのように、大禍津日が触覚を上げた。
誰か来るよ、と。言葉ではなく意思が宇木那に伝わった。
「こんにちは」
「やあ」
ゆるく微笑んだ宇木那の前に現れたのは、ふたつに振り分けた三つ編み髪の少女。喜美江だ。
「今日はお一人かな?」
「はい。さやちゃん、今日は病院の日なんです」
勝手知ったる様子で宇木那の正面に座る。ようこそ、とでも言うかのように、大禍津日が触覚を揺らした。
喜美江は、数カ月前の事件以来、紗夜と共に何かと宇木那の下を訪れていた。相談事は、あったりなかったり。あったとしても、事件の時のような深刻なものではなく、ごくありふれた勉学や友人関係に起因したことばかりだった。
そういった事を聞くのも、宇木那の役目だ。大人からすればちっぽけでも、少年少女には重大な問題。大抵は、宇木那が大禍津日から借り受けた力のおかげで、ただ聞いてやるだけで軽減される悩み。静かに頷き、時には諭し。彼ら彼女らに生じた綻びを、小さなうちに繕っておく。
三雲や雪千代は「面倒くさい」と言うが、宇木那はこの役割に意義を感じていた。
「もう病気なんてすっかり治ったみたいに見えるのに」
「病は見た目には治ったように見えて、潜んでいることも多いからね」
そういうものかしら、と唇をとがらせる喜美江。そうだよ、という意思を、大禍津日が身体を柔らかく揺らしながら発した。
喜美江には、大禍津日の姿が見えていない。喜美江だけではなく、紗夜にも他の学徒にも、己が話す傍らで揺れながら相槌を打っている軟体は見えていないだろう。
大禍津日の姿を見ることができるのは、宇木那と同じように禍津日の力を身に宿している者だけだ。
一般に、禍津日は見ることも触れることもできない存在だ。人々の中には、禍津日の気配を感じ取ることのできる、「勘の良い」者もいる。しかし、人と禍津日が交わる術は、禍津日自身が己の力でもって器を生成するか、物を依代として顕現することでしか、存在しない。
大禍津日自身も知ってはいるだろうが、彼(か彼女か)は、相談者に対する感情表現を止めることはなかった。
「今日は相談したいことがあって」
「なんだい?」
いつものように、宇木那は卓の端に寄せていた菓子鉢を、喜美江の方へ寄せる。大禍津日は、その傍らで触覚を菓子鉢へと向けていた。「お食べよ」と、行動は示している。
「宇木那さん、さやちゃんがもらって嬉しいものってなんだと思います?」
「それは……私からは、なんとも言えないなぁ」
菓子鉢の中の最中へと手を伸ばさない喜美江を前に、大禍津日は橙色へと変わっていた体色を、仄かに青く染めた。心なしか、触覚がしゅんと垂れている。
「付き合いは、喜美江さんとの方がずっと長いだろうし」
「そうなんですけど」
わかんなくなっちゃって。と、喜美江はお下げ髪の先をつまんだ。
「さやちゃん、私にいろんな物をくれたんです。リボンとか、お洋服とか」
「重荷に感じる?」
喜美江はぱっと顔を上げた。連動するように、宇木那の手元の大禍津日も、頭部を持ち上げる。
「いいえ! 全部、全部嬉しかったです。さやちゃんがくれるものは、なんでも嬉しい」
勢いに、三つ編みをまとめるリボンが揺れる。なめらかな手触りを想起させるそれは、紗夜から贈られたものなのだろう。
「でも、私から返せるものがなにも無くって」
お揃いにしてくれるだけで嬉しい、って言うんですけど。続けられた言葉は、一転して俯きがちに発せられる。
元気を出して、と、大禍津日が丸い身体でゆっくりと揺れる。
「もうすぐ、私とさやちゃんが初めて会った日なんです」
「記念に何か送りたい、と」
宇木那はそっと背中を押すように、言った。
「はい。でも、何がいいかなって」
膝の上で握られていた手が、再び三つ編みの先に触れる。手持ち無沙汰にも見える行動は、彼女の気持ちを落ち着ける行動なのだろう。
大禍津日が触覚を菓子鉢に向ける。次いで喜美江に向け、再び菓子鉢へ。最中はどうかな、とその行動は言っていた。
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