第27話 晩夏-3
海と空は、最果てで睦まじく寄り添っていた。二つの青は、似通いながらも決して混じらず、一線を介して隣り合っている。
物語で幾度か見たことがある、果てなく続く水の原。その最果てから穏やかな風が来る。
水平線、というものを、喜美江はその日初めて目にした。
波打ち際に素足を浸し、飽くこと無く果ての水際を見つめる。
「きみちゃん」
淡く、ほんの微かな紅色に染められたワンピースを纏った紗夜が、喜美江に並んだ。細い指先が腕に絡む。中天に座す日差しは強く、砂浜を焦げ付かせるほど降り注いでいる。その中にあって、紗夜の指先はひんやりとして心地よかった。
「座りましょ。頭、こげちゃうわ」
「……うん」
うふふ、と微笑みながら、紗夜は喜美江の無造作に流した髪に触れていた。さらりと梳かれる感触のくすぐったさ。自然、喜美江も笑った。
紗夜がお揃いにしたい、というので、今日はいつものような三つ編みにしていない。紗夜とは違い、喜美江の髪はゆるくうねっている。それが恥ずかしくて、いつも三つ編みにしているのだが、紗夜は常々癖のある髪を個性的で好きだ、と言ってくれた。紗夜に反対するわけではないのだが。喜美江は、紗夜のように真っ直ぐで、絹糸のように流れる黒髪こそが美しい、と思っていた。
気付かぬ間に、随分と長い間海を見つめていたようだった。暑さのせいか、頭の芯がぼんやりとしている。
指先だけを絡め合うようにして、紗夜とふたりで砂を踏む。緩やかに吹く風が、紗夜と揃いのワンピースを揺らした。
喜美江は、夏季休暇の初めの一週間を紗夜の生家で過ごしていた。紗夜たっての希望で、喜美江が渋る両親を便箋数枚を使って説得したことによって実現した。
喜美江にとっては初めての、第一城塞都市行の列車に乗り、他愛のないおしゃべりをして過ごし。初めて降り立った帝都は、人は多く建物は高く、喜美江は初めて第二城塞都市へ行った時よりもくらくらとした。
そこから迎えの馬車に乗り、招かれた紗夜の生家は、今まで見たどんなお屋敷よりも豪奢だった。玄関だけで、紗夜の生家がまるまる入ってしまうのではないか、というほどだ。
彼女の両親は、初日にちらりと顔をあわせただけで、後は姿を見かけなかった。
「ごめんなさいね」と、困った表情で紗夜が笑っていたことだけが、彼女の両親の顔よりも印象に残っていた。それから喜美江は、紗夜の両親のことには触れずにいる。
喜美江は、紗夜がいればそれでよかった。
翌日からふたりで帝都中央図書館へ行き、街を歩き、神社にお参りし。一時も離れずに様々なものを見、聞き、過ごした。
明日、喜美江は自らの実家へ帰る。
海を見よう、と言ったのは、紗夜か喜美江か。その両方だったかもしれない。
ともかく、この日ふたりは海を見に来ていた。
海は、一般には近付いてはいけないとされている。軍から特別な許可を得た漁師だけが、海軍に付き添われて初めて出ることができる。海辺に近付くだけで、軍に処罰されることもある。
理由は、喜美江にはわからなかった。危ないから、とは言われているが、川は良くてなぜ海はダメなのだろうか。と常々思っていた。
紗夜が喜美江を連れてきたのは、海軍の目の無い、切り立った崖の間の小さな砂浜だった。
「わたしの秘密の場所なの」水平線を前に声を上げる喜美江に、紗夜はそっと囁いた。
海へ行こう、と決めた夜にプレゼントされたお揃いのワンピースで、ふたりは波に足を洗い、砂を歩き、笑い合った。
砂浜に敷いた敷布の上に、ふたり並んで腰を下ろす。海が、きらきらと陽光に煌めいていた。
崖と、そこに張り付くようにして生えている松が陰を下ろす。海からの風は、わずかな塩気をはらんでふたりの汗をそっと拭う。
「ねえ、海の向こうには何があると思う?」
紗夜が、囁く声音で呟いた。喜美江は、首を傾げ紗夜を伺う。
「海の向こうには、何も無いって」
「学校では教わったわ。考えても無駄なことだから、考えちゃダメって」
「うん」
ゆるく、絶え間なく、波のように吹き続ける風が、喜美江の髪をさらう。
紗夜の髪も同じく、海風に流れている。
「でもそれは本当? 海の向こうには、本当に何もないのかしら。わたしたちのこの天島(あまのしま)以外に、大地は無いのかしら」
「……さやちゃん?」
喜美江が呼ばうとも、紗夜の瞳は海を見ていた。夜闇よりも黒く、飴玉よりも艷やかな瞳。その目は、正確には海の向こう、水平線の、そのまた向こうを見ている。
「わたしときみちゃんが今来ているこの服。どうして『洋服』って言うのかしら。『洋』は、海の意味よ」
空は高く、夏の日差しは温かい。吹く風に晒されてなお、夏の空気は熱されている。
「海の外にもここと同じように大地があって、人々が暮らして、海を渡ってやってきたのがこの服なのではないのかしら」
喜美江は胸元を握りしめる。膝を抱え、海を見る紗夜が、急に知らない人になってしまったような気がする。心が、ざわめく。
「この洋服を作る技術、鉄道や製鉄、医療。そういう技術は、この国だけで作り上げられたのかしら」
「それは、天帝さまが」
「そう。お一人で作り上げられたと言われているわ。でも本当に?」
怖い、と喜美江は思った。真夜中、障子の隙間を見つけてしまった時。そこからじっ……とこちらを見つめている何かの気配を感じてしまった時。その先の、闇の中を想像してしまった時のような。
それは、見てはいけない、聞いてはいけない、触れてはいけないものだと、喜美江の精神が叫んでいた。
「天帝(あまのみかど)さまは、本当に神さまなのかしら」
「さやちゃん!」
ゆっくりと、紗夜がこちらを向いた。ガラス玉のような瞳。深く淀んだ湖面に似た、何者の命も感じられない、ぬるりとした黒。そこには、恐怖で引きつった喜美江の顔が写っている。
闇が、静かに瞬く。一度、二度。繰り返される内に、生気の感じられなかったそこへ、徐々に感情がやどり始める。
息を吹き返すようにして、紗夜は喜美江を見た。
「……ごめんなさい。しゃべりすぎたわ」
恥じ入るように、紗夜は俯いた。風に遊ぶ髪が、背中でなびいている。
気付かぬ間に、喜美江は両の手で胸元を握りしめていた。誰かに心臓を取られるのではないか、というような格好だ。
「さやちゃん……」
呟きは、風と波の歌声にかき消されていった。
寄せては返す波の音は、絶え間なくふたりに降り注ぐ。堆積する時間が、沈黙となって波に遊ぶ。
永遠よりも長い間、ふたりは黙していた。
「もし」
永遠を切り取ったのは、紗夜の呟きだった。
「もしも、わたしに秘密があっても、きみちゃんはわたしと一緒に居てくれる?」
うつむきながら発された声は、風と波の音に揉まれ、遊ばれ、掠れながら喜美江に届く。くぐもった声だが、喜美江は一語一句逃さず、聞いていた。
「うん」
喜美江は一も二もなく頷いていた。
「わたし……わたしのことは、全部さやちゃんに教える。でも、さやちゃんがわたしに秘密を持ってても、それでいい」
怖い、という思いは、消えてはいなかった。それでも、その恐怖が紗夜の一部であるのなら、それも含め、彼女を好きでいよう。そう、喜美江は思った。
「ごめんね。……いつかきっと、話せるようになるから」
そうしたら、という言葉の続きは海風に攫われ、宙空へと巻き上げられていく。
時間ですよ、という声が、ふたりの背に投げかけられた。振り向いた喜美江の視線の先、切り立った崖の隙間。紗夜の秘密の抜け道に、細面の男が立っていた。
男――一砂の切れ長の瞳は、海も喜美江も意に介さず。ただ、紗夜だけを視界に収めていた。
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