第24話 夏-15

 かがんで薔薇を見つめていた雪千代が、「あ」と声を上げた。なに、と顔を向ける玻璃に、丸い爪の乗った指先が突き付けられる。

「目。おまえの変な色の方の目だ。それもっと近付けてみろ」

「こっち?」

 急になんだよ、と首を傾げながら。玻璃は素直に従った。

 菫色の目を、薄水色の薔薇に寄せる。

「……わあ」

 瞬く玻璃の眼前で、薔薇はその色を深くした。晴天よりも鮮やかで、夜空よりも深い、海のようにみずみずしい青。

「すごい」

 吐息混じりに呟く玻璃。その隣で、雪千代は何かを深く考えるようにして、青薔薇を見つめる。

「……そうか。わかった」

 頷きひとつ。雪千代は軽い足取りで、玻璃から数歩の距離を取った。

「どしたの?」問う玻璃。

「見てろ」とだけ言い、雪千代は口をつぐんだ。

 ふ、と雪千代の表情が変わった。三白眼に力がこもり、剥き身の刃のような、研ぎ澄まされた気配を纏う。外套に覆われた両腕は身体に沿うように垂らされ、足は肩幅に開かれている。空間に視線を固定したまま、深い呼吸をひとつ、ふたつ。

 玻璃は黙したまま、ただ雪千代の行動を見つめている。

 くっ、とその肩に力が入った。

 空気が冷えた、と玻璃が感じた、その瞬間。

「う、っわあ!」

 雪千代を中心として、その周囲の薔薇が真っ青に染まった。玻璃が見たどの薔薇よりも深い色。空の底、そして海の底を思わせる、青。青く青く、白い薔薇が瞬く暇もなく染まっていく。その色は、雪千代の傍らだけにとどまらない。水面に広がる波紋のように、円を描いて温室中の薔薇に広がっていく。

 白薔薇の園は、青薔薇の園に様変わりしていた。

 すごいすごい、と声を上げ、玻璃はぐるぐると回りながらあたりを見回す。見渡すかぎり、蕾も、八分咲きのものも、大輪のものも、舞い散る花弁さえも。全ての薔薇が青く染まっていた。

 ただただ「すごい」としか言えない玻璃を前に、雪千代は「どうだ」と言わんばかりの獰猛な笑みを見せた。

「こいつ、禍津日の力に反応するんだな」

「すごい、綺麗!」

 雪千代の言葉が、半分しか頭に入らない。自分の内側から、感情が溢れているからだ。青薔薇の海の中、玻璃ははち切れそうな感情を声に出すことしかできない。それも、ほとんど意味の無い言葉だ。説明しきれない、初めての衝動。声で発散しきれず発露する感情は、袴が乱れるのも構わず飛び跳ね、発散する。

「はしゃぎすぎだ」

「だって、だってだって!」

 すごい、と両手を握りしめ、玻璃は再び叫ぶ。それ以上に言葉が見つからないのだ。頬に両手を当てる。興奮で体温が上がっているようで、熱でもあるのかと思うほど熱い。視界が潤む。

 ふ、と青い薔薇を背景に、雪千代が頬を緩めた。猫目を細め、口元に柔らかい曲線を描く。先ほどまでの、威嚇する獣じみたものとは違う。優しい笑みだ。

「ありがとう!」

 たまらず、玻璃は両腕を広げ、雪千代をその中に閉じ込めた。背丈はほとんど同じくらいのため、肩に顎を乗せる。雪千代の頭に乗っていた学帽が傾くのも構わず、頭を寄せた。

 くるしい、と言う声にも構わず、感動と感謝を腕の力に全て投げ込む。分厚い外套越しだが、少年らしい骨格を腕に感じる。脆い印象のある線の細さだが、いくら力を込めても崩れない力強さもある。

 初めて頬を寄せた『ママ』以外の温度は、思うよりもずっと心地よいものだった。

「きみ、ぼくを好きになってよ」

「はぁ?」

 そうした時と同じほどの勢いで身体を離し、しかし肩は掴んだまま。玻璃は言った。

「きみと居たら、青い薔薇みたいな、初めて空を見た時みたいなどきどきにもっと出会えると思うんだ!」

 玻璃の紫の瞳は、これまで玻璃が思うと思わないとに関わらず、目を合わせた人間を魅了してきた。この目は、全ての人を玻璃に恋させる。

 例外は、目の前の雪千代だけだ。

 玻璃は心から右目に――右にとどまらず、元から持っているはしばみ色の目にも。

 両の目に、思いを込めた。

「だから、ぼくのこと好きになって、それからずっと一緒にいてよ」

 ねえ、と答えをねだる玻璃を前に。猫目を、薄い唇をぽかんと開き、雪千代は硬直している。青い薔薇の香りが、玻璃の鼻先をくすぐった。

「……逆じゃねえのか?」

 ようやっと返されたのは、呆れを多分に含んだ呟きだった。

「なんで? きみがぼくを好きじゃなきゃ、一緒にいる意味ないじゃない!」

 雪千代は傾いだ学帽を一度脱ぎ、「ああ、うん」という是とも否とも取れない言葉をこぼしながら、かぶり直した。学帽から漏れ出る巻き毛が揺れる。

 玻璃は眉を立て、唇をとがらせる。

「なにそれ。真面目に好きになってよ」

 まあ、そのうちな。後頭部を掻きながら、雪千代は元いた椅子へと戻っていく。

 その後ろを、玻璃は駆け足で追っていった。

 玻璃の巻き上げた薔薇の花弁が、ゆっくりと白さを取り戻す。それは空中で一度回り、ふわりと地面へ降りていった。



「君、ほんとうに変わったよね」

 行き交う者の無くなった坂道に、傾いた日は濃い影を落としている。

 傘を畳んだ玻璃は、視線を自身の半長靴(ショートブーツ)の先へ落としている。二年という月日の中で、汚れ、傷つき、手入れされ馴染んだ革の靴。玻璃は特にまろいカーブを描くつま先を気に入っている。視線をつま先に向けながら、しかし玻璃の意識は隣に座る少年へ向けられている。その革に刻まれた歴史の全てを知る少年へ。

 影よりも濃い外套を纏った少年は、日が傾くほど長い間、その目を開いていない。

 呼吸は穏やかだ。表情も、安らいでいる。ただ、脱力し身体に沿うように投げ出されたその手は、氷のように冷たかった。夏の、うだるような暑さに晒されていたというのに。

 玻璃の記憶の中にある彼は、いつだってやかましく、勝ち気で行動的だった。昼も夜もなく、街を走っていた。その手はいつだって温かだった。確かにそうだった。

今は。今日のように日がな一日、こうしてうつらうつらとしてばかりいる。

 いつからだったろうか。玻璃は記憶をさらっている。彼はいつから、なぜ変わってしまったのか。出会ったあの日から、今日までを、もう何度目になるかわからないほど、繰り返し思い出す。繰り返しても、なにもわからない。

 今の彼のことを、玻璃は変わらず好ましく思っている。いつか右の目を使わず、己の虜にする相手。手懐けられない野良猫の君。変わってしまったことを厭ってはいない。ただ、その変化が恐ろしかった。理由のわからない変化が。もう二度と目覚めなくなる日が、いつか来てしまうのではないか。変化の末に、彼が決定的なまでに変わってしまうのではないか。


 彼が、消えてしまうのではないか。


 玻璃は眠る少年の右手を握っている。握ったまま、うつむき、待っている。少年の手が温もるのを。少年が目覚めるのを。

 いつまでも待っている。

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