第23話 夏-14
授業時間の終わりを告げる鐘がなる。高い位置から響く音は、まもなく生徒たちの歓声にかき消された。
教師に続くように、色とりどりの着物や統一された黒一色が、教室から流れ出る。
十分程度の時間でも、彼らにとっては友人と語らい笑い合うのには充分な時間のようだ。
小走りに傍らを通り過ぎていくお下げ髪の一団を見送り、玻璃は己が川の中洲に立っているような錯覚を受ける。雪千代は、外套の下で腕を組み、壁に背を預けている。その視線は、流れる生徒たちを猛禽のように観察している。
生徒たちは、誰も玻璃や雪千代を見ない。玻璃は心中で首を傾げていた。
今までは、街中を少し歩くだけで、わざわざ振り返ってまで玻璃の金の髪を見遣る者がいたのだ。好奇心が旺盛な年頃の子供が、一瞥もしないとは。
それに、隣の雪千代は夏ももうすぐ盛りであるというのに、分厚い生地の外套を羽織っている。男子学生の中には、すでに詰襟の上着を脱いで生活している者もいるというのに。
「三雲のしわざだろ」と、雪千代は疑問を口にした玻璃へ答えた。
「あいつの蜘蛛は、人の知覚もずらせるんだよ。『気にするな』だとか、『もっと別の物に注視しろ』とか言ってるんじゃねえのか」
なるほど、と玻璃は頷く。一度その『囁き』を受けた身として、その説明は納得できた。
「あいつ、湯屋に居候してるだろ。あれも、蜘蛛使って湯屋の評判を上げてるから、居させてもらえてるんだとよ」
「へえ。どーめきちゃんって便利なんだね」
アダ名かそれ。と雪千代は顔をしかめた。
鐘がなる。生徒たちがさざめき合いながら、教室へと駆けて行く。
廊下には、再び静寂が満ちた。
「さっきはあっちこっち出歩いたが、授業中は特別出歩かなくてもいい。生徒の様子が見れなきゃ意味がねーからな」
うん、と玻璃は素直に頷く。
「休み時間の見回り以外は、おまえも好きにしろ」
「きみは普段どうしてるの?」
む、と雪千代は口をつぐんだ。引き結ばれた口元が、逸らされる視線が、言外に回答を拒否している。
答えを引き出そうと、玻璃は体ごと雪千代の視線の先に回りこむ。視線は、玻璃に合わせるようにして逃げる。
唇を尖らせ、玻璃は半眼で雪千代の頬のあたりを睨めつけた。
「……言わなきゃ後付け回すからね」
三雲に聞いたっていいし、と腰に手を当て胸を張る。
逡巡する間。雪千代の視線が何か答えを探すかのように、空中を彷徨う。
「……来い」
根負けしたような、沈んだ声音が落ちる。玻璃はにっこりと笑いかけ、心なしか肩を落としているように見える雪千代に続いた。
その温室は、新しい校舎と古い校舎の間、こぢんまりとした林の中に存在していた。外からは枝葉に遮られ隠されている、秘密基地めいた場所だ。
初夏の空気は、夏の盛りほどではないにしろ、じっとりとした暑さをはらんでいる。視線と共に風すらも遮る林の中であれば、それは一層強く感じられた。
温室の中は、さらに熱され空気がこもっているはずであった。しかし確かに暑くはあるが、そこは不思議と不快感の無い空気に満たされていた。
「薔薇だ!」
ガラス張りの天井から降り注ぐ日差しと濃い緑の葉の中に、純白の薔薇は競い合うようにして咲いていた。
全身でぐるりと一回転。玻璃は薔薇たちを全て覚えようとするかのごとく、視線を滑らせる。
「ここは年中温かいから、居心地がいい」
雪千代は、温室の奥にあった椅子にゆったりと腰掛ける。その向かいにもう一脚椅子はあるが、玻璃は空間に満ちる薔薇の芳香の中を歩く。
そっと、壊れ物に触る繊細さで、柔らかな花に触れる。
「すごいねえ。ぼく、こんなにたくさんの薔薇、初めて見た」
「おれも、ここ以外では見たことないな」
薔薇は地面にしっかりと根を張り、太い幹から細い枝を伸ばしている。八重咲きの花たちは、繊細な枝の先からこぼれ落ちそうなほど大きい。中心がふっくらと膨らみ、花弁はその姿と芳香を誇るように先端を反り返らせている。
温室は、見た限りではそれほど広くはない。先ほど校内で見た、生徒たちが授業を受ける教室程度だろうか。その中いっぱいに、薔薇の木立は広がっている。満開の花と同じ数だけ、蕾はある。まだまだ、花を楽しむことができそうだ。
いい匂い。と呟き、玻璃は大きく花開いた一輪に顔を寄せた。
「あれ?」
玻璃は、目を瞬く。玻璃が顔を寄せた一輪の薔薇。一点のくすみもないはずのその花が、じわりと色を変えたのだ。
花の内側から僅かに顔を覗かせたのは、青。絵の具を溶いた水を吸い上げたかのように、玻璃の目の前で白い薔薇が薄青く染まった。
「雪千代!」
「なんだよ」
ちょっと来て、と呼ばう玻璃の隣に雪千代が並ぶ。
「これ、なんか不思議」
「何が?」
「薔薇が、青く……?」
顔を上げた玻璃が、再び薔薇に目を落とした時。その薔薇は本来の白さを取り戻していた。
「何にもないだろ」
「そんなこと……さっきは確かに」
色の存在を確かめようと、玻璃は再び薔薇に顔を寄せた。
「わ」
その眼前で、白い薔薇が再びじわりと青を覗かせた。
なんだこれ。と雪千代が驚きをそのまま口にする。
「ね?」不思議でしょ。と空色の薔薇を目の前に、玻璃は得意気に言う。
「おれも初めて見た」雪千代の興奮気味の声が重なる。
「なんでだ? おまえなんか変なもんコイツにやったのか?」
「何もしてないよ」
玻璃が雪千代の方を向くと、薔薇は再び白く戻る。
「この薔薇だけか?」
「ちょっとまって」
玻璃は二、三歩移動し、別の開いたばかりの薔薇にまた顔を寄せる。すると今度はその薔薇が染まった。
「あはは、おもしろい」
「なんでだ?」
雪千代が玻璃を真似、顔を寄せてみるが、薔薇は染まらない。首をひねりながら、いくつかの薔薇を試してみるが、やはり薔薇は白いままだ。
「ぼくがかわいいからかな?」
「んなわけねーだろ」
うふふ、といたずらっぽく笑う玻璃を見遣る雪千代の視線には、呆れと少しの嫉妬が含まれていた。
高い位置から、足元にあるものまで、雪千代は薔薇の色を変えようと奮闘する。かじりつくほど近くに顔を寄せ、変わらぬ白さの薔薇を見て、少しずつ顔を離し、まだ変わらぬ薔薇にまた首を傾げる。穴が空くほど見つめても、薔薇はどこまでも白い。
そんな雪千代を横目にして、もっと薔薇をよく見よう、と玻璃は眼帯を外した。薔薇は花弁の先まで薄青く、雲を透かしてみた空のような澄んだ色をしている。心なしか、両目で見る薔薇はその青を色濃くしているような気がしていた。
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