第22話 夏-13
翌朝。玻璃の予想に反して、雪千代は正門の前に立っていた。
「意外だ」
「なんだよ」
思いをそのまま口に出した玻璃へ、雪千代は眉間に深い皺を刻む。
昨晩、三雲に玻璃の案内を頼まれた雪千代は、「面倒くさい」と何度も漏らしていた。重ねて、玻璃と組め、と言われた時にも「嫌だ」という言外の主張をしていた。歓迎されていないのだな、と玻璃は感じ取り、元から約束などないものとして、期待せずにいたのだ。
登校時間の過ぎた正門は静かに佇み、黒い石に刻まれた校名だけをひっそりと提示している。夜の気配をごく薄く残した空気はみずみずしく、夏の日差しはまだ遠い。
「きみ、意外と面倒見良い?」
「すっぽかすと後が面倒だからだ」
いくぞ、とぶっきらぼうに言い放ち、雪千代は夜色の外套を翻した。
校内は、人の気配の濃淡が激しい。等間隔に並んだ引き戸の向こう、教室の中では、生徒たちが教科書や帳面(ノート)をめくる微かな音を重ね、濃い気配を作り出す。そこに教師の声だけが響き、木張りの廊下の人気の薄さが強調される。
初めて見る『学校』という建物の中を、玻璃は物珍しげに見回す。
「教室は全部この棟にある。教師は一階の職員室に行けばだいたい居る」
「うん」
「学長はさっき行った学長室。居ない時は学内うろついてるから、適当に探せ」
わかった、と応える玻璃は、先ほど会った学長の姿を思い起こしていた。厳しそうな人だな、というのが第一印象だった。河合、と名乗ったその女性は、老齢に近い年齢に見合わぬ佇まいをしていた。太い芯の通った声と、姿勢をしていた。
「怖そうな人だったね」
先を行く雪千代に小走りで並び、囁く。学帽の影からちらりと視線を寄越す雪千代は、そうか? と疑問符つきで返答した。
「教師は皆あんな感じだろ。あいつが特別ってわけじゃない」
「そうなの?」
「見てりゃ、そのうちわかる」
廊下の端、上りと下りの階段の前に到達した雪千代は、その歩みを止める。
「上は学年が違うだけでこっちとほぼ同じだ。見ても面白くもねぇから、旧館行くか」
「そうだね。……ところでさ」
何か気付かない? と玻璃は雪千代へ問いかける。
「なにを?」
「ぼく。昨日とちょっと変わってるでしょ?」
「……着物の色か?」
「ちがう!」
これ! と、玻璃は右の前髪を掻き上げた。そうすると、いつもは視界が開けるのだが、今日は違う。玻璃の右の視界は暗く覆われたままだ。
「眼帯だな」
と雪千代が呟く通り、玻璃は右目を白い眼帯で覆っていた。
昨夜、帰り際に「その目は隠しておけ」と三雲から言われたのだ。右目の力を使いすぎ、噂になると良くない、というのがその弁だ。
噂になっても、その時はまたこの目でどうにでもできるのに、と玻璃は思ったが。面倒事は予防するに越したことはない、という三雲の言葉にも一理あると思えた。
それに、眼帯をしているのも映画や物語の登場人物じみて洒落ている、と思えたのだ。
「……もっと何かないの?」
眼帯である、という事実を告げたきり口をつぐむ雪千代へ、玻璃はその先を催促する。
よく見えないのか、とばかりに顔を寄せる玻璃。寄せた分だけ後ろへ引きながら、三白眼の猫目がしかめられる。
「無いだろ。普通」
近い、と肩を押され、玻璃は不満を主張し唇をとがらせる。一瞥する雪千代の視線は、相変わらず睨んでいるかのような鋭さを持っている。怒っているのか、と思うが、その口調から怒りのようなものは感じられなかった。
怒っているわけでもないのに、雪千代の瞳は怒りを錯覚させる。
「……思ったんだけどさ、きみ眼鏡かけたら?」
「目つきが悪いのは元からだ。目が悪いわけじゃねえ」
生徒の往来を十数年に渡り受け止め続けた階段は、二人が下るその時も軋まない。調子よく半長靴(ショートブーツ)のつま先を鳴らしながら、玻璃は光沢のある手すりに指先を滑らせる。
「違うって。度が入ってないの。眼鏡かけてたら、見た目の悪さがちょっとはマシになるんじゃない?」
「……不細工でわるかったな」
返答する雪千代の声色は、先ほどよりも低い。慌てて玻璃は首を振る。
「違うって! 目付きの悪さがマシになるってこと! きみは充分かわいいよ」
かわいい! と重ねて告げる玻璃。踊り場に差し掛かった雪千代は、明かり取りの大窓から差し込む淡い光の中、学帽のつばに指を掛けている。その横顔は、玻璃からは見えない。
「……そうかよ」
「ほんとだよ? 猫みたいだと思う」
「ほめてんのかそれ」
玻璃は未だ階段に立っている。数段下の雪千代は、自然と見上げる形になるが、学帽の下の目つきの鋭さは相変わらずだ。
「うん」
微笑み、頷く玻璃から、視線はふいと逸らされた。
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