第19話 夏-10
目深にかぶられた学帽。体を覆い隠す外套。力強く地を踏むのは、革の長靴(ブーツ)。それらは見るものに一瞬で、護帝高等学校の男子学生だ、と判断させる。
夜色の装束に身を包んだ声は、軽い。せいぜいが玻璃や少女と同じか、少し上くらいの年頃に聞こえる。
少女の知り合いか、と思い横目で伺うが、少女の表情には玻璃と同じ戸惑いが浮かんでいる。
「誰?」
「誰でも構わねえだろ。いいから離れろっつってんだ」
乱暴な物言い。ムッと玻璃は眉を寄せた。
「急に割り込んで、その言い方はないんじゃない?」
耳慣れない、軽い金属音。それは刃が鞘から解き放たれた音だ。抑えた悲鳴が玻璃の隣で上がる。
「……何の真似?」
「こっちの台詞だ」
薄い月光の下ですら、刃は冷たく光っている。軍人がその腰にさげているものと同じ軍刀。少年には不釣り合いな切っ先が、玻璃に突き付けられている。
「行け」
玻璃にではない。隣の少女に向かい、少年が命じる。少女の戸惑いが、張り詰めた空気越しに玻璃へ伝わる。
「いいよ。早く帰りな」
玻璃は、目の前の少年が自分にしか殺意を向けていないことを、感じ取っていた。唇だけで薄く笑み、少女を促す。でも、と少女は声にならない言葉で問う。あなたは?
「いいから」
玻璃はちらり、と右目で見遣り、もう一度少女を促す。菫色の視線の先で、脆い造形の肩が震えた。
初めの二三歩は恐る恐ると。後ずさるような歩みは、直後弾かれたような走りになっていた。
夜の静寂に、少女の足音が吸い込まれ、消える。
「……で? 離れたけど?」
「とぼけるなよ『殺人鬼』」
「さつじんき?」
「先月。それから二週間前の殺し。テメエの仕業だろ」
なにそれ、と玻璃は思ったままを口に出していた。鋭い刃のその向こう、金属よりも鋭い視線が凶暴に光る。
「とぼけんなっつってんだろ!」
塊だ、と玻璃は思った。見えないが、確かに形を持っている。殺気の塊が、投げつけられている。実際には投げつけられているのではなく、斬りつけられているのだが、玻璃にはそう感じられた。
だから、とっさに手にした日傘を構えていた。受け流すように、地に対して平行に、両の手で。
傘は、見た目には軽い鉄と布でできている。淡い色で、玻璃好みの少女趣味な飾り襞(フリル)で飾られた、雨天でも使える日傘。それは、玻璃が家を出ると決めた日に、月桂樹の君から贈られたものだ。
月光と遠巻きな街灯の灯りの中、ぱっと橙の火花が散る。日傘は、布一枚すら損なうことなく、少年の刃を受け止める。
わ、と玻璃は感嘆の声を上げていた。
日傘と刀の火花の向こう、少年の猫目が見開かれる。
やはり猫のような身軽さで、外套を纏った肢体が飛び退る。一呼吸の間。そして、舌打ち。
「妙な匂いさせやがって……」
今にも唸り声を上げんばかりの凶相で、少年が吐き捨てた。爪でも牙でもないが、少年の得物は獣の気配で夜の中尖る。
「さっきから何言ってるのかわかんないよ」
ぼくの話も聞いて、と玻璃はさり気なく髪を掻き上げた。やせ細った月明かりに、右の目を晒す。
少年の三白眼と、菫色の視線が絡む。闇のせいか、興奮のせいか開いた瞳孔は、夜空よりなお黒い。
「変な色だ」
吐き捨てられる言葉。あ、と玻璃は声を上げていた。少年の、獣の気配。覚えがあるそれ。
ぬるい日差しの中、同じ空間で向き合った数瞬。手懐けられない野良猫に似た行動。苛立ちながら噛み付いた、サンドイッチの匂い。
彼だ、と思った瞬間、下方から銀線が迫った。
殺気は未だ尖り玻璃へ向かう。初めてだった。紫の瞳――『ママ』の加護から外れたのは。
戸惑い、動揺し。思考は間に合わない。
「ちょっ……と待ってってば!」
空回った思考は、悲鳴じみた叫びになっていた。とにかくまず、止まれ。それだけを乗せた、声。
空隙。月と、星のひそやかに囁く声が満ちる。
少年の腕が止まっていた。玻璃に向かった白刃が、地に突き立つような格好で静止している。時が止まったかのように感じられる世界の中、それが間違っていることを、少年の手が示していた。柄を握る両の手が、ぶるぶると震えている。渾身の力を込めているように。
事実、少年は全身の力で持って刀を振り上げようとしていた。だが、それは成されていない。
「なん……っだこれ!」
困惑が、声に乗っていた。
「え、んん?」
同調する困惑。しかし玻璃の感情は、すぐさまに切り替わる。目の前の困惑は、自分が生み出したことだ、と玻璃は理解していた。少年の持つ刀と地面が引き合う力を強めたのだ。
「引力」
ぽつり、と口に出していた。天啓のように、力の意味が、どう意識すれば力を行使できるのかが、脳裏に浮かぶ。それは物を掴む行動と同じくらい、単純で簡単なことだった。どうして今までわからなかったのか、理解できないほどに、玻璃は自然と力を受け入れた。
そして玻璃が手にしている傘が、どんな暴力に晒されようとも折れず、破れず、損なわれないものだと。
ママ、と呟く玻璃の声に、なあに、と答える幻の声が重なる。
「ッだあああああああ!!」
腹の底からの気合。広げられた両の足が、地へめり込むほどのそれ。応えるように、僅かにだが少年の持つ刀が持ち上がった。玻璃へ向かう殺気は止まない。
玻璃はもう惑わない。
瞳で止められないのならば。
「実力行使!」
玻璃は棍のように傘を振りかぶった。着物の裾が乱れるのも構わずに、しっかりと柄を握る。振り下ろす瞬間傘と地面が引き合う力を『強める』。
日傘の腹で、玻璃は少年の頭を殴った。上から振り下ろす力は、傘と地面で引き合い倍増する。ばかん、という鈍い音と共に少年の頭、次いで上体が揺れる。
思いっきり頭を殴れば、人は気絶する。玻璃は無声映画(トーキー)で見た光景を思い起こしていた。引力はうまく掛かった。威力は申し分ないはずだ。
よし、と内心で玻璃は拳を握る。
「……ッいってぇなコラ!」
生まれたのは罵声だった。揺れた上体が勢い良く起こされ、ぎらり、と少年の目が光る。
「あれえ?」
「テメ、ぜってぇ泣かす!」
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