第18話 夏-9
初夏の日が地の下へ隠れ、それでもゆるゆると手を伸ばしていた残照すらも消え去って。ようやっと夜が来た。痩せた月はすでに天の高い位置に座している。
駅前を彩る商店は、その顔ぶれをがらりと変えていた。日の高い時間に客を招き入れていた、土産物や飲食店はひっそりと眠り。昼日中に沈黙していた店は、店先を明るく照らし、街の住民や近隣の宿泊客を手招く。灯りは表通りよりも、一つ裏へと潜り込んだ少し細い通りから、より多く漏れ出している。
日中ほどの熱気は無いが、それ故にじっとりとした欲望を掻き立てる。夜の店からは女と男の嗤いが漏れる。
溢れでた忍び笑いと橙の光の中、玻璃はひとり歩いていた。特別用事がある、という足取りではない。気の向くまま、足の向くまま。時折酔客に声を掛けられ、それを軽くいなしながら。日中そうしていたように、ぶらぶらと散歩していた。
いつもなら、湯を浴びて宿にあてがわれた部屋で布団の上に寝転がっているところだ。そうせずにこうして迷い出ているのは、ひとえに思いつきからだった。夜の街に出たことが無い、とふと思い立ったのだ。
時刻は、少女がひとりで歩いていてもよい時では無い。禁止されているわけではないが、安全ではない。第二城塞都市に駐留する軍が、治安を維持し巡回し、目を光らせているとはいえ。常にその目はあるわけではない。
それでもひとり歩く玻璃には、『目』があった。
今も、物珍しい金の髪に触れようとした男を、視線ひとつで止めたところだ。男は玻璃の無言の命令を聞き、店々の間に口を開ける暗い小道へふらふらと消えていった。
「つまんない」
半時ほど歩いたところで、玻璃はそう断じた。
夜の街は、玻璃のような年頃の少女向けには作られていない。呼びこまれるのは、もっぱら酒の飲める年齢の男だ。時折女を呼びこむ店もあるが、それも玻璃にはまだ早い。
歩けども、玻璃の興味は引かれず。ぐるりと見て回るのも済んでしまったし、いちいち酔客を相手にするのも疲れてきたところだ。
「帰ろ」ひとりごち、くるりと手にした傘を回した。
下品な笑いを上げる男たちの間をすり抜け、玻璃は細い道へと至る。裏通りから、表の大通りへと向かう。宿へまっすぐに向かうには、その方が早い。それに酔客も少ない。
さて、明日は何をしようか。また街を歩きまわってみるのも良い。しかし三雲が言う仕事の紹介は、いつになるのか。もしすることを思いつかなかったら、また三雲のところへ行ってみるのも良いかもしれない。
思い、玻璃は再び上機嫌に傘を回した。
「きゃ」その傘の先端が、玻璃よりも先に表通りへ飛び出した。同時、細い悲鳴が上がる。
あ、と玻璃は表通りへと飛び出す。
そこで、踏み固められた地に尻もちをついた少女を見た。
彼女は、玻璃よりも幼い顔立ちをしていた。三つ編みにし、両肩にたらされたおさげ髪が、余計にその幼さを際立たせている。矢絣の着物に、渋く暗い色の袴。学生だ、と玻璃は瞬間で判断した。
「ごめん、当たっちゃった?」
「いえ、ちょっと、びっくりはしたけど……」
大丈夫、と言いながら、少女は胸の上に手を当てていた。驚きで高鳴る心音を、外に漏れ出さないようにしているかのようだ。その傍らに、厚手の本が落ちている。革張りで、重厚な雰囲気を纏っている。それに気付いた玻璃は、しゃがみ手に取る。
「きみの?」土埃を払い、少女に手渡す。
「ごめんなさい」受け取る少女は眉尻を下げ、次いで頭も下げる。
「ぼくのせいだから、謝ることないよ」
「いえ、あの……わたしもぼんやりしてて」
だからその、の後に続く言葉は、少女の口の中でもぞもぞとするだけで、玻璃の耳に届くことはなかった。
「立てる?」
差し出された手は、ごめんなさいのひと言と共に取られた。
「こんな時間にひとりで歩いてるなんて、危ないよ?」
「ちょっと、貸本屋さんに行ってたら夢中になっちゃって」
「学生さん? だよね」
「はい。護帝学校一年です」
少女の言葉が、玻璃の好奇心の袖を引いた。女学生、という生き物に接するのは、これが初めてだ。夕刻あたりに街を歩けば、かなりの確率で行き合うのだが、皆似た着物に同じ袴の群れで行動している。紫の目を使えば、その中に割り込めないこともないのだろうが。それでは意味がない、と玻璃は思っていた。
もう少しだけ、話してみたい。
うん、と頷き、玻璃は己の行き先を変更した。
「驚かせちゃったお詫びに、送ってってあげる。夜道は危ないからさ」
「え! あの、悪いです」
「いいからいいから。おうちはどこ? 近い?」
「いえ、寮に……」
「そう。じゃあ行こう」
学校の敷地の中だよね? という問いかけに、少女は素直に頷いた。玻璃が先に立って促すのにも、よく懐いた犬のように従う。
ふたりは連れ立って歩き始め。
「止まれ」
止まった。
声は背後から響いていた。振り向く玻璃に、遅れて少女が続く。
「……そいつから離れろ」
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