第16話 夏-7

「知る必要が無いからだろ。強大だとは言っても、こっちには干渉してこない。欠番だって居るくらいだしな」

「そうなの?」

「五百以下のヤツでも、ここ十年は顕現していない。顕現した記録があるヤツで一番高位なのは、五十年以上前に呼び出された第十三階位。真偽は定かじゃねえが、天帝の持つ剣に封じられたとかで、欠番なのもこいつだ」

 ふうん、と玻璃は鼻先で相槌を打った。月桂樹の君がそこまで考えて口をつぐんだのかは、わからない。彼女は人の枠から外れた相手だ。彼女なりの考えがあるのだろう、と己を納得させる。

「見ることのない相手について知っても、情報の持ち腐れだろ」

「そうだねぇ」

「そうだろ」

 再度、三雲は端までインクを埋めた紙を傍らへ放る。書き付けは、街中に放たれた小蜘蛛が得て、百目鬼蜘蛛へと運んだ情報を三雲が読み取ったものなのだろう。玻璃はそう見当をつける。休みなく書き取る内容は、玻璃の位置からは見えない。それでも膨大な量であろうことは、見て取れた。

 玻璃は紙色の指先で踊る、万年筆の硬質な煌めきを目で追っていた。

「で、おまえの目は何なんだ?」

「……それ言わなきゃダメ?」

 菫色の瞳を得た詳細について、意図的にぼかしていたのだが。三雲は気付いていたようだ。

「言いたくなきゃ別にかまわん」

 後で蜘蛛が教えてくれるだろうしな。という三雲の言葉に同意するように、玻璃の手の甲に乗る蜘蛛が前脚を上げた。

 過去の事柄も、小蜘蛛は収拾できるのだろうか。三雲の言い草から推察するに、時間は掛かるができなくもない、という所であろうか。

 ううん、と唸り、玻璃はしばし口を閉じていた。

「じゃあ、簡単に。ぼくのこの目は、ママがぼくを助けるためにくれたの」

「対価は?」

「対価?」

 耳慣れない言葉を、玻璃は鸚鵡返しに問い返す。

「禍津日から力を得るのには、対価が必要だろ」

 対価、対価。玻璃は初めて耳にした言葉を覚えようとするかのように、繰り返す。頭の中身をひっくり返し、その言葉に近いものを探す。思考と三雲の言葉へ集中するために、手の上で遊ばせていた小蜘蛛を畳の上へと下ろした。

「わかんない」

 それでも脳裏に浮かぶ事柄は無かった。

「わからん?」

 三雲の言葉に、初めて困惑という色が乗った。

「対価、っていうのかなぁ。ママはぼくの元の目と交換していったけど」

「……対価なのか?」

 あの禍津日ならあり得るか? と口の中で何事かを呟きながら、三雲は重ねた紙へと万年筆を走らせる。

「あなたは、どーめきちゃんに何かあげたの?」

「見てわからんか?」

「わかんないから聞いてるんじゃん」む、と玻璃は眉を寄せる。

「色だよ。オレ自身が持つ色の情報」

 はた、と玻璃は瞬いた。相変わらず文机へ視線を落とした男の、一筋流れた前髪の先。ぞんざいに伸ばされ、ひとくくりに纏められた髪は根本まで白い。

「それを持っていかれた。この情報と引き換えに」

 三雲は背後に山となる紙束を立てた親指で示した。玻璃の身長ほどの高さまで積み上げられ、貯めこまれた紙束。雪崩を起こすほどまでに蓄積されたそれは、今も三雲の手元で増殖を続けている。

「だから、白いんだ」

「そうだ。おかげさんで陽の光がダメになった」

 ついでのように落とされたひと言。玻璃は首を傾げる。

「なんで?」

「色が無いと、日光で皮膚が焼けるようになる。ちょっと顔出しただけで大やけどさ」

 陽の光は、玻璃にとっては温かく心地の良いものだ。それで火傷を負う、ということは想像がつかない。

「……大変だねぇ」それでも、外に出られないことの苦痛は理解できた。

「そうでも無いぜ?」

 三雲は肩をすくめ、こともなげに言ってのけた。肩が凝ったのか、一度だけぐるりと右腕を回す。

「オレはこうして蜘蛛からの情報を保存しなきゃならんからな。出かける暇は無いさ」

「それはそれで大変そうだけど」

 しかし、苦痛ではないといった三雲の表情に偽りは無かった。伏せた視線、その顔には、ただひとつの目的――情報を残す、ただそれだけに向かう信念が宿っていた。決して己の利益だけに依らない、何か確固たる忠義に裏打ちされた、意志だ。

 いいな、と玻璃は思った。玻璃には目的が無い。家を捨て、血縁を捨て、名前を捨て。この街へ来たのは、ただの偶然だった。飛び乗った列車がたまたま、この街へ辿り着いたのだ。もし列車が反対方向――この島国の果てへ向かっていたとしても、それで構わなかったのだ。

 欲しいな、と思った。目的が、渇望が、一心不乱にそこへ向かう情熱が、欲しい。そう思った。

 探そう。この街で、ぼくの目的を。玻璃は紙色の男と向き合いながら、決めた。

 その前にまず、目の前の男の目的へ付き合うことにした。

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