第15話 夏-6
「オレは三雲(みくも)。ここに居候してる、情報屋みたいなもんだ」
「目見て話してよ」
玻璃は、そこにすら色のない男のまつげの先を睨む。
「オレは相手の目を見て話さなくても心が痛まないんでね。それにその目について知ってるって言ったろ」
男は黒インクで汚した紙を傍らへと放る。手探りで真新しい紙を手に取ると、再び目の前の文机へ乗せ、また何かを書き付け始める。一連の動きは、元からそう作られた機械のようになめらかだった。
玻璃を前にして、自己を崩さない。柳眉を寄せる表情すら、目に入れていない。
「あんた、何なの?」
「おまえ、ここへは自分の意思で来たと思うか?」
唐突な問いかけ。ものを問うのは自分の方だとばかり思っていた玻璃は、虚をつかれた格好になった。
「……何言ってんの?」
あたりまえじゃん、と呟く声音には、己でそうとわかるほど困惑が多分に含まれていた。
「それが違うんだな。膝のあたり、見てみろ」
言われるがままに目を落とす。視線の先、姿勢を正して座る玻璃の膝の上には、小さな蜘蛛が乗っていた。小指の爪ほどの大きさしかない蜘蛛だ。突然ではあったものの、玻璃は虫が苦手ではないので驚かない。
「蜘蛛だね」
「それがオレの眷属だ」
正確にはオレが信仰する禍津日の、だが。そう告げながらも、三雲の手は休みなく動く。
「……禍津者?」
「そうだ。良く知ってるじゃねえか」
顔を文机に向けたままだが、言葉の端から三雲が薄く笑んだことを玻璃は感じ取った。
「オレが信仰するのは百目鬼蜘蛛(どうめきくも)。情報の流布と忘却を司る禍津日だ」
「どうめき……くも?」
「百目鬼蜘蛛は眷属の辻蜘蛛(つじくも)――おまえの膝に居るヤツだ。そいつを使ってそこいらの噂や情報を手当たり次第に集め、食う」
玻璃は膝の上につくねんと乗っている蜘蛛に目を落とす。小さく、脆い、ただの蜘蛛にしか見えない。それでも三雲は、これもれっきとした禍津日のひとつだと言う。
にわかには信じがたいが、玻璃には覚えがあった。蛇の半身を持つ美しい女が教えてくれた事柄のひとつ。
禍津日は強く恐ろしいものだけではない。吹けば飛ぶような、ささいで矮小なものもいるのだ。そういった小さな禍津日は、彼らに見合った小さな事柄を司る。
「オレは蜘蛛が食った情報を失敬して、色々と利用させてもらってる。それからたまに辻蜘蛛を使わせてもらうこともあるな」
「使う?」
「今日みたいにな」
小さな蜘蛛を使って、何をするのだろう。三雲に対する苛立ちは、好奇心にかき消されていく。
膝の小蜘蛛としばし見つめ合い、相変わらず手元から目を上げない三雲へと視線をやる。
「どうするの?」
「囁く、って表現するのが一番近いだろうな」
聞いてろ、と言い、三雲は一時だけ手を止めた。
唐突に、なんだか甘いものが食べたい、と玻璃は思った。特に話題に上ったわけでもない。空腹というわけでもない。むしろ満たされているというのに、だ。そもそも、ここへ来る前にあんみつを食べたのだ。
玻璃は頭を傾けた。
「甘いもんが食いたくなったか?」
「うん」
素直に頷く玻璃。三雲は得意を声音ににじませるでもなく、至極当然の事柄を説くように言う。
「そこの蜘蛛で、おまえに『囁いた』んだ。甘いもんがほしくないか? ってな」
はたと瞬いて、玻璃は再び膝の小蜘蛛に目を落とした。先ほどと変わらず、蜘蛛はただそこにいるだけだ。特別な動きも無い。
三雲は『囁く』と言ったが、何か言葉が聞こえたのではない。そのことから、蜘蛛は言語を越えた別の手段で精神に干渉した――『囁いた』のだろう、と玻璃は見当をつけた。
「もしかして、今日ぼくがここに来たのも」
「そうだ」こっちに来い、って誘導したのさ。再び手元の紙を替えながら、三雲。
「……すごいねえ」
玻璃は関心しきりだ。もはや一度もこちらを見ない三雲の態度すら、気にならない。
「おまえは?」
「え?」
「おまえの信仰する禍津日だ。その妙な目は禍津日から得たんだろ?」
「これは……」
ううん、と玻璃は言いよどんだ。玻璃を薄暗い檻から出し、そして家を捨てさせた目。前髪の上から、傷口にそうするようにそっと触れる。己の指の感触が、同じように触れた女の細い指先を想起させる。
「信仰、っていうのとは違うと思う。ぼくにこの目をくれたのは、月桂樹(げっけいじゅ)の君(きみ)って言うんだけど」
「月桂樹の君ね。――愛欲と引力を司る禍津日か。なるほど」
頷き、三雲は手元の紙の上にもう一枚、別の紙を重ねた。そこへ、おそらくは玻璃の言葉を書き付ける。そうしながらも、合間に下の紙へも書き付けを続けている。
「ママのこと知ってるの?」
「千階位から外れてるとはいえ、有名所だからな」
「他の禍津日のことも知ってる?」
自然、玻璃の姿勢は前のめりになる。
「千階位は全て。あとは人との接触が多いヤツなら」
「この蜘蛛ちゃんが集めてくれた情報?」
膝に乗る蜘蛛へ指の背を差し出し、玻璃は問う。小さな蜘蛛は、存外素直に差し出された指先へ足を掛けた。
「そうだな。人と接触するとなると、こっちに顕現するだろ。そしたら蜘蛛が察知して勝手に情報を持ってきてくれる」
「千階位は? 滅多にこっちに来ないってママは言ってたよ」
「千階位については、親玉――百目鬼蜘蛛の方だ。そいつから聞いた」
「知ってるの? どーめきちゃんが?」
妙なアダ名をつけるなよ、と三雲は玻璃へ釘をさす。
小蜘蛛は玻璃の指の上をその短い脚で歩きまわっている。あるかなしかの足跡が、玻璃の皮膚へ僅かなむず痒さを寄越す。玻璃は蜘蛛を落とさないように気をはらいながらも、指を広げ、傾け、遊んでいた。
遊びながらも、意識の大半は三雲へ向けている。
「千階位は、禍津日の中で最も強大な千柱だ。少し頭の回る禍津日なら、皆どこかしらで知るもんらしいぜ」
「ママは、教えてくれなかった……」
唇を尖らせ、玻璃は人差し指から中指へ、爪の先から移動する蜘蛛へ視線を落とす。脳裏には、気まぐれなきらいのある女の微笑が浮かんでいた。
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